道端鈴成

エッセイと書評など

エリオットの教訓

2005年03月31日 | 心理学
 不安や恐怖、抑鬱などの感情は苦しいものです。また怒りや憎しみによる行動は危険な時があります。このような否定的感情はなくなったほうが良いと思うかもしれません。痛みの感覚もなくなったらどんなにいいでしょうか。しかし、痛みの感覚や、否定的感情は、環境に適応していく進化のなかで形成されたもので、生きていくための大切な役割があります。痛みの感覚を持たない無痛症の人がいますが、常に体中傷だらけだそうです。脳の障害により恐怖や不安、怒りなどの感情が生じなかった人も知られています。(ダマジオ「生存する脳 : 心と脳と身体の神秘」講談社)に紹介されているエリオットの症例。神秘など邦題にはありますが、原題は Descartes' error : emotion, reason, and the human brain. です。)。エリオットは、知能がきわめて高かったにも関わらず、仕事で信用のできない人間に騙され、同じ失敗をくりかえし、生活が破綻してしまったそうです。(破綻しても、淡々と人ごとのように受け取っていたそうですが。)ギャンブル中毒になる人には、恐怖の中枢の働きが弱いという研究もあります。恐怖や不安、怒りなどの否定的感情は、危険を避け、障害を除去するためになくてはならないものです。
 西欧の思想では伝統的に、感情を理性による合理的判断と対比させ、感情を合理的思考による問題解決をする上での障害と見なすのが通例でした。一般でも「感情的」というのは、非合理的と同義につかわれることが多いようです。しかし、最近の認知科学では、感情的反応における合理性を見直しつつあります。今日の認知科学における感情研究の主流である感情の認知的評価理論では、人間の種々の感情を、出来事の一連の評価にもとづき行動を導き、他者に伝達するしくみとして、とらえています。先にあげたダマジオは、感情における身体的反応のモニターが、日常生活における問題解決で重要な役割をしていることを、ソマティックマーカー仮説により一般化してとらえ、しめしました。Jesse J. Prinz(2004) による、「Gut Reactions: A Perceptual Theory of Emotion 」 Oxford Univ Press.は、若手の哲学者による、ソマティックマーカー仮説と認知的評価理論の統合の試みで、最新の研究の進展をおさえつつ多面的な感情の全体像をとらえる手腕には感心しました。Prinzは現在、「The Emotional Basis of Morals」という本を準備中だそうです。前に、PinkerのThe Blank Slateでの、標準的社会科学における人間観批判にすこし言及しましたが、心の科学(こちらはまっとうな科学になりつつあります)による今日の主流派の社会科学批判につながるものとして、Prinzの仕事も興味津々です。
 もちろん、合理的な問題の吟味にもとづく、感情との対話、感情の適正化は必用です。しかし、感情とくに否定的感情がないふりをしたり、無視したり、他人にそれを要求するのは、有益ではないと思います。もともと感情的反応が欠けていたエリオットになにが起こったのか、エリオットの教訓を知るべきです。感情がないふりをしたり、無視したりすれば、エリオットならぬ常人では変態化した感情が潜行するだけです。これは、個人だけではなく、社会や国でも言えることだと思います。わかりにくい抽象論の前置きが長くなってしまいました。具体的な話しは、また、おいおい書いていきたいと思います。

人権擁護法案を考える市民の会

2005年03月30日 | 人権擁護法案
  トラックバックしていただいた4月4日日午後6時30分からの日比谷公会堂での集会、長谷川先生の原理的な話し、西村先生の時事的な話し、これに政治家や拉致問題関係者、実務関係の人の現場の話しがあると、ちょうど良い組み合わせで、面白そうだ。自分は、東京から遠く、仕事もあるので出られないのが残念だ。
  法律家は、車の技術者みたいなものだと思う。車の細部の仕様には詳しいけれど、安全性の基準や、どんな人が運転するのか、社会でどんな効果をもつかは、車の仕様からだけではわからない。でも、車の技術者は、ちゃんとした仕様なんだから、運転手もちゃんとしているはずだ(保証できない)から、フェイルセーフやフールプルーフなんていらない(出来る範囲でそなえるのが常識だ)というか、ちゃんと仕様や関連文書を読んでから文句言え、わかんなきゃつべこべ言うな、なんてことはない。最近は医者も患者にちゃんと説明をする。法学は、工学や医学に比べれば科学的基礎は弱いし、社会に関する問題では無知の領域はより広いはずなので、より謙虚になるかと思えば、どうやら謙虚さは無知の領域の広さに反比例するようだ(注1)。社会でどんな効果をもつか大筋を押さえようと真剣に検討せずに、その点に不安や異論を持っている人を、細部の仕様の議論で、煙幕に巻こうとしているのではないかと思えてくる。法律の技術者はどっちの顧客の方を向いているのだろうか。

