本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (65p~70p)

2016-01-31 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》












 続きへ
前へ 
 “『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
このような指導の一環として賢治からは施肥の指導も受けたことであろう。その具体的な一つの例がこれら3枚の施肥表であり、おそらくこれの3枚は千葉恭及び「研郷會」の他の会員分2枚を千葉恭が取りまとめて下根子桜に持参し、賢治に肥料設計を依頼したものに違いないと確信した。
 なお、これら17枚の施肥表のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると同『校本全集』の〝校異〟にはただし書きがある。したがってこの3枚の施肥表にも同様提供者名の記載があればことは簡単に解決するはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載はなかった(おそらくこれらの施肥表の原版にはその提供者名のメモがあるのだと思うが、『校本全集』にはその氏名が記載されていないだけのことと思う。さもなければ貴重な資料の取り扱いのマナーに反するはずだからである。いつか機会があればこれらの原版を是非見せてもらいたいものである)。
 こうなれば、一刻も早く千葉恭の長男のB氏に会いたくなってきた。そして田圃の確認をし、千葉恭の実家の近くには
 〝町下〟だけでなく〝堤沢〟及び〝中林下〟
という地名もあるのかを確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの〔施肥表A〕は百%賢治が千葉恭に頼まれて設計してやったものだろうと断言出来ると思ったからである。

