本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(32p~35p)

2016-02-18 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
さへ年末の支拂ひに二進も三進も行かず、祖先伝來の土地を賣り拂つたとの哀話もあり、毎日借金取りに攻められるので、致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であつた紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその慘狀は全く事實以上であらうとのことだ。かくて本縣下の農村はいまや経濟上破産狀態にあるがやがて本縣にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
という報道もあり、この記事は隣の紫波郡のことではなくて賢治の住む稗貫郡内のことであり、そこの中産以上の農家でさえも先祖伝来の土地を売り払ったという哀話である。まして紫波地方のそれに至っては農家は破産状態、困窮の極みにあるというとどめを刺すような記事である。さぞかしこの記事を見ながら賢治は心を痛めたであろうと思われるのだが…。
 以上のように、年が明けてからも相変わらず新聞は紫波郡の未曾有の大旱害の惨状等を報じていた。その中で一つだけ、嬉しい次のような記事が、
◇2月24日付『岩手日報』に、
   稗貫太田村年團より旱害地へ餅八斗
稗貫郡太田村年團にては旱害罹災民見舞として餅八斗を搗き平賀團長統導の下に團員十二名に携運せしめ十八日午前十時九分花巻駅發列車にて赤石村を訪問した
と載っていた。花巻町の隣の太田村の青年達の心温まる救援の報道であった。
 ところが一方で、当時の賢治の営為を『新校本年譜』等によって調べてみた限りでは、「下根子桜」移住~昭和2年4月において、この時の旱害に対して賢治が救援活動等を行ったということは見出せない。せいぜいあったのは、
〈一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕一九二七、四、一、〉という詩においてその最後尾に初めて、「そしてその夏あの(〈注七〉)恐ろしい旱魃が来た」と「旱魃」に言及していた。
ことだけだった。
 では、この当時の羅須地人協会員はどう語っているか。その一人伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
 その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p>
と語り、同じく協会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」において、
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、樂やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)283p>
と「羅須地人協会時代」の賢治について語っているから、「その頃の冬」の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。しかも「その頃の冬」とはまさに大正15年末から明けて昭和2年の冬のことである(それ以外の「羅須地人協会時代」の冬には、協会員のそのような「集まり」は開かれていないからだ)。
 したがって、前年12月までのことはさておき、帰花後の賢治がこれらの一連の新聞報道を全く知らなかったということはまずあり得ない(〈注八〉)のだから、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして「羅須地人協会」を設立したというのであればこのような楽しいことだけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだ。それはまさに、この時の大旱魃被害の救援活動である。そしてそのような活動を賢治が当時していたとすれば、巷間云われているような賢治像からすればなおさらに、「聖人」とか「聖農」と賞賛されて、その具体的な実践活動を多くの人々が証言として残していたはずだ。ところがどういうわけか、そのようなことをこの大干魃の際に賢治が為したという証言等は残念ながら何一つ見つけることができない。
 ということは、その頃の「羅須地人協会」の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこの時の「ヒデリ」に際して、上京以前も、滞京中も、そして帰花後も一切救援活動をしなかったと、「ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ」と結論せざるを得ないようだ。
 そしてこれらのことからは、この時の大旱魃被害の惨状を知って多くの人々があれこれと救援の手を差し伸べていたというのにもかかわらず、賢治がこの惨状に全く無関心であったということが導かれるから、私とすれば、賢治が一切この時に救援活動をしなかったということよりも「無関心」であったことがとりわけ寂しいし、とても残念に思う。
 だから当然、賢治も後々この時に無関心だったことを後悔して己を恥じ、懺悔することになるはずだ。

〈注七:本文32p〉ただし、この「その夏あの恐ろしい旱魃が来た」が大正15年の旱魃を指しているかどうかは定かでない。「一昨年四月来たときは」で始まっていることから、この詩が詠まれた日付が「一九二七、四、一」とあるので、この「その夏あの恐ろしい旱魃」とは大正14年のそれとも考えられるからである。
 しかも、似たようなことを賢治はあの有名な「一〇二〇 野の師父」でも次のように詠んでいる。
    その不安ない明るさは
    一昨年の夏のひでりの空を
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)108p>
そしてこの詩は、賢治が付けた作品番号から判断すれば少なくとも昭和2年のものであると判断できるから、この判断が正しければこの「一昨年」とは大正14年ということになる。
 したがって、賢治は大正15年の紫波郡などの大旱害の認識は乏しく、大正14年の旱魃の方が気掛かりであったとも言えそうだ。ところが、同14年は「ヒデリ」の傾向は確かにあったが、実はこの14年の岩手の米の作柄は近年にない「最豊作」であったということは周知の事実である(大正15年1月28日や同年9月26日付『岩手日報』より判る)。
〈注八:33p〉もし全く知らなかったならば賢治には社会性が著しく欠けていたということになってしまい、大問題となってしまう。

