道端鈴成

エッセイと書評など

嫌韓問答

2006年03月26日 | アジア論
河端「道端流小泉コメント分析もなかったようだな。」
道端「道端流はやめて下さいよ。今度のコメントはごく普通だったですし。」
河端「やっぱり、チェックしてたのか。」
道端「ところで、河端先輩は嫌韓なんですか?」
河端「WBC見ただろ。マウンドに太極旗突き刺したり、鬱憤晴らしにボールを投げたり、独島は我が領土のプラカードをさらしたり、敗退してからも色々と因縁つけたり。普通の感覚を持っていれば、なにがしの嫌悪感を感ずるなというほうが難しいんじゃないかな。地下鉄の反日絵などに比べると、今回のは、まだ可愛いほうだがな。」
道端「はい。河端先輩に教えてもらって見ました。教師が中学生にあんな絵を描かせて、しかも公共の場に飾るなんて信じられないです。」
河端「「日韓友好のため韓国の新聞を読もう」あたりも読んでみると良いよ。産経新聞の黒田さんや筑波大学の古田先生の本などもお勧めだ。韓国への深い理解と愛情、そして重要な事だが、日本人としての普通の感覚を持って書いている。」
道端「マンガ嫌韓流はどうなんですか?」
河端「表現にはたしかに稚拙なところがあり、これと比べると、小林よしのりなどのデフォルメの威力の大きさが分かるな。内容も一面的ではある。しかしこれらは、事実をたんたんと伝える几帳面さと分かりやすさをもたらしている。内容はネットではずいぶん前から周知の事ではあった。しかし日本のマスコミは、友好とおもねりとりちがえてか何なのか、とりあげようとしなかった。そんななかで、マンガという分かりやすい印刷媒体で表現した意義は、大きかったろうな。」
道端「マスコミではネットの議論を便所の落書きと評し、ネット由来の嫌韓への軽蔑を語る文化人は多いですが。」
河端「道端君は、昨年の4月15日エントリーの記事のコメント欄でこんなことを書いてたよな。「・・・このへんはなにか、言論の傷を見つけたするどい論客のピラニアがいっせいに食いついたような印象をうけました。私も自由な批判的議論を非常に重要だと思っていますが、議論の質を高めるには、批判の対象の議論をできるだけ強いものに設定する事が必用だと思います。ですから、権威あるとされているメディアや専門家などの言論の傷でしたらわかるのですが(この辺がネットの主要な言論領域で、ネットには言論の傷をすばやく見つけて食いつくタイプの論客が多いようです)、単に言論の傷を見つけては食いついていく子供っぽいオートマティズムはどうかと思いますし・・・」」
道端「コメント欄まで読んでいただいてたんでしたか。恐縮です。」
河端「道端君はピラニアとかオートマティズムとか言っているが、ネットの記事や議論では、論拠の提示や議論の整合性のチェックを、広い範囲のソースを参照して自動的に行い、インチキや隠蔽があるといっせいに食いついていく、こんな運動があるようだな。なにしろ自宅のパソコンで検索すれば古いものから最新のものまで世界中の関連情報に網がかけられる。マスコミが報じない、インチキや隠蔽を検出してネットにあげれば、ネットのなかで多くの注目と参照がなされ、マスコミや社会にもなにがしかの影響を与えることもある。2002年のワールドカップあたりからのネットのいわゆる嫌韓記事も、ワールドカップのおける韓国の不品行や疑惑に関する情報について、マスコミの隠蔽があったから盛り上がったのだろうな。ネットに韓国や中国に関する否定的な情報や議論のサイトが多いのは、マスコミの報道の偏りや隠蔽と相関的なものと見なくてはいけないだろうな。」
道端「NYタイムズにでたマンガ嫌韓流への批判はどうなんですか。」
河端「ああ。例の大西記者の記事か。occidentalismというブログで詳細に批判されているので、読んで見ると良いよ。大西というと、小東の反対だな。中華思想から見た、反日エージェントのコードネームかもしらん。」
道端「えっ。本当ですか。」
河端「冗談だよ。まるでなんかの化身みたいだから言ってみただけだよ。」
道端「いわゆる進歩的文化人の対応はどうなんですか。」
河端「事実の検証をぬきにして動機とか社会背景の議論で、いわゆる嫌韓を否定しようとするのが特徴だな。事実の検証に入ると、マスコミの報道の偏りや隠蔽が明らかになるし、反論もしにくい。動機や社会背景の議論で、ネット由来の嫌韓を否定すると、やや上からの議論が文化人ぽいし、ネット対マスコミの局面ではネットを批判した方がメディアの覚えはめでたいだろうし、戦前の日本は悪で日本のナショナリズムは許されないという政治的立場(韓国や中国のウルトラナショナリズムには眼をつむるが)とも整合的というというわけだろうな。」
道端「精神分析では、エディプス複合みたいなトンデモ理論を批判すると、それも抵抗のあらわれだとか、まともな批判や仮説検証の試みから、斜め上に逃げますし、ポストモダンでのソーカルらのテキストに則した詳細な批判に対し、フランス文化への攻撃だとか日本ではポストモダンは制度となってないからソーカルらの批判は関連性がないだとか、やはり正面から批判に答えようとしません。」
河端「ああ、たしかリカちゃんだかなんだか、いたなあ。まあその辺の子難しい話しは道端君に任せるよ。」
道端「はい。そのうち書いてみます。」
河端「で、動機や社会的背景の話しだが、これはどちらの立場からでも、お互い様で何とでも言える。それとは関係なしに、事実の検証は出来るし、しなくてはならない。例えば、蛇嫌いの研究者が蛇毒の危険性を主張する研究を発表したからと言って、お前は蛇が嫌いだからそんな研究を発表するんだなんて、反論はしないだろ。蛇が好きだろうが、嫌いだろうが事実は事実として確定できる。」
道端「たしかにそうです。」
河端「そして言論という点で言えば、ネットでの嫌韓の言論は、マスコミの報道の偏りや隠蔽との関連で、インチキや隠蔽を検出というネットの機能を活かした一定の役割を果たしていると評価できる側面はたしかにある。残念なのは、マスコミがそんな状態なので、事実の認識に基づいた将来の構想や戦略まで言論がなかなかいかない事だ。一方には、事実を誤魔化したお花畑の構想があり、もう一方には事実の誤魔化し、インチキや隠蔽の摘出がある。事実の認識に基づいた将来の構想や戦略の言論までなかなかいきにくいような状況かもしれない。」
道端「ええ。構想や戦略はネットが得意とする領域ではないですから。」
河端「この点で、福沢諭吉の脱亜論は冷徹な事実の認識に基づいた将来の構想や戦略という点で、振り返ってみる価値がある。1885年の論文だから、相当に時代状況は異なるが、変わらない点もある。」
道端「ずいぶん長くなりましたから、河端先輩のご説はあらためてうかがう事にします。」
河端「まあ、ご説というほどでもないけどな。またにしようか。」

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。