注1:工学は自然制御の技術学、医学は人体の病気を制御する技術学、法学は社会制御の技術学である。技術の基礎となる基礎的な科学は、工学、医学、法学の順でよわくなる。これに対応して、儀礼と資格への要求はつよくなる。医学は、だれもがみとめる権威ある専門職だが、病気がなぜなおるのか、わからないこともおおく、呪術師的な権威と儀礼はやはり社会的に必要である。しかし、資格は基礎知識のないひとによる医療の危険をさけるための実質のものであって、権威維持のためのものではない。工学は儀礼をあまりもたない実質の専門職である。法学は儀礼と資格がとくに重要な権威ある専門職である。言語学者のチョムスキーは、数学者のあつまりで話しをしたときには数学の学位があるかとか形式的な要件は問題にされなかったが、政治学者のあつまりで話しをしたときにはそうでなかったといっている。

切り込み隊長こと山本一郎氏の本

2005年03月29日 | 書評・作品評
  証券会社に勤めている後輩から、株をやってみないかと言われた。余裕のお金はないけど、営業で苦労しているようだし、どうしようかと思って、株についてはまったく無知だったので、切り込み隊長の「美人(ブス)投票入門」を読んでみた。よたをかましてるようでいて、実に冷静かつ客観的に株投資について述べられている。それで、次のような返事を送ってしまった。
 「切り込み隊長の本には、推奨銘柄の1年後の平均値は下落なので無視するのがよく、自分が特に詳しい業界があるなら、将来性を思い入れなしに予測してすぐに売らずに長期的に保持し、しかし見込みがないと判断したら損切りは早めにと書いてあり、合理的だと思うと同時に、時間とお金に余力がないと、できないゲームだと思いました。投資行動としては、利益損失×確率=期待値を最大化するのが合理的ですが、人間は損については少額でも嫌い、逆に得については少額でも確実に確保しようとしてしまいます。このため、損失が生じないわずかな可能性にかけて大損をしてしまいがちですし、逆に利益については大きな利益の可能性を逃してしまいます。そんなことで、私の方は、ゲームに参加するお金も時間もないのが実際のところです。」
「美人(ブス)投票入門」 (オーエス出版)
「ニッポン経営者列伝 嗚呼、香ばしき人々」(扶桑社 )
「投資情報のカラクリ」 (ソフトバンク・パブリッシング )
「けなす技術」(ソフトバンク・パブリッシング )
  経営者列伝は連載もの、投資情報のカラクリはたぶん自分の会社でのプレゼン、けなす技術は自分のブログ経験、とそれぞれ、元になる材料はあるにしても、一年やそこらで、自分の会社やブログをやりながらこれだけ書く筆の早さは相当なものだと思う。「けなす技術」は、おそらく一番急いで書かれたように思える。それとわかるような内容の薄さもあり、けなす技術については何も書いてない。しかし、ブログについては、適切な助言や観察がしっかりしめされている。
  山本一郎氏の書くものを読んで感じるのは、まず、膨大な事実情報をおさえる情報処理能力の抜群の高さである。この辺は、投資家、ゲーマーとしての能力、経験から来るのだろう。ただこれだけでは、たんなるオタクの羅列記事になってしまう。これに、しきりにとばされる2ちゃんねる的ヨタ(不快になる人も多いかもしれないが)と、状況を外から把握しようとする視点(引いて概観しようとする姿勢、不明確な点をはっきり分からないというメタ認知など)による、ある種の批評性が加わる。論点を批判しつつ自分の立場を主張するようなところはあまりない。バーク流の保守主義も自分の立ち位置としてあっさり提示されるにとどまる。ネタとヨタはかなりあぶなく偏っているように見えながら、切り込み隊長、実は、山本一郎だったというように、最終的な結論、集約点は案外に常識的である。この辺は、一見まともに見えながら、トンデモな主張や煽りが、商売やメディア、政治の世界には多いので、あるいは、その裏返しということになるかもしれない。

