本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (57p~60p)

2016-01-30 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
して十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
ということを述べている。一方、昭和2年8月8日の訪問に関しては
 それから一ヶ月間余暇をぬすんで、初体験の水掛と村の夜の事を脚本として書いて見た。そして倶楽部員の訂正を仰いで、ほゞ筋が出来たが、何だか脚本として物足りなくて仕様がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。
<共に『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
と述べている。
 このそれぞれの訪問日に関する松田甚次郎の証言を基に〝どやされた〟日について次に考えてみたい。
 賢治から〝どやされた〟日の確定
 前述の松田甚次郎の証言から、賢治から松田甚次郎が〝どやされた〟のはどちらの日がふさわしいかというともちろん後者はあり得ず、前者3月8日であろう。昭和2年2月1日付岩手日報の記事で
「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、…」
と報道されはしたのだが、賢治自身はその後農民劇の準備を進めていった気配はない。一方の、8月8日に下根子桜を訪れた松田甚次郎の方は着々と農村(民)劇の準備をしており、脚本さえ出来上がりつつある。8月8日に訪れた松田甚次郎が賢治から褒められることはあっても〝どやされる〟筋合いにはなかったはず。よって、
「そんなことでは私の同志ではない。…地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。…小作人たれ 農村劇をやれ」と、力強く言はれた」
のは3月8日の方でしかあり得ないはずだからである。そしてこの時の賢治の諭し方は他人から見れば〝どやされた〟と見えないこともなかろう。
 もちろん、この〝どやされた〟日は松田甚次郎が盛岡高等農林在学中であろうことは私も以前からほぼ確信していた。しかもそれはあの昭和2年3月8日の日のことであろうと。しかし一抹の不安があった。というのは松田甚次郎は高等農林に在学中にかなりの回数下根子桜に賢治を訪ねていたと受け止められるような表現をしている資料が、以前触れたように2つほどあったからである。そこで、松田甚次郎が〝どやされた〟と千葉恭が受け止めたような場面を他の日に千葉恭は目の当たりにしていたかも知れない、という一抹の不安があった。もしそのようなことがあれば〝どやされた〟日はあの昭和2年3月8日とは言い切れなくなってしまうからである。
 しかし今回の新庄行で『松田甚次郎日記』を見ることが出来たので、松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に賢治を訪ねたのはたった1回だけであったということが分かった。この〝たった1回だけ〟であったということは、彼が学生時代にかなりの回数そこを訪ねたわけではなくてたった一度しか訪ねていないということを担保する重要な役割を持つ。
 したがって、千葉恭の目から松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と見えた日は昭和2年3月8日でしかあり得ないことになる。これが〝たった1回だけ〟の持つもう一つの重要な意味であり、役割である。
 現時点での判断
 というわけで、現時点での私の判断は
 千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜を訪ねてきた松田甚次郎本人を直に見ている。そして賢治から松田甚次郎が「小作人たれ 農村劇をやれ」と〝訓へ〟られている場面を千葉恭は〝どやされた〟と受け止めていた。
というものである。またこのことにより、千葉恭はその現場にいたということになるから、
☆千葉恭は昭和2年3月8日頃までは少なくとも下根子桜で賢治と一緒に暮らしていたということが充分に考えられる。
である。なお、この3月8日前後だけたまたま千葉恭は下根子桜櫻の別宅に泊まっていたとも考えられる。それゆえ、現時点では〝ということが充分に考えられる〟としてある。このことに関しては今後注意深く扱い、さらなる検証を試みたい。
 さあすると、残された次の大きな課題は何か。それは、いつ頃から千葉恭は賢治と一緒に暮らし始めたのか、その時期を明らかにすることだ。そしてその時期は彼が穀物検査所を辞めた時期とほぼ重なるだろうから、役所をいつ辞めたかを探ることにもなろう。

7 千葉恭の辞職・復職日等判明
 それにしてもどうしてなのだろうか、「新校本年譜」等をも含め、どんな本を見ても千葉恭が下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間は今だもってはっきりと記されていないようだ。それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいもあるのだろう。
千葉恭の言っていること
 ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(ア)そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
(イ) (下根子桜では)賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
