宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

221 『渇水と座禅』とナミダヲナガシ

2010年03月27日 | Weblog
     <↑Fig.1『渇水と座禅詩碑』>

8 『渇水と座禅』とナミダヲナガシ
 W氏は『ヒデリに不作なし』という言い伝えがあるから
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ 
というのはおかしい、ということで「ヒドリ=ヒデリ誤記」説を退けようとしている。しかし、はたして宮澤賢治はヒデリ(旱魃)のときに涙を流すことはなかったのだろうか。もちろん『ヒデリに不作なし』につても論じてみたいのだが、それはこのことを調べてゆけば自ずから明らかになると思うのでこのことを先に論じてみたい。

 そこで、賢治の詩や彼の経験から判断してヒデリ(旱魃)のときに涙ぐんだことがあったと思う幾つかの例を挙げてみたい。
<例その1>
 まずは賢治の次の詩からそのことを読み取ってみたい。
二五八
      渇水と座禅       一九二五、六、一二、
   にごって泡だつ苗代の水に
   一ぴきのぶりき色した鷺の影が
   ぼんやりとして移行しながら
   夜どほしの蛙の声のまゝ
   ねむくわびしい朝間になった
   さうして今日も雨はふらず
   みんなはあっちにもこっちにも
   植えたばかりの田のくろを
   じっとうごかず座ってゐて

   めいめい同じ公案を
   これで二昼夜商量する……
   栗の木の下の青いくらがり
   ころころ鳴らす樋の上に
   出羽三山の碑をしょって
   水下ひと目に見渡しながら
   遅れた稲の活着の日数
   分蘖の日数出穂の時期を
   二たび三たび計算すれば
   石はつめたく
   わづかな雲の縞が冴えて
   西の岩鐘一列くもる

  <『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
 この詩を詠んだのは1925年(大正14年)6月12日であり、田の畔に座ってまんじりともせずに辛くて切ない連日連夜の樋番をする農民を賢治は哀れみ、同情し涙ぐんでいたと思ってはだめだろうか。西の岩鐘一列がくもったのはそのせいではなかろうか。
 大正14年といえば賢治は花巻農学校に奉職しており、実習田の担当者であった。この年はそれまでにだれもが経験したことがないほどの大干魃が懸念されたという。そこへもってきて花巻農学校の実習田はザル田のために保水力が弱く、賢治は閑さえあれば生徒と連れだって低い堰の水を樋で実習田に掻き入れる作業をしたという。さらには、連日連夜寄宿生を連れて、実習田から田日土井までの1㎞の夜道を「水引き」・「樋番」に通ったともいう。生徒は交替したが、賢治は責任上いつも出かけ、ときに農民同士の水喧嘩にぶつかることもあったはず。一方は、『賢治は花巻農学校時代、田日土井の水引きに行った際、そこに来ている農民たちと殆ど会話をしなかった』とも聞く。

 これらのことに鑑みれば、賢治にはヒデリの際の農民達の水引・樋番の辛さ、空しさ、切なさなどが肌で解ったはずだし、水喧嘩を目の当たりにしてそのやり切れなさ、哀れさを感じていたであろう。併せて、保阪嘉内への手紙で『来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります』と宣言した頃の賢治ではあったが、田日土井に何度も来ていながらそこで農民たちとはあまり馴染めないでいる自分の不甲斐なさなどが心の中で交錯していたことであろうから、賢治が
  ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
ていたとしても何等不自然ではないと私は考える。

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