本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(80p~83p)

2016-03-01 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
の間に、家族や担当医以外の者で直に賢治に会えた人物がいたということの公の証言も記述も『新校本年譜』等を始めとして一切見つからない(阿部晁については後述。81p参照)。だから、この時の賢治の療養の仕方は極めて奇妙で不自然であった。
 それではこのような自宅での不自然な過ごし方を普通世間一般では何と言うかというと、まさに「自宅謹慎」と言うのではなかろうか。どうやら、不自然な療養の仕方の意味はそこにあったようだ。言い換えれば、上掲の菊池武雄や佐藤隆房の証言もこの仮説〝○*〟の妥当性を傍証している。

 書き残していなかったという事実
 さて、前頁で〝⑥〟であるはずだと述べたが、このことをここでは検証してみよう。
 まず、賢治関連の著者の中でこの時の療養中の賢治のことを一番よく知っている人物はもちろん、実質的に賢治の主治医だったとも云われている佐藤隆房であり、彼には先に引用した(78p~79p参照)ような証言がある。そして、その頃の佐藤隆房は医者の立場から豊沢町の賢治の実家にしばしば立ち寄っていたことは知られているし、賢治に直接会っていたことは当然のことであろう。実際その当時のことを佐藤はいろいろと書き残している。
 しかし問題はその佐藤ではなくて、普通に考えれば、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥しているということであれば必ずや見舞うであろうと思われるはずの関登久也、藤原嘉藤治そして森荘已池の三人の場合である。
 この観点から言えば、一番先に挙げられるのが関登久也であり、彼の著作でそのようなことを書き残している可能性があるのは、
(1)『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2)『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3)『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4)『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
であり、これ以外ではほぼなかろう。
 ところがそれぞれを瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに〝(4)〟の中にだけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥の身になりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95p >
 しかしこの記述は、かつてのほとんどの「賢治年譜」にあった昭和3年の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び先の佐藤隆房の先の著書の二つを踏まえた記述と思われるし、これらの〝(1)~(4)〟からは新たな重要な情報は得られない。まして、関本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 それでは次は、物書きの中で一番このことを知っていてしかも書き残していそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。彼の場合はただ一ヶ所、
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました
<『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202p>
という記述を発見できた。しかし同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点で既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森のこの記載内容はやはり前掲の「賢治年譜」や佐藤隆房の書を基にしていると判断できる。そして私が調べた限りでは、やはり目新しい重要な記載内容はないし、その他の彼の著作にもこのことに関してこれ以外の重要事項は書き残していない。またもちろん、森本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 そしてもう一人の藤原嘉藤治だが、彼にしても同様であった。だから結局は、本来ならば必ずや賢治を見舞いに行くであろうと思われるこの三人の中の誰一人として、その時に賢治を見舞ったということは一切書き残していなかったという事実があるということをこれで100%確認できたと言えそうなので、どうやら前々頁の〝⑥〟はほぼ正しかったようだ。
 ではこの三人はどうしてそれを一切書き残していなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄の先のエピソード、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものでもある。したがって、関、森、嘉藤治が見舞いに行ったということを書き残していないことも変であるが、賢治にまつわる多くのことを書き残している関も森もこのエピソードについてすら一言も書き残していないはずだから、これもまたかなり奇妙なことである。
 すると気付くことがある。それはあの阿部晁が、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に次のように書いていることから推測されることである。
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳参升(根子切手)
    <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)170p>
 つまり、阿部は昭和3年9月22日に「牛乳三升(根子切手)」を携えて豊沢町の実家を訪ねて賢治を見舞っていた。となればなおさらに、例えば、嘉藤治は菊池を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというからとても気掛かりであったであろうし、菊池が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」と述べているくらいだから、普通に考えれば、嘉藤治もそのことを知って何度か賢治の実家に見舞いに行ったか、行こうとしたであろう。
 そこで冷静に考えてみれば、阿部は豊沢町の実家に賢治を実際見舞いに行ったというのに、そのような嘉藤治を含む関、森の三人が全くそのことを揃いもそろって公に書き残していないという理由は、この三人も実は見舞っていたのだが地元花巻では当時の賢治を公に見舞うということは禁じられていたからであったと解釈すれば、すなわち、昭和3年8月10日以降の賢治はしばし「自宅謹慎」中の身だったからその見舞いを公的に書き残すことはできなかったのだと解釈すれば全てがすんなりと辻褄が合う。そして一方、阿部晁は地元の人間ではあるものの、私的な日記だからこそ書き残せたのだと。
 それからもう一つ気付くことがある。それは、菊池は書き残していたというのに関、森、嘉藤治の三人はそうではなかったことの違いが、当時菊池は東京に住んでいた、その他の三人は地元花巻に住んでいたという違いと符合するということにである。ではそのことは何を意味するのだろうかということを少しく思い巡らしてみると、地元の三人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという蓋然性が高いことにも気付く。
 どうやら事の真相は、賢治が実家に戻ったのは重病になったからだと名目上はなってはいるが、佐藤隆房が言っているように賢治はそれ程重病ではなかったから、もし二人が直に会ってしまうとそのことを菊池に気付かれてしまうことを危惧したので菊池の場合には面会を謝絶されたとも言えそうだ。そしてまた、菊池は賢治の「自宅謹慎」を詳らかに知らなかったのであのような追想をためらわずに書き、一方、この三人は実は賢治を豊沢町に見舞っていたのだが、菊池の場合とは違って、賢治は「自宅謹慎」中の身であることをよく知っていたが故に地元の三人は見舞ったことを公に活字にすることを憚ったという蓋然性が高い、ということもである。
 大体この辺りが、当時賢治を見舞ったということを関、森、嘉藤治の三人が揃いもそろって公的に一切書き残していなかった真相であったとしてもそれ程大きな違いはなかろう。
 というわけで、先の79pの〝⑥〟の理由付けもかなりの程度できたので、現時点での私の判断は、
 賢治が病気になって「下根子桜」から実家に戻り、重篤故に病臥していたというのにも関わらず、関、森、嘉藤治の三人の誰一人として見舞いに行ったとか、見舞いに行ったが謝絶されたとかということのいずれについても公的に書き残していないということは、見舞いに行ったがそのことを活字に残すことが許されなかったか、あるいは見舞いそのものが許されなかったからだ。
という蓋然性が極めて高いということである。
 おのずから仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
の妥当性もさらに増したと言える。

