本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (61p~64p)

2016-01-31 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ても良さそうである。なおこのことは7月25日に千葉恭が賢治の代わりに白鳥省吾に断りに行ったこととももちろん矛盾しない。
 そこで今まで述べてきた事柄から、「下根子桜寄寓期間」について次のような
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。……○☆
という仮説を立てることにしたい。

8 下根子桜寄寓期間の一つの解釈
 なぜなのだろうかと思っていたことの一つにその期間の長さの違いがある。もちろんそれは千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間についての、である。
 期間の長さの違い
 千葉恭自身は『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)において
「私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった」
と言っているわけで
 その期間は約半年………①
であると考えられる。一方、私としては今までの調査結果から前述のような仮説○☆を立てている。というわけで私は
 その寄寓期間は少なくとも8ヶ月間余………②
と見積もっている。ただし、一方は〝約半年〟で他方は〝少なくとも8ヶ月間余〟という期間の長さの違いをどう考えればいいのかと当然私は悩まざるを得ない。
 寄寓期間の一つの解釈の仕方
 ここで思い出したのが以前紹介した「宮澤先生を追つて(三)」における証言
先生が大櫻にをられた頃に私は二、三日泊まっては家に歸り、また家を手傅ってはまた出かけるという風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
である。つまり、千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間の寄寓の仕方は、長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子桜の別宅に二、三日泊まっては千葉恭の実家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったということになる。
 とすれば、千葉恭が〝約半年〟と言っている意味は延べ寄寓日数が約180日ほど(=約半年)という意味でのそれであり、一方の〝少なくとも8ヶ月間余〟とは寄寓開始から寄寓解消までの時間的な隔たりが〝少なくとも8ヶ月間余〟あるという意味の寄寓期間だから、これらの二つの一見異なる寄寓期間は矛盾をせず、こう解釈すれば整合性がとれることになる。あわせて、これは一つの解釈の仕方であるがこの千葉恭の証言によればそれはそれほど真実から遠い訳でもなさそうだ。
 現時点での認識
 このように下根子桜の寄寓期間は二通りの解釈が可能だから、このような解釈の仕方をすれば①と②の間には何ら矛盾も生じない。よって私は、前掲の仮説○☆
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。
はこの期間の長さの違いにも耐え得るものなので、自信を失う必要はないと認識した。

9 昭和8年の千葉恭の勤務先
 以前触れたように、『岩手年鑑』(岩手日報社)によれば、昭和8年の千葉恭の勤務場所は二戸郡福岡出張所(9月末時点)である。一方、これも以前触れたことだが千葉恭の三男F氏から
「昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報もらったのだが弔問に行けなかったと言っていた」
ということを教えてもらっていた。
 しかしこれでは両者は辻褄が合わない。両者が共に正しければ千葉恭は宮守出張所にも勤めながら福岡出張所にも勤めていたことになる。ところが宮守と二戸郡の福岡間は直線距離でさえも約百㎞はある。当時もそして今でさえも列車通勤はほぼ無理だろうし、自家用車でさえも通勤はほぼ無理な距離であり、まして自家用車通勤など考えられない昭和8年当時に両方の出張所を兼務は出来るはずはない。一体昭和8年の彼はどんなふうにして勤務していたのだろうか、という疑問があった。
 それがこの度あるルートを通じて千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた年月日、そして正式に復職した年月日等がやっと判明した訳だが、併せて、穀物検査所を辞めた後も時々臨時ではあるが穀物検査所で働いていたことも判った。例えば
 ・昭和3年1月24日~3月31日 藤根派出所臨時採用
のように。ということは、農繁期は実家で農業に従事しながら「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展のために活動し、農閑期には元の役所で臨時職員として働いていたということになろう。さらに嬉しいことに、千葉恭は昭和7年3月31日付けで正式に穀物検査所(宮守派出所)に復職した後、
 ・昭和8年7月31日~二戸郡福岡出張所勤務
 ・昭和8年8月24日~宮守派出所勤務
という人事異動があったということも今回同時に判明した。これで昭和8年の千葉恭の勤務先に関する疑問がすっきりと解決した。たしかに昭和8年に千葉恭は福岡で勤めたこともあるが、賢治が亡くなった同年9月には彼は宮守で勤めていたのだ。三男F氏の証言のとおり賢治が亡くなった時は宮守勤務だったのだ。これで辻褄があった。
 嬉しいことに、図らずもあるルートから千葉恭の職歴の一部を百%の保証付きで教えてもらったわけだが、教えてくれた方にはいくら感謝しても感謝しきれない。もちろん、私はある切っ掛けでそれが達成出来たことで今までの長い間の胸のつかえがあっけなく下りてしまった。

