本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(76p~79p)

2016-02-29 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
い。
ということを明らかにできているからこれらは皆この仮説〝○*〟を裏付けてくれる。
 その一方で、この仮説の反例となるのではなかろうかと思われる、かつての昭和3年の「賢治年譜」の
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
という記述についてだが、先に、
 当時の気象データ等に基づけば、「氣候不順に依る稲作の不良」も「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」も共になかった。
ということを明らかにできている(66p参照)ので、この年譜の記述にはあやかしな点が多くてとても反例たり得ない。
 また、現時点ではその他にこの仮説の反例となり得るものは見つかっていないはずだし、前述したように、
 昭和3年夏8月頃八重樫は北海道は函館に、小館は8月に小樽へ、平井も8月に盛中教師の職を追われるというすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていた。
ということを併せて考えれば、先の仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
が検証できるので、なかなか筋のいい仮説だと私は自信を持ったのだった。
 そこで、この件に関して拙ブログ『みちのくの山野草』において、「昭和3年賢治自宅謹慎」というテーマでかつて投稿したことがあり、その中の〝 「昭和3年賢治自宅謹慎」の結論(最終回)〟等において前述したような内容の報告をした。
 するとこのことに関して大内秀明氏が、論文「労農派シンパの宮沢賢治」(『土着社会主義の水脈を求めて』所収)の中で、
 羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。とくに羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しくを議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 確かに「賢治年譜」には「不都合な真実」を曖昧にする意図が感じられます。もっと賢治の実像が明確になるように書くべきだったし、今日の時点では「真実」が書かれても、賢治にとって「不本意」なことだったにしても、さほど「不都合な真実」では無いように思われます。昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻で天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
    <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302p~>
と論評してくださっていることを知って、私は感謝すると共にはっとした。
 それは、このような「病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つ」という身の処し方にそれまでは正直抵抗感があったのだが、冷静に考えてみればそのような身の処し方の是非を今の時代を生きる私が論うことはできないのだ、と。平たく言えば、賢治は警察から睨まれて「下根子桜」に居られなくなったので仮病を使って実家に戻って謹慎したということが事実であったならばそれは弱虫のすることだと思っていたのだが、大内氏の「「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います」という受け止め方を知って、私は己の狭量さを知ったからだ。
 またこの仮説に従うならば、例の澤里宛書簡の中の「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」の意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わるころ再び「下根子桜」に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べていたのだということの蓋然性が極めて高いということになり、もしそれが事の真相であったとすればそのような賢治の変節については多少違和感はあるものの、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。
 なにしろ私が同じような立場におかれたならばいともたやすくにそうしかねないし、当時そうする人も少なくなかったようだったからだ。そしてなによりも、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと私には思えてくる。

〈注十六:本文74p〉金田一京助、平井直衛、金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37p >
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。

 「自宅謹慎」
 さて、先に私は仮説〝○*〟を定立したわけだが、今のところこの反例は見つかっていないし、次のような証言もあるのでこの仮説をさらに傍証してくれている。
 まずその一つが、菊池武雄の追想「賢治さんを思ひ出す」の中の述べてある次のような証言である。
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p>
つまり、賢治が実家に戻ったと言われている8月10日直後に菊池と藤原嘉藤治の二人は羅須地人協会を訪れたのだが賢治は留守だったということになる。そこで菊池は賢治を見舞うためにその後わざわざ賢治の実家を訪れたのだが、賢治の病状があまりよくなくて面会が叶わなかったという証言である。
 そしてもう一つは、佐藤隆房が自身の著書『宮澤賢治』において次のようなことを述べているのだが、
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
  <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~>
という証言である。
 後者を知って驚くことは、賢治の実質的な主治医とも云われている佐藤隆房が、実家に戻った賢治にはそれほど熱があったわけではなかったと証言していることである。しかも、その佐藤が、
   両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という表現をしていることはいささか奇妙なことだ。どうしてこの部分を素直に
   両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現せずに、なぜわざわざ「という診断」という文言を付したのだろうか。このような言い回しでは逆に、賢治はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松医師に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにした、という虞(おそれ)までも生じてくる。
 実際、佐藤隆房は『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行版)の中の「八七 發病」では、  
 賢治さんは…(筆者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聽かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
   <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~>
ということも述べている。なんと賢治は、「傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていたというのだ。
 ところがその一方で、かつての「賢治年譜」の殆どは昭和3年の、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と述べているから、この佐藤が伝えるところの賢治の療養の仕方はとても奇妙である。なぜならば、昭和3年の8月に実家に戻った賢治のことを医者である佐藤が前掲書の前者では
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが
と、そして同後者では
 八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました
と証言していることになるから、
 どう考えても、昭和3年の8月に実家に戻った頃の賢治が重篤だったとは思えない。
ということになり、これではとても「病臥す」とは言えないからだ。
 そこでこれらのことから浮かび上がってくることは、前述したように菊池武雄が実家に戻ったという賢治を折角見舞った際に面会を謝絶されたということだが、もし菊池が直に賢治に会ってしまえば、病臥するほどの病状か否かをすぐ読み取られるかもしれないということをそれは恐れたからだという可能性である。あるいは、賢治の妹のクニが刈屋主計と9月5日に養子縁組をしたがその際の宴にも賢治は出席していない(『新校本年譜』より)ということが知られているが、どうして「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていた賢治がそのような妹の大切な祝いの席に参列しなかったのかという理由を推理してみれば、そのような公的な席に賢治は出られなかったということが一つ考えられるということである。
 となれば、先に触れたように、あの浅沼稲次郎が特高に命じられて三宅島の実家に戻って謹慎した(74p参照)のと同様に、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って実家で謹慎していた。
とすれば、全てのことが皆すんなりと説明がつく。
 それは、
 もしこの時期に賢治が病気になって「下根子桜」から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していない。……⑥
はずだから十分に頷けるけることである。
 また、いくら丁寧に調べてみても、賢治が昭和3年8月に実家に戻ってから少なくとも「陸軍大演習」が終わるころまで
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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