 論じてこられなかった理由と意味
 †当時のソ連における賢治評
 ここで少し日本を離れて、第二次世界大戦直後、宮澤賢治はソ連ではどのように見られていたのだろうかということについて少しだけ触れておきたい。そのことを高杉一郎のシベリア俘虜記『極光のかげに』(岩波文庫)が教えてくれるからだ。
 まずはこの著者高杉なる人物についてだが、同書の「あとがき」によれば、彼はそれまで勤めていた改造社が戦争遂行に協力的でないという理由で昭和19年の7月に解散させられたので職を失い、同年8月8日に名古屋に招集され、満州へ送られたという。そしてその一年後に敗戦にあい、シベリアに送られ軍事俘虜としてそこで4年間抑留され、昭和24年9月に帰還したという。
 さて、前掲書には著者高杉本人が俘虜収容所である将校から受けた尋問の際の次のようなやりとりが綴られている。
 尋問がはじまって、姓名、生年、生地、学歴、職歴、軍歴、父の職業などを質ねられる。…(筆者略)…
 「なぜ?」
 「軍人が好きでなかったからです」
 ふん、というような不信の表情を彼は肩で示した。
 「ミヤザーワ・キンジを君は知っているか?」
 宮沢金次、宮沢欣二……私は頭の中であれこれと友人を捜し廻ったが、宮沢なる者は私の友人のなかにはいなかった。
 「知りません」
 「嘘つけ! 君のためによくないことになるぞ。イシカーワ・タクボークは?」
 石川啄木――あることを想い出して、私は咄嗟にはっとした。金次ではない。宮沢賢治だ。私は忽ちにしてこの質問の意味を悟った。…(筆者略)…
 さっきの質問に答えて、私は言った。
 「石川啄木は日本の詩人です。宮沢賢治――キンジではありません――は詩人で児童文学の作家です」
 「彼らはアナーキストだろう?」
 「アナーキスト? 広い意味でのアナーキストと呼ぶことはできるかの知れません。が、彼らは政治的な意味でのアナー
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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