第4章 千葉恭以外が語ることなど

1 賢治が設計した3枚の〔施肥表A〕
 今まで少しく千葉恭のことを調べてきて知ったのが、彼自身が書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、彼と賢治との関係に言及している千葉恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)。千葉恭は賢治と少なくとも8ヶ月間余を下根子桜で一緒に暮らしているはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~少なくとも昭和2年頃までの足掛け4年の長期間に亘っていると思われるのに、賢治が亡くなった際には電報をもらってさえいたようなのに、賢治の周りのだれ一人として千葉恭に関して言及した資料を残していない。もっと正確に言えば、一切そのような資料はいままで明らかになっていないと思うのである。
 あまりにもこれは不思議なことである、千葉恭が著した資料以外に客観的に賢治と千葉恭の関係を示す資料はなぜ何一つ存在しないのだろうか。賢治から千葉恭に宛てた書簡などもあったそうだが、それは昭和20年の久慈大火の際に焼失してまったと千葉恭は言っていたそうだからやむを得ないにしても…。絶対未だ公になってない資料が必ずあるに違いない、そう思っていた矢先にある資料が目に留まった。
 賢治の〔施肥表A〕の〔一一〕
 それは賢治の肥料設計を多少検証をしてみようと思って『校本宮澤賢治全集十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表A〕を眺めていた時のことである。私は吃驚、そしてやった!と飛び上がってしまった。驚いたのは〔施肥表A〕の〔一一〕にである。その表の中には
   場処 真城村 町下
そして
   反別 8反0畝
という記載があったからである。
 あれっ〝真城〟といえば他でもない千葉恭の実家のある所だ。そして閃いた、この〝真城村町下〟とは彼の実家の田圃のあった場所ではなかろうかと。それは以前彼が実家には田圃が8反、畑が5反あると語っていたことを思い出したからである。早速確認してみると 「宮澤先生を追つて(二)」の中で千葉恭は
「鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました」
と語っている。たしかに実家の田圃は8反であった。したがって千葉恭の実家では当時真城の〝町下〟というところに8反の田圃を持っていたという推論が出来そうだ。
 もしこの推論が正しければ、この施肥表は賢治が千葉恭に対して設計してやったものとなろう。とすれば、この施肥表は千葉恭以外の人物が残した賢治と千葉恭の関係を示す客観的な、そして私にとってはそれを初めて知った資料であると言える。私は居ても立ってもいられなくなり、早速千葉恭の三男F氏に電話をして
「長兄のBさんにお会い出来ないでしょうか」
とお願いしてみた。B氏は千葉恭の長男であり、実家の田圃について詳しく知っていると思ったから直接B氏をお訪ねして、当時〝町下〟に8反の田圃があったか否か、あればその場所を確認したかったからである。するとF氏は快くB氏の連絡先を教えて下さったので私は時を置かずB氏に電話をした。そしてB氏に事情を説明して、近々お訪ねしたいのですがとお願いしたところ快諾をいただきお邪魔出来ることになったのである。
 3枚の〔施肥表A〕
 思わぬ進展に嬉しくなった。おそらく賢治が千葉恭に設計してやったものであろうと思われる〔施肥表A〕〔一一〕の存在を知ることが出来たし、その件に関わって千葉恭の長男Bさんに会うことも出来ることとなった。その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったならばさらに確信が深まって行くのだった。というのは、この施肥表〔一一〕の他に同著には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟は
 〔一五〕の場処は 真城村堤沢

 〔一六〕の場処は 真城村中林下
となっていたからである。
 すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも千葉恭の帰農先、実家のある真城村のものであった。さらに、これらの3枚の左上隅には
 〔一一〕の場合〝D〟
 〔一五〕  〃 〝E〟
 〔一六〕  〃 〝C〟
の記載がある。この『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうちこれら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。
 これだけの枚数を真城村の人たちが賢治に肥料設計をしてもらったのはなぜか、それはあの千葉恭が仲間を誘って組織した「研郷會」の会員の何人かが賢治に肥料設計を依頼したからでなかろうか、私にはそのそのように推理出来た。というのは、以前「宮澤先生を追つて(二)」で触れたように、千葉恭は帰農後もしばしば下根子桜を訪れて賢治から指導を受けていたということを次のように述べていたからである。
…農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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