本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(3p~7p)

2016-02-11 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》










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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
 生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっているが、山形県最上郡稲舟村鳥越の松田甚次郎という青年だった。

 賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見
 ある時、拙ブログ『宮澤賢治の里より』に石川博久という方から、
 松田甚次郎の署名のある春と修羅に草刈という「詩」が書かれております。甚次郎と賢治の関係を知りたくて、検索してこのページにたどり着きましたのでご連絡いたしました。
というコメントをいただいた。そこで同氏のホームページを拝見したところ、そこには「昭和六年二月 松田甚次郎」と墨書(<注一>)された同氏所有の『春と修羅』の「見返し」の写真が載っていた。併せて、同書の外箱(表表紙の写真参照)に次のような詩、
      草刈
   寝いのに刈れと云ふのか
   冷いのに刈れと云ふのか
が手書きされている写真も掲載されていた。
 実は、甚次郎が賢治から『春と修羅』を贈られたということは既に甚次郎自身が公に(<注二>)していたことだから、おそらくこの『春と修羅』はまさにその本そのものであろうと直ぐ推断できたし、この手書きはもちろんほぼ甚次郎自身によるものだと言えるだろう。しかも、その『春と修羅』の外箱に「草刈」の詩が手書きされていたということはまだ公には知られていなかったことなので、この新事実から、「草刈」の詩は賢治が詠んだ詩であるという蓋然性がさらに一層高まったと言える。
 なぜならば、甚次郎は大ベストセラーになった『𡈽に叫ぶ』の中で既に、
 先生の詩 故宮澤先生を偲ぶ情にたへず、二つの詩を記すことにする。
    農夫の朝(草刈)
  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
    雲の信號
  あゝいゝなせいせいするな
  風が吹くし
  農具はぴかぴか光つてゐる
     …(筆者略)…
  山はぼんやり
  きつと四本杉には
  今夜は雁もおりて來る
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭13)6p~>
と述べているからだ。さらに佐藤隆房は「賢治さんとその弟子」の中で、この「弟子」とは甚次郎のことだが、彼が「下根子桜」の賢治の許を訪れた際のこととして、
 數々朗讀された詩の中で、
   草 刈
  つめたいといふのに刈れといふのか
  ねむいといふのに刈れといふのか
は、その表現されてゐるすさまじい努力のいきづかひが、農人たらむと志す松田君の心をゆりうごかし、
<『農民藝術8』(村井勉編輯、農民藝術社、昭24)26P >
と述べているからでもある。
 つまり、これら二つ著書からは、賢治は甚次郎の目の前で「草刈」という自分の詩を朗読したという蓋然性の高いことがまず導かれる。そしてこの度、件の『春と修羅』の外箱にこれらの詩とよく似た詩が手書きされていたということが新たにわかったことにより、この三つの詩の中身は微妙に違ってはいるもののその内容はほぼ同じで、題も皆同じ「草刈」だから、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか」というような内容の自作の詩を詠じた。
という蓋然性がさらに一層高まったと言える。したがって、再発見されたとも言えるこの石川氏所有の『春と修羅』はとりわけ貴重なものであり価値がある。
 ちなみにこの件に関しては、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の24頁に、
間接的に伝えられた詩
 賢治について回想した文章においてのみ伝えられる賢治の詩及び題名を次に掲げる。これらの草稿は現存せず、また生前に 発表されていないものである。
一、「農夫の朝(草刈)」
    農夫の朝(草刈)
  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
〔松田甚次郎『𡈽に叫ぶ』(普及版)昭和十四年九月十五日刊、羽田書店、六頁〕
とあるだけだから、石川博久氏所蔵の『春と修羅』の、つまり賢治が甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱に、
       草刈
    寝いのに刈れと云ふのか
    冷いのに刈れと云ふのか
と書かれていることを現時点では筑摩書房はおそらく知らない。
 なお、本来であれば、本の外箱に書かれている「寝いのに」の部分の正しい漢字の使い方は「眠いのに」であるから、甚次郎はこの詩を字で書かれた状態(草稿など)で賢治から見せられたわけではなく、耳で聞いたものを覚えていてそれをこの本の外箱に書き記したと言えそうだ。そして、それは「冷たいのに」が「つめたいといふのに」であったり、「つめたい」と「ねむい」の順番が逆であったりしていることからも窺える。
 だから私は、賢治は甚次郎を前にして「草刈」というタイトルの即興詩を詠んだ蓋然性が高いと推測している。それも、甚次郎は賢治の許を昭和2年の3月8日と同年8月8日の2回だけ訪れているから、草刈の時期を考えれば、8月に訪れた時のことであったであろうということが推測できる。

〈注一:本文3p〉この筆跡は甚次郎が墨書した「水五則」等の筆跡と似ているから、これは甚次郎自身の署名とほぼ判断できる。
〈注二:本文3p〉松田甚次郎は「宮澤先生と私」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収)において次のように述べてある。
 其後昭和六年に、春と修羅を御手紙と共に送つていただいたのが最後の御手紙でそのときはもう病牀に起き臥し中であつて盛んに石灰岩の事などを御述べになられて、殘念だ身體が弱くて殘念だとつぶやいて居られたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)426p>
 したがって、賢治が甚次郎に贈ったと推断できる『春と修羅』の今回の再発見によってこの甚次郎の記述が裏付けられたと共に、その贈られた時期が昭和6年の2月であるということもこれでほぼ確定したと言える。

