宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

335 賢治帰花・講義等再開

2011年05月22日 | Weblog
       《1↑『在京岩手学生会旱害罹災者慰問』(大正15年12月20日付岩手日報)》

 大正15年末の岩手では連日のように紫波郡等の旱魃被害とその義捐活動の報道がなされていた。
《2『東京の小学生からやさしい寄附』(大正15年12月15日付岩手日報)》

《3『米の御飯をくわぬ赤石の小学生』(大正15年12月22日付岩手日報)》

そこへもってきてさらには12月25日の大正天皇の崩御があり、岩手県民は世情に不安を抱いていてことと思うが、おそらくそのような古里へ賢治は12月29日に戻ったと思われる。

 さて明けて1927年(昭和2年)、前年末に大正天皇が崩御したので新年になってもその関連報道が紙面の殆どを占めていたのだが、1月8日以降になると旱魃被害関連の報道が再び紙面を次第に占め始める。
 その幾つかを紹介する。
《4『農村経済は全く破滅の苦境』(昭和2年1月8日付岩手日報)》

《5『未だかつてなかった紫波地方旱害惨状』(昭和2年1月9日付岩手日報)》

《6『この冬をどうして暮らす』(昭和2年1月9日付岩手日報)》

《7『寒さと飢えに泣く村人』(昭和2年1月19日付岩手日報)》

《8『農村は破産の状態』(昭和2年1月26日付岩手日報)》


 というわけでこの年の紫波郡の赤石村、不動村、紫波村はたまた古館村等の旱害被害の惨状は目を覆うばかりのものであったようだ。
 昭和6年11月に心の内を手帳に
  ……
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  ……

としたためた賢治だが、この頃(大正末、昭和の初めの頃)もそう思っていたのだろうか。もしそう思っていたのならばこの祈りをどのように実践しようと思い描き、行動に移したのだろうか。

 一方地元の旱魃被害に関して賢治は大正13年や14年のそれらを詩に詠んでいる(『毘沙門天の宝庫』『渇水と座禅』)。そしてその時のものと比べると比較にならないくらいの大正15年のこの大干魃被害。この惨状に心を痛めたであろう賢治はどのような詩をこのとき詠んでいたのだろうか。管見にして残念ながら私にはいまのところ知らないでいる。  
 したがって、この旱害罹災の惨状を賢治や羅須地人協会はどう認識し、どのように対応したいと思っていたのかということを知る手がかりは私には見つかっていない。
 たとえば、松田甚次郎たちは心を痛めて南部せんべいを持参して赤石村を見舞ったということだが、賢治や協会のメンバーはどのような義捐活動を行ったのだろうか。

 さて、澤里に『今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する』と決意のほどを述べて上京したと思われる賢治だが、1ヶ月弱にして帰花することになってしまった。さぞかし心残りであったであろう。
 でももしかすると、この意外に早かった帰花は、それこそこの当時の岩手の「紫波地方旱害惨状」を聞き知って居ても立ってもいられなくなって舞い戻ったのであろうか。「御飯を食えず大根飯をとる子供達」や「陸続と続く義捐活動」の報道などを目の当たりにして、「高等遊民」状態の己を恥じて。凡人の私は切にそう思いたい。

 帰花した賢治は再び下根子桜の協会で「羅須地人協会講義」などの活動を始めた。
 昭和2年の最初の頃の年譜の主なものをまず確認すれば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)等の年譜によればだいたい以下のとおり。
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵、中野新佐久来訪。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義。農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱 上
2月 1日 2/1付け岩手日報夕刊に『農村文化の創造に努む』という記事掲載


 そしてこの2月1日付の岩手日報の記事とは以前投稿したようなものであり、再掲すると以下のとおりである。
《8『農村文化の創造に努む』(昭和2年2月1日付岩手日報)》

 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)

          <昭和2年2月1日付 岩手日報より>

 ところが、この新聞記事は賢治をかなり動揺させたようだ。賢治はこの新聞報道によって音楽練習会のメンバーに迷惑がかかることを恐れてこの集まりを解散したというからである。

 そのあたりのことを次回は述べてみたい。

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