2 千葉恭の長男に会う
 みちのく岩手に植田の緑が広がる6月のある日、私はわくわくしながら国道4号線を南下して水沢に向かった。千葉恭の長男B氏宅を訪れる約束の日がやってきたからである。果たして水沢の真城に〝町下〟という地名があり、その場所に当時千葉恭の実家が8反歩の田圃を有していたかどうかが明らかに出来る日だ。
 一度B氏宅が近づいたところで電話をして道順を訊ねると、道路の脇に立って待っているからという。優しい人柄に感謝。三男のF氏も父は優しい人だったと言っていたが、父恭の人柄を受け継いで長男のB氏も三男のF氏も優しいのだろう。
〔施肥表A〕〔一一〕は賢治の設計
 お蔭でB氏の自宅には迷わずたどり着けた。玄関に入るとB氏の夫人も現れて居間に招き入れられたので、ご夫妻からいろいろなお話をお聞き出来た。
 まず訊ねたことは例の田圃のことである。『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載のあの3枚の〔施肥表A〕のコピーをお見せしながら、
「お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか」
と訊ねると、嬉しいことに
「たしかに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない」
という予想通りの回答であった。そして
「そもそも水沢の〝真城折居〟はかつては〝真城村町(まち)〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町〟という呼称だった」
ということも教えてもらった。これで〔施肥表A〕の〔一一〕に記されていた
  場処 真城村 町下
  反別 8反0畝
はまさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
〔施肥表A〕〔一一〕は千葉恭の実家の水田に対して宮澤賢治が設計した施肥表である。
と断言出来るだろう。
 また〝堤沢〟及び〝中林下〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも判った。もっと正確に言うと〝堤ヶ沢〟及び〝中林下〟という地名が真城の町下の近くにあることが判った。おそらくこの〝堤ヶ沢〟は〝堤沢〟のことだろうから
  町下、堤沢、中林下
という地名のいずれもが当時の真城村の〝町〟の周辺に存在していたと判断していいだろう。よってこれら3枚の〔施肥表A〕のそれぞれに記された場処
   〔一一〕の〝町下〟
   〔一五〕の〝堤沢〟
   〔一六〕の〝中林下〟
が全て〝町〟周辺に実在していたと判断していいだろう。言い換えれば、
〝〔施肥表A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕はいずれも千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の水田に対する施肥表である。〟
と言い切っていいだろう。
〝3枚の施肥表〟のある役割
 いままで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、これで初めて逆方向からも見ることが出来た。つまりいままでの流れの図式は
 ・千葉恭→賢治
というものであったが、これで
 ・賢治→千葉恭
という流れも初めて成立した。やっと両方向の流れが出来た。それゆえ、以前に立てた仮説○☆、すなわち
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。
に対してますます私は自信が深まってきた。
 なぜなら千葉恭の事に関して賢治本人は一切語っていないはずだし、賢治研究家C氏が伊藤忠一に千葉恭のことを訊こうとしたならば言下に「「そんな人は知らない」と言われてしまったそうだが、
☆『校本全集』の3枚の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は宮澤賢治が千葉恭に頼まれて設計したものであり、これらの3枚の施肥表は賢治と千葉恭の間に親交があったことを千葉恭以外の人物、それも賢治自身がはからずも雄弁に物語っている客観的な資料の一つである。
と言えると思うからである。偶然気付いたこれらの〝3枚の施肥表〟の存在と役割に私は感謝したのであった。
 千葉恭に関する長男夫妻の証言
 さて千葉恭の長男B氏の証言により懸案の〝町下〟の田圃の件は解決したが、これ以外にその際に教えてもらった千葉恭に関する証言は以下の通りである。
・戦後父は仕事の関係上実家には居られず、一方B氏は実家から学校に通ったので一緒に暮らすことは出来なかった。
・賢治に関して父が言っていたことは、羅須地人協会に居たことがあるとういうことぐらいであり、その他のことについては詳しく喋ることはなかった。
・「研郷會」のことはよく解らないが、村の青年達と運動会をやったということは言っていた。
・父が賢治に関連したことで断片的に喋っていたことは、
・.賢治は朝早く起きてお日様に向かってお経を上げていた。
・父はその間、杉の葉を燃やしてお湯を沸かしていた。
・賢治の実家によく使いに行った。
・賢治の母は父(千葉恭)に対しても礼儀正しかった。
・上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
・久慈勤務の時に大火に遭い、賢治に関する資料等は焼けてしまって、持ち出せたのはラジオ一台だけだった。
・母(恭の妻)が「賢治が亡くなった際に宮澤家から電報が来た」と言っていた。
・水沢第一高等学校で賢治に関して講演したことがあるようだ。
・賢治に関する数冊の図書(佐藤隆房著『宮澤賢治』など)を持っていた。
・マンドリンを持っていた。
・トマトがとても嫌いでった。
などである。
 そしてこのトマトのエピソードを受けてB氏夫人が次のように証言してくれた。
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういう訳かお義父さん(千葉恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった、お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった。
と。そういえば
 米のない時は〝トマトでも食べましよう〟と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
とか、
 開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
と語っている千葉恭であれば気の毒であり、さもありなんと思ってしまった。その他にも夫人は
・お義父さんは宮澤賢治の豊沢町の実家は立派だったよと言っていた。
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
ということも教えてくれた。
 特に有り難かったのがこの最後の証言である。私が寄寓期間を訊く前に夫人の方から話してくれたことであり、おそらく千葉恭が夫人にそう教えていたであろうことゆえ信憑性も高かろうと思った。
 もちろん千葉恭本人が
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