国会議員からの連絡

2005年03月27日 | 人権擁護法案
どちらも高い知性と責任感を持ち国と国民の将来を真剣に考えている若い世代の議員だ。利権政治屋などに負けないで欲しい。彼らのために、なにかできる応援をしようと思った。

国会議員からの連絡(1)

 みなさんこんにちは。衆議院議員の城内実です。
 人権擁護法案に関する激励のメールありがとうございました。3月24日現在でメールの数は1000通を越えました。古いものから順にプリントアウトして現在700通まで目を通しています。残りもファイルしてこのあと全部読みます。メールやファックス、手紙からおひとりおひとりのそれぞれの思いや気持ちがストレートに伝わってきます。
 現在私は花粉症に悩まされておりまして、この時期は通常の7割程度にパワーダウンしています。そうした中、夜なべして人権擁護法案の問題点を指摘するペーパーを作成するのは正直言って肉体的に結構つらかったのであります。しかしながら、この法案がこのまま通れば大変なことになるという危機意識と、皆様からのたくさんの応援メールやファックスが大きな励みとなって、なんとかがんばり通すことができました。
 心から感謝申し上げます。
 マスコミはなかなか正確に本件をとりあげてくれませんが、皆様とともに草の根の運動でなんとか世論を喚起していきたいと思います。これからも宜しくお願い申し上げます。
 本法案について今後どうなるかまだまだ予断を許しませんが、健全な国民の良識を背景に、正しい方向に最終的に決着するよう、私も微力ながら一層奮起します。

                          平成17年3月24日
                          衆議院議員  城内 実


国会議員からの連絡(2)

こんにちは。古川よしひさです。
激励ありがとうございます。
「理解者がいてくれる!」と思うと、体中に勇気がみなぎります。
 ところで、法案推進者の勢いは衰えを見せないどころか、
かなり激しい巻き返しもあり大変危惧しています。
にわかに国会会期の大幅延長の話も浮上し、長期戦も覚悟せねばなりません。
 残念なのは、ことの本質が国民に十分知らされないことです。
一部のメディアは、あえて「北朝鮮問題」などに問題を矮小化し、法案の危険性をさらに見えにくいものにしています。
しかし、賢明なるみなさんはすでにご存知のとおり、
「右」も「左」もないのです。
いま、崖っぷちに立たされているのは、
「思想・表現の自由」「自由と民主主義」そのものなのですから。
最終的に事を決するのは、国民一人ひとりの良識の力です。
広く国民世論を喚起できれば、自ずから正しい道が示されると確信します。
そのために、一人でも多くの方々にこの危機を知って頂くために、
お力を貸してください。
 有志が、以下のような集会を企画してくれました。
東京近辺のお知り合いにお声をかけていただいて、大きな大会にしましょう。
「国民の良識」を信じています。
                  衆議院議員 古川禎久


「 人権擁護法案を考える緊急大会(仮称) 」

平成17年 4月 4日 (月) 18:30 開会
日比谷公会堂
入場無料
登壇者等、内容は後報
主催 : 人権擁護法案を考える市民の会
お問い合わせは下記メールにてお願いします。
jpn.hirata@nifty.com(集会担当幹事 平田文昭)
件名に 日比谷集会の件と入れてください。
ウィルス対策で、それ以外のメールは自動削除となっています。