 賢治の最も短い詩「草刈」?
 さてこれで、限りなく賢治が詠んだのであろうと思われる「草刈」という題の詩は、
  寝いのに刈れと云ふのか
  冷いのに刈れと云ふのか

  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
あるいは
  つめたいというのに刈れというのか
  ねむいというのに刈れというのか
のいずれかであろうということがほぼわかった。
 そこで次に、私は山形の『新庄ふるさと歴史センター』を訪ねて行った。というのは、甚次郎が賢治から贈られたと思われる『春と修羅』には、
    昭和六年二月 松田甚次郎 
と墨書されているし、かつて私は甚次郎の大正15年や昭和2年の日記を同センターで見せてもらったことがあるので、今度は昭和6年のそれを見せてもらえばこれらの三つの中のいずれが賢治が詠んだ詩であるかがもう少し明らかになると思ったからだ。がしかし、残念ながら昭和6年のものは所蔵されていなかった。
 とはいえ、これらのいずれかかあるいはこれと酷似した内容の詩「草刈」を賢治が詠んだという蓋然性は極めて高いことに変わりはないから、もしこのことが事実であるとするならば、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩と今までいわれてきたものよりも、この「草刈」はさらに短い詩であるということになりそうだ。
 なぜならば、栗原敦氏の論考「最も短い詩、その次の長さの詩…」の中に、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩は、
  報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
              (一九二二、六、一五)
  イーハトーブの氷霧
けさじつにはじめて凜々しい氷霧だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した
             (一九二三、一一、二二)
<『NHKシリーズ宮沢賢治』(栗原敦著、NHK出版)17p >
の二作品であると述べられているが、前掲の「草刈」のいずれにしてもこれらよりもさらに短いからだ。
 なお、当初私は、「草刈」の詩が上掲のいずれであったにせよその中身はあまり賢治らしくない詩だと思っていたので違和感があったのだが、栗原氏の掲げたこれらの二つの詩に対して同氏が「投げ出されたままのような作品」と前掲書で評していることを知って、「草刈」もまさにこれらの二作品と実によく似た「投げ出されたままのような作品」なので、この「草刈」が賢治の詩であるとしてもそれ程の違和感がなくなった。したがって私はますます、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷たいのに刈れと云ふのか」というような内容の詩を詠じた。しかもその詩は賢治が詠んだ詩の中で最も短い作品である。
という蓋然性が極めて高いと思えるようになったし、この「最も短い詩」という観点からいっても、限りなく賢治が詠んだであろうと推断できるこの詩「草刈」は興味深いものである。

 賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)
 ところで、山形の松田甚次郎がなぜわざわざ岩手の賢治の許を訪れたのか。その経緯は、それこそ甚次郎が著して当時大ベストセラーとなった『𡈽に叫ぶ』の巻頭「一 恩師宮澤賢治先生」によってある程度知ることができる。ちなみに同書は次のようにして始まっていて、
     一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸する喜びにひたつてゐる頃、…(筆者略)…その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13)1p >
と述べられているから、当時甚次郎は盛岡高等農林学校の学生であり、賢治の後輩であったことが関係していたためだと言えそうだ。
 さらに、甚次郎は追想「宮澤先生と私」において、
 盛岡高等農林學校在學中、農村に關する書籍は隨分と讀破したのであるが、仲々合點が行かなかつた。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協會の事が出て居つたのを讀む(ママ)で訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる樣な實になつかしい面持ちで早速二階に通された。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14)424P >
とも述べているので、「或日岩手日報で先生の羅須地人協會」の記事を見たことがその「下根子桜」訪問の直接の切っ掛けであったと言えるだろう。
 さてそれではその新聞記事が具体的にはどのようなものであったかだが、それは松田甚次郎の日記を見ればわかる。というのは、甚次郎は当時日記を付けていて、しかもその日記には出納帳もついているので、甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪ねた日は
   初めて訪れたのが昭和2年3月8日

   2度目にして最後に訪れた昭和2年8月8日
の2回であり、その2回しかないことがわかる(<注三>)。
 よって、甚次郎が見たであろう「羅須地人協會」の記事とは、昭和2年2月1日付『岩手日報』の次の記事、
 農村文化の創造に努む
    花巻の年有志が 地人協會を組織し
                自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一囘の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協會員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三囘づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協會の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
であったとほぼ判断できる。
 なおこの他にもう一つだけ、大正15年4月1日付同紙の「新しい農村の 建設に努力する 花巻農学校を 辞した宮澤先生」という見出しの記事も考えられないわけでもないが、それではあまりにも時期がかけ離れているし、こちらの場合には「羅須地人協會」という固有名詞も使われていないので、まずはあり得ないだろう。
 そこでこの記事のポイントを箇条書きにしてみれば、
(1) 羅須地人協会を創設し農村文化の創造に努力する
(2) 現代の悪弊都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こす
(3) 田園生活の愉快を一層味わうために原始人の自然生活たち返る
(4) 収穫物を持ち寄り物々交換する制度導入
(5) 農民劇農民音楽を創設して家族団らんの生活を図る
ということになるから、甚次郎はこれらのことに感ずるところがあって「下根子桜」に賢治を訪ねたと言えるだろう。
 さて話はまた甚次郎の『𡈽に叫ぶ』に戻る。同書には、甚次郎が昭和2年3月の「下根子桜」訪問の際に、
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《鈴木 守著作案内》
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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