 「本物の百姓」になりたいわけではなかった?
 ここまでの考察の結果、残念ながら、大正15年の賢治は
   ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ
ということを私はもはや否定できなくなってしまったようだ。しかも、ずっと今まで腑に落ちなかったことの一つに、どうして賢治は甚次郎に「小作人たれ」と強く迫ったのに、なぜ賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうかということがあった。
 このようなことに思い悩んでいた私はある時、小菅健吉の次のような追想「大正十五年の秋」をしばらくぶりに読み直して、それまで大いなる誤解と思い込みがあったのではなかろうかということに気付いた。
 大正十五年の秋、米国から帰国したので母校に挨拶に行き花巻の賢治を訪ねた。
 羅須地人協会(現在記念碑の立つてる所)に住み、五十米程離れた所にかまどを作り、めんどう臭いからと云つて、四・五日分の飯を炊いて居た。其の夜は種々語りあつた事を思い出す。
 その頃は、花巻農学校をやめて、花を作つて売つて居たのだつた。
 容姿、風采など実に無頓着。そのあたりの百姓男とかわりない様子をして居た。秋の終わりだと云ふのに麦わら帽子をかぶつて居た。花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた。
 羅須地人協会にオルガンを備へつけ、附近の青少年を集めて農民芸術をとき、農民に耕作設計を教へ、農事相談等もやつて居るとの事だつた。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、刊行会)250p>
 さて、小菅が訪ねたこの時期のことだが、小菅が米国から帰国した時期と一致するわけだからまずは間違いなかろう。つまり、小菅は大正15年の秋の終わりに「下根子桜」の賢治の許を訪れたことはほぼ確かであり、一般に「秋」といえばその期間は9月~11月だから、小菅は大正15年の11月頃に羅須地人協会に行き、賢治といろいろと話し合ったとほぼ断定できそうだ。
 丁度その頃といえば、紫波郡内の干魃被害が甚大であることがいよいよ明らかになっていった頃であり、千葉恭もまだ羅須地人協会で一緒に暮らしていた頃であり、高瀬露がそこに出入りし始めた時期でもある。そして賢治は、間もなく約一ヶ月の上京をしようと企てていたであろう直前の時期でもある。そのような時期の賢治の許を、アメリカ帰りのあの「アザリア」の仲間が訪ねて来たわけだから、賢治も普段とは違った意識と気持ちであっただろう。かといって、そのような小菅の前で見栄を張ることも空しいことだから、この時に小菅に対して賢治が語ったことにあまり大きな嘘はなかろうということに私は思い至った。言い換えれば、小菅が伝える「花を作つて売つて居たのだつた」も「花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた」も共に当時の賢治の実態と本音であり、このことから私は次のようことも充分にあり得たということを考えるに至った。
 それは端的に言えば、
 大正15年頃の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていた。……①
ことが当時の彼の最大の目標であったのだった、と。決して巷間言われているような、
 俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。
<『野の教師 宮沢賢治』森荘已池著、普通社)231p~>
ということが農学校を辞職した真の理由でもなければ、周辺に沢山いるような貧しい「本物の百姓」になろうとしていたことがその真の理由でもなかったのだと。
 たしかに、花巻農学校を突然辞めて「下根子桜」に移り住んだ賢治は「本統の百姓」になることは目指しはしたのだろうが、賢治はもともと自分で田圃を耕す小作人のような生活をしようとした(=「本物の百姓」になろうとした)わけではなく、それは〝①〟のためであった。つまり、当時の賢治の最大の目標は、賢治が自分の頭の中で思い描いている新しいタイプの百姓になることであり、それを賢治は「本統の百姓になる」と言っていたのであり、具体的には
    「本統の百姓になる」=「花卉等の園芸家になる」
    ≠「本物の百姓になる」
ということであった、ということも私は真剣に考えなければならなくなったようだ。
 そういえば、このことは次のようなことなどからも窺える。まずその一つは、「下根子桜」に移り住んで直ぐ森荘已池に宛てた手紙(4月4日付書簡218)には、
お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。百たびあなたのご健勝を祈ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
と賢治は書いているから、賢治が花巻農学校を辞めて初めて外部に対して為した仕事が「病院の花壇」造り(これが佐藤隆房の花巻共立病院のそれであると『新校本年譜』は断定している)という園芸の仕事であったからである。
 もう一つは、伊藤光弥氏が『イーハトーヴの植物学』の中の「教え子たちの証言」という節の中で、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和33年)から例えば次のような教え子の証言を幾つか抜き出して、おおよそ次のように論を展開していることからである。
 教え子の回想には次のように、賢治と草花を結びつける証言も多い。
・春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくって色々な草花を植ゑられた。(平來作、272p)
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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