町田康と切り込み隊長

2005年03月27日 | 書評・作品評
  以前、知り合いのグールドファンの女性に、なにか面白い小説はないかということで、町田康の「くっすん大黒」と車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を紹介した事がある。車谷長吉はさすがに気に入らなかったみたいだが、町田康は、今では、ネコの写真集まで持っているらしい。私の方は、「へらへらぼっちゃん」、「夫婦茶碗」あたりまでは、楽しみに読んでいたが、そのあとメジャーになってからは、読まなくなってしまったのだが。
  町田康の面白さは、パンクなアナーキーさと古風な生真面目さの妙な混交が、生きの良い文体で展開されている点にある。
「寝転がっては見たもののちっとも眠くならないうえ、おまけにむらむらと怒りがこみ上げてくる。というのも、自分は、ぶらぶらするばかりでなく、寝床でぐずぐずするのも好む性分なので、枕元周辺にはいつも、生活用具一般、すなわち、ラジカセ、スタンドライト、湯呑、箸、茶碗、灰皿、猿股、食い終わったカップラーメンのカップ、新聞、シガレット、エロ本、一升瓶、レインコートなどが散乱しており、それらに混じって、いったい、なぜ枕元周辺にそれがあるかよく分からないもの、すなわち、ねじ回し、彩色してないこけし、島根県全図、うんすんかるた、電池なども散乱しているのであるが、そのよく分からないものの中に、五寸ばかりの金属製の大黒様があって、先前からむかついているのは、この大黒様、いや、こんなやつに、様、などつける必要はない、大黒で十分である、大黒のせいなのである。」(町田康「くっすん大黒」)
  こういう、でたらめに吐き出されるようでいて、ぴったりきまった表現など、読んでいるとうれしくなる。こういう表現は、活字だけでは出てこない、話し言葉の芸の蓄積をひきついだものである。
  むなぐるまさんがブログで指摘しているが、切り込み隊長の文章のいきのよさには、たしかに町田康を思わせるところがある。また考えの体質も、切り込み隊長の相場師としての冷徹さとバーク流というか心情的な保守主義の奇妙な混交は、町田康のパンクなアナーキーさと古風な生真面目さの奇妙な混交と似ているというか、そのへんが私にとっての魅力である。また両者共に、ネコ好きである。
  そんなことで、先のグールドファンの女性に、おすすめとして切り込み隊長のブログを紹介してみた。そしたら、切り込み隊長には、かわいらしさがない、品がない、比較にならないと散々だった。たしかに、町田康のCuteさと話芸の完成度にはかなわないし、反発をまねくところもあるだろう。しかし、切り込み隊長には、また別の面白さがある。最近出た「けなす技術」などの感想を書こうと思って始めたのだが、またの機会にしよう。

