本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(16p~19p)

2016-02-14 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
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<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 よってこの日記に従うならば、旱害によって苦悶していた赤石村を甚次郎が慰問していたのは実は大正15年12月25日であったということになろう(おそらく甚次郎は、この日は大正天皇が崩御した日だったからそれを憚って巻頭にはあのように書いたに違いない)。
 さて、これで一応疑問は解けたのだが新たな疑問が生じてきた。甚次郎が「小(ママ)供ニ煎餅」を配りながらこの村を見舞ったというくらいだから、この時の赤石村の旱害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろうから、「下根子桜」に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私からすれば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。
 そこでまずは、当時の赤石村の旱害等に関する『岩手日報』の関連記事を調べてみた。すると例えば、以下のような報道等がなされていた。
◇大正15年12月7日
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
(日詰)五日仙臺市東三番丁中村産婆學校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙を添へ小包郵便が届いた文面に依ると
 日照りのため村の子供さんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私の苦學してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので晝飯持たぬ子供等に分配してやつた
 この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱害の惨状は岩手県内だけでなく、宮城県は仙台にまでも知れ渡っていたであろうことである。
◇同年12月15日
 赤石村民に同情集まる
     東京の小學生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波赤石地方の農民は日を經るに隨ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感泣してゐる數日前東京淺草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から川村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまつてゐることをお母から聞きました、わたし達の學校では今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかつたので、お小使の内から僅か三圓だけお送り致します、不幸な人
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった 
々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸です
 したがって、これらの報道からは、この年の赤石村等の旱害による農民の窮状は東京方面でも知られるところとなり、そのことを知って小学生でさえも救援の手を差し伸べてきたことがわかる。
 もちろん地元でも義捐の輪は広がっていて、
◇同年12月16日
かねて勞農党盛岡支部その他縣下無産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の慘狀義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締きり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出發し悲慘な村民を慰める事となつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害慘状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販賣しそのあがり高を全部、赤石小學校児童に寄附することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた
というように、労農党盛岡支部や紫波郡彦部村第二消防組なども義捐金を寄付したりしていた。
 あるいは、
◇同年12月20日
  在京岩手學生会 旱害罹災者を慰問
    學生及先輩有志より醵金をして寄附
東京岩手學生會は紫波地方かん害罹災者慰問の計畫を樹てその第一案として學生より醵金をする事第二案としては先輩有志より醵金する事になり今囘實狀調査のため明治大學生佐々木猛夫君來縣したなほ第三案として學生が縣の木炭を販賣してその純益金を救濟に向くべく決定し同上佐々木君は本縣の木炭業者に交渉する使命をもつて來たのであると佐々木君は語る
 かん害救済の事については此のあひだ東京廣瀬、田子、柏田の各先輩及び學生があつまつて相談をしましたが何れ實地調査してから積極的の方法をとらふといふ事にきめました。學生の木炭販賣は既に秋田學生會でも實行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の學生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
というように、在京学生も動き出し始めていた。また、地元の青年や少年たちも同様で、
 紫波旱害に同情 一関年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲慘なる狀態に同情し一の關年有志は本月十八日午後五時關(?)座に於て活動寫眞會を開會し純益金を赤石村民救済資金として贈る事にした
という報道もあった。
 そして、甚次郎が赤石村を慰問した25日の3日前には、
◇同年12月22日
  米の御飯をくはぬ赤石の小學生
    大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同勞働組合吉田耕三岩手學生會佐々木猛夫兩氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張しなほ役場學校について調査したが、その要領左の如し
一、役場
(イ)植附け反別は四百一反(ママ)(正しくは町)歩でかん害總面積は三百十五町歩、その中全然収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸數は百六十戸である(同村の總戸數は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出來る)このうち小作人の戸數は六十戸である。    …(筆者略)…
二、學校
全然晝飯を持參せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は晝飯を持參されぬ事を申出でゝ役場の救濟をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又學用品を給與した者は十六人であるが、晝飯の内に麥粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
というような赤石村の旱害関連報道があり、特に、この記事の中の「同村三分の一は米一粒も取らなかつた」という旱害の酷さに吃驚してしまうし、学校に弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。
 したがって、甚次郎はおそらくこの12月22日の記事を見て居ても立ってもいられなくなって、同25日に赤石村を慰問したに違いない。
 とまれ、大正15年の紫波郡、とりわけ赤石村は未曾有の旱害に見舞われということが広く知られ、遠く都会の小学生を含む多くの人々からの義捐が陸続と届いていたのであった。そしてその中の一人に甚次郎もいたということになろう。

 賢治一ヶ月弱もの滞京
 さて、甚次郎が「每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた」というところの大正15年の12月は、私のかつて抱いていた賢治像(「下根子桜」に移り住んで、貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた賢治、という)からすれば、まさにそのような活動を展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだが、当時賢治がそうしたという資料も証言も私は何一つ見出せないでいる。
 ちなみにその頃の賢治の営為等については、『新校本年譜』等によれば大正15年の、
11月22日 この日付の案内状を発送。伊藤忠一方へ持参し、配布依頼。
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義。
12月1日 羅須地人協会定期集会を開き、持寄競賣を行ったと見られる。。
12月2日 澤里武治に見送られ、チェロを持って上京。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
12月4日 前日の報告を父へ書き送る(書簡220)
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席(書簡221)
12月15日 父あてに状況報告をし、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
12月20日前後 父へ返信(書簡223)。重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校へ画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
12月23日 父あて報告(書簡224)。二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
ということだから、賢治はほぼまるまるこの年の12月は上京し、滞京していたことになる。
 そしてそもそも、「羅須地人協会時代」に現金収入の目処など全くなかった賢治が、どうやってこの時の上京・滞京費用を工面したかだが、次のような三つが主に考えられるだろう。
  ・蓄音器(〈注六〉)の売却代
  ・持寄競売売上金
  ・父からの援助
次に、それぞれについて少しく説明を付け加えたい。
 †蓄音器の売却代
 当時賢治と一緒に暮らしていた千葉恭のこのことに関する次のような2つの証言が残っている。その一つ目は、
 雪の降つた冬の生活に苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。…(筆者略)…雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円迄なら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがらを見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮んだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが、「先生のものですなーそれは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円私の手に渡して呉れたのでした。…(筆者略)…。「先生高く賣つて來ましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差出した金を受取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何んだか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して嬉んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。先生は非常に正直でありました。三百五十円の金は東京に音樂の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。
<『四次元 9号』(宮澤賢治友の会)21p~>
というものであり、そして二つ目は、
 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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