と語っているせいか、千葉恭の下根子桜の寄寓期間は『半年説』が主流であるようだ。しかしB氏夫人に対してはそうではなくて〝7~8ヶ月くらい〟であったと千葉恭は喋っていたのであろう。するとこの証言は『半年説』ではなくて、以前私が立てた仮説○☆の傍証となるのではなかろうか、と思えたから有り難かったのである。
〝町下〟の田圃跡地を訪ねる 
 千葉恭の長男夫妻からいろいろなお話を聞くことが出来て私には多くの収穫があった。お二人にひたすら感謝するばかりであった。お蔭で懸案事項の一つは解決したし、他にもいくつかのことが解決出来そうになって来たと思えたからだ。
 なのに、私は厚かましくもさらにB氏にお願いした、「お父さん(千葉恭)の墓所を教えてくれませんか」と。するとB氏は案内するからと言うのでついて行くと「まずは食事しましょう」と言ってレストランの前で車を駐めた。するとそこには三男のF氏も来ていて合流、千葉恭の長男B氏と三男F氏と私の3人で一緒に食事、挙げ句私はすっかり御馳走になったしまったのだった。
 その後千葉恭の墓に案内してもらってお線香を上げさせてもらい、さらには千葉恭の実家の田圃がかつてあった〝町下〟の田圃跡地へ案内してもらった。残念ながら、〝町下〟に着いてすぐに分かったことだが、一帯はバイパス(現国道)が通っていてかつての〝町下〟の面影はもうなかったことだ。B氏は、千葉家の田圃はいまはもう存在しないがと言って、当時の千葉家の〝町下〟の田圃があった辺りを指さして示してくれた。
 B氏の語るところによると、当時国道(現在の旧国道)沿いには家並みが連なっていたという。その家並みが続いていたところがかつての地名で言えば〝町(まち)〟だったという。その一帯を眺めてみると、その家並みの東側(現在の国道周辺)はその場所よりは地形的に一段低くなっていることが直ぐに見てとれるから、〝町〟の下側という意味でその一帯が〝町下〟と呼ばれたであろうことが容易に想像出来た。そして、約80年ほど前ならば眼の前には水田が拡がっており、賢治の指導を受けた〔施肥表A〕に基づいて肥料を散布している千葉恭の姿をそこに思い浮かべてみた。その施肥による成果は如何ほどだったのであろうかとも。そして〝町下〟の田圃跡地を実際眺めていると以前に立てた仮説○☆に結構自信が深まっていくのだった。
 最後に、B氏に案内してもらって千葉恭の実家の建物を外から見せてもらった。実家は〝町下〟の田圃跡地の近くにあった。いまその建物には誰も住んでいないということであったが、屋
エンジュ
敷内に聳える槐の大木が往時を偲ばせてくれた。なお、この実家には以前三男F氏宅を訪れた日の帰途一度私は立ち寄っていたのであるが、その際には近所の方に訊ねて知ったものであった。ところがこの日はそれとは違って、千葉恭の2人ご子息と一緒にその実家を目の当たりに眺めることが出来たわけで、改めて次のようなことを強く感じた。
 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも少なくとも8ヶ月余ほどの長期間にわたって生活したと思われる唯一の人物であるはず。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった「下根子桜時代」だが実はその3分の1弱の期間は「独居」ではなかったようだ。千葉恭は賢治と長期間寝食を共にしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた貴重な存在であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する重要人物なのだということを世間に知らせなけらばならない、と。
 帰農した千葉恭と賢治の関係
 さてこれら3枚の〔施肥表A〕の中にはいずれにも「昭和三年度施肥表」と記されている項目がある。この〝昭和三年度〟にも私は注目させられる。千葉恭が帰農してからの賢治との関係を示唆してくれる思うからである。
 この項目があるということは、これら3枚の施肥表はいずれも昭和3年度用に設計された施肥表であるということだから、早ければ昭和2年の初冬、遅くとも昭和3年の春の間に賢治が肥料設計したと推測出来る。なぜなら賢治は主に農閑期に肥料設計書を作成したと伝えられているから、昭和3年度用のものであればこの期間に設計されたものだと考えられるからだ。
 一方千葉恭は、真城の実家に戻って帰農した後もしばしば下根子桜を訪ねて賢治の指導を受けていたと言っている。例えば
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。    
とか
 私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<共に『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
と。
 さてここで、賢治は千葉恭に「施肥の方法はどうであつたか?」と訊いているわけだが、これは賢治が千葉恭の実家の田圃に対して設計した〔施肥表A〕に基づいて千葉恭が行った施肥の方法はどうであったかという意味であろう。あるいはまた、帰農した彼は地元で32名の同志と一緒に「研郷會」を組織したわけだが、この施肥表3枚のうち千葉恭の実家の分以外の2枚は、この会の同志の誰かの田圃(堤沢や中林下)に対して千葉恭が賢治に依頼して設計して貰ったものであり、その施肥表に基づいて行った施肥の方法はどうであったかという意味で捉えてもほぼ間違いなかろう。そして「夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです」と言っているから、深夜まで二人は農作物の耕作などについて熱心に話し合ったに違いなく、その日は下根子に泊まってしまったかも知れない。そういうことがしばしばあり、寄寓を止めはしたけれど帰農後も二人の親交は続いていたということであろう。
 すなわち、真城村の田圃に対して賢治が設計したこれら3枚の昭和3年度の〔施肥表A〕の存在は、千葉恭が下根子桜を去ってからの賢治と彼との関係をも示唆してくれていると言える。千葉恭はおそらく昭和2年の春に真城村の実家に戻って帰農。とはいえ、その後もしばしば下根子桜に賢治を訪れて農業経済・土壌・肥料等の問題を教わり、それを持ち帰っては「研郷會」の同志に伝達講習を行い、それに基づいた農業を実践してその成果を皆で検討し合い、その結果を再び賢治に報告するという繰り返しで賢治から指導を受けていたし、それはおそらく昭和3年の春頃までは少なくとも続いていたと考えてもよかろう。
 言い換えれば、
☆賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの少なくとも4年余りの間の親交があり、わけても大正15年の6月末~少なくとも昭和2年3月の初め頃までは下根子桜の宮澤家の別宅で一緒に暮らしていたという程の深交があった。
と言っていいだろう。
****************************************************************************************************

 続きへ
前へ 
 “『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』の目次”へ。

 ”検証「羅須地人協会時代」”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