(ウ) 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 ここまでのことからの推定 
 例えば前掲の(ア)で千葉恭が
「次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました」
と語っていることとか、千葉恭の三男F氏が
「父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
と私に語ってくれたことなどから、千葉恭はある時穀物検査所勤めに見切りをつけ、下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めたのであろうと私は推理していた。言い換えれば、彼が穀物検査所を辞めた時期と下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めた時期とはほぼ重なるであろうと考えてきた。それゆえ当面の最大の懸案事項は千葉恭はいつ穀物検査所を辞めたのかということであった。
 さりとて前掲の(ウ)によれば、千葉恭は〝昭和四年に〟役所(穀物検査所)を辞めて帰農したことになるがそれを鵜呑みにすることは出来ない。
 なぜならこの(ア)によれば
「家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり」
ということだが、千葉恭が遅くとも昭和8年には復職していることは『岩手年鑑』の「県職員等の職員名簿」の記載で確認出来るから、もし昭和4年に辞めて昭和8年に復職したとなれば帰農期間は昭和4年~8年の5年間以内となり〝九年間百姓をしました〟とはかなり差が生じるからである。
 一方、大正15年7月25日の朝起きがけに千葉恭は賢治に頼まれて白鳥省吾との面会を断りに行っているから、この時期には彼はもう穀物検査所を辞めていて賢治と一緒に暮らしていたと考えるのが妥当である。そしてこの時点から起算すれば昭和8年までの間が約8年間となり、それを「九年間百姓しました」と言っていることは許容範囲であろう(昭和元年も1年と数えれば「9年間」はあり得る)。
 なお、一般に千葉恭は賢治と約半年一緒に暮らしたと言われているようだが、それはこの(イ)が拠り所になっているのだろう。
 と、長々綴ってはみたものの、肝心の千葉恭がいつ穀物検査所を辞めていつ復職したのかというそれらの日をはっきりと確定出来ないままにここに至ってしまった。
 辞職・復職日確定
 ところがある切っ掛けであるルートから、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ
☆大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
☆昭和7年3月31日  〃  宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 今まで躍起になって探し廻ってきた日、千葉恭が穀物検査所を辞めた日がやっとのことで確定した。これで当面の最大の懸案事項が解決した。私はこのあるルートとその担当者にひたすら感謝した。これで、より自信を持って千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めた時期等を推定出来そうな気がして来た。
 千葉恭の「下根子桜寄寓期間」の仮説
 一般にお役所の人事の発令の期日は〝きり〟の良いところ、月初めとか月末が多いはずである。なのに千葉恭が一旦役所を辞めた日は中途半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪くなって突如辞表を出したと解釈出来る本人の話
「夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました」
と符合する。となれば、急に思い立っての辞職ということだろうから、千葉恭の三男F氏の言うとおり
「父(千葉恭)は賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
というのが実情だったとも十分考えられる(ただし千葉恭自身は『君もこないか』という誘いが参り」とは言っているのだが)。よって、千葉恭は大正15年6月22日に穀物検査所花巻出張所を辞め、その直後から下根子桜の宮澤家の別宅で一緒に暮らし始めたと考えて良さそうだ。
 一方、松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治をを訪ねたのは昭和2年3月8日の一度しかないことが確認出来ている。かつ、以前触れたように千葉恭は「松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた」と証言しているから、これが事実であるとするならば彼は下根子桜で〝どやされて〟いる松田甚次郎を直に見ていることになる。
 よって、松田甚次郎が賢治の許を訪れた3月8日頃に千葉恭は下根子桜の別宅に寄寓していたという可能性が大となるから、彼はこの頃(昭和2年3月8日前後)もまだ賢治と一緒に暮らしていたということが十分に考えられる。
 すると前掲の(イ)の「約半年生活をともにした」の約半年間は、実は6月末から明けて翌年の3月までの8ヶ月間余はあると見
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《鈴木 守著作案内》
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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