党派的レッテル貼りと悪魔の回路

2005年03月23日 | 人権擁護法案
 小倉氏のサイトについてのコメントをいただきました。小倉氏のサイトとコメント欄などでのやりとり(http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/d/20050321)を通読すると、人権擁護法案が成立したときに、なにが生ずるかを実験的に示しているようで、興味深く、また恐ろしかったです。
 ひとつは、人権擁護法案への批判的議論をする人にたいして、本音では差別を容認しているのだろう、さらには、差別主義者だろうなどのレッテルが貼られようとしていることです。小倉氏のサイトでの批判的意見をみていますと、理性的に具体的な問題点を指摘している人がほとんどですし、IT弁護士で大学の講師でもある小倉氏にも特定の団体や集団などの強いバイアスはないと思います。こういう状態でも生ずる、差別に与しているだろうという党派的レッテル貼りを見ていると、もっと、特定の団体や集団などの強いバイアスがある状態では、また法律のお墨付きをえての家宅捜査や差別者としての公表が可能になったときには、なにが生ずるだろうと、憂慮せざるをえなくなります。
 しかも、小倉氏は、ある国会議員に対して、ネットのデマを信じて法案に反対しているときめつけていますが、根拠を問われると、ごまかして答えません。人間は思いこみや誤りをさけられません。ですから、根拠なしに憶測で言ってしまったとすなおに認めれば良いのです。しかし、誤りを認めようとはしません。人権擁護法のもとでの差別者としての認定についても、現在の法案では、有効な抗弁の手続きや、認定の誤りに対する救済措置が用意されていませんし、一旦はられた差別者としてのレッテルを事実の提示や議論でそれを覆そうと試みても、長期の裁判などの一般人の人生にとっては耐えられないほどの大きな犠牲を払わない限り、ほぼ不可能でしょう。人権擁護法案では、人権委員会が誤りを犯した場合を想定していないからです。人権擁護法における委員は無謬の天使とでも想定しているのでしょうか。まるで人治主義の時代にもどってしまったようです。
 人間には、我々と彼らという、党派の論理が備わっています。学級集団に心理テストをして、二つのグループに分けた実験があります。実際は、実験者が学級をランダムの二群に分けただけです。しかし、このラベルは、強烈な効果をもたらしました。子供達は、自分が属さない集団とその成員に対し、否定的な態度と低い評価を持つようになります。こうしたレッテル貼りが、差別の基盤で、小倉氏のサイトでも見られたものです。レッテル貼りにたいして無謬であるとの信念があったり、それにたいする自由な批判的言論が抑圧されると、レッテル貼りは固定化してしまいます。
 我々と彼らという、党派の論理の基礎になるのは、負×負=正という単純な感情論理です。これは、ハイダーという心理学者が最初に定式化し、現在では、社会心理学や集団力学、社会学での展開がなされています。この単純な、感情論理は、集団においては、敵の敵は見方、共通の敵を通じての団結といった党派の論理の基礎ですし、個人の内部では、負と見なす対象にたいして負の態度や行動をとることによる正の実現といったことになります。負と見なす対象(彼ら:理想の敵や妨害者、愛するものの敵、等々)への負の態度や行動(侮蔑、攻撃、懲罰、虐殺、等々)は、端から見ると、負の態度や行動が見えますが、本人の意識には、負と見なす対象に対する負の態度や行動(負×負)を通じて、理想や愛するもの、仲間への連帯のあかしといった、正の価値が焦点的に意識されます。「地獄への道は善意でしきつめられている。」という言葉がありますが、善意のタイルの意識される表は正ですが、その裏側は負×負なのです。負×負=正という単純な感情論理は、人間にそなわった、社会的動物としての基本回路です。しかし多くの悲惨を人類にもたらした悪魔の回路でもあります。
 「フェデラリスト」では、人間の党派性の害悪を指摘したあと、党派性を除くことはできず、その悪影響をさけるしくみが必用であると述べられています。憲法案の起草ということでより広い政治状況での議論ですが、基本となる考えは次のようになります。「人間が天使でもないかぎり、権力は必用とされる。しかし、権力は、まさにその人間が行使するゆえに、濫用の危険性、自由を侵害する危険性を常に伴う。それゆえ、権力は空間的に分割され、また機能的にも分割され、さらに相互に制約するように構築されなければならない。」これは、無垢の正しい源泉を保証すれば正しさが保証されるという正当化主義のアプローチではなく、誤りや党派性の悪影響をさけ、除去できる仕組みを良しとするもので、言論の自由と併せて自由社会の基礎となる考えです。人権擁護法案は、その法的不安定性にもかかわらず、誤りや党派性の悪影響をさけ、誤りを除去できる仕組みを実効的に備えておらず、言論の自由への配慮が示されていません。「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもの」などという点に、正当な運用の担保を見いだすなど、自由社会の基礎となる考えに逆行する方向ではないかと危惧されます。
 人間の党派性や誤りやすさやの認識は、モラリストの領域のテーマです。アメリカの建国の父達には、モラリストの洞察が引き継がれていたのだと思います。西尾氏の人権擁護法案への批判には、やはり氏の卓抜したモラリストとしての教養と洞察があり、耳を傾けるできだろうと思います。
 負×負=正の感情論理で、すこしふれましたが、人間の党派性や誤りやすさやの認識については、進化心理学や社会心理学、認知科学などでの科学的研究がすすみつつあります。私の考えでは、これは方向としては人間性に関するモラリストの洞察を科学的に探求し、ピンカーが、Blank Slateで標準社会科学における人間観を批判しているように、20世紀の社会科学の標準的人間観の誤りを実証する方向だろうと思います。この辺の問題については、また時間がありましたら、もうこし具体的に書きたいと思います。

人権擁護法批判に対する反批判への疑問

2005年03月21日 | 人権擁護法案
 人権擁護法批判に対する反批判の弁護士Blog(小倉氏)があったので、読んでみました。種々の法令を引用しての、専門的な反批判ですが、人権擁護法に対する危惧は、解消されず、むしろ増しました。以下、一般人の立場から、意見を述べたいと思います。
 まず、人権擁護法に危惧を抱いている人は、これまでの人権団体による糾弾などの被害の例を数多くあげているのにたいし、それを知ろうともせず、関連性がないと無視しています。法律の文言の整合性だけを問題にし、それが、実際にどう運用されるかへの、真剣な心配をあまり考慮していないように見えます。これは、匿名の官僚によるBlogでの、人権擁護法批判に対するより慎重な反論でも同様で、あきらかな誤解の指摘は有益ですが、これだけ一般の国民に関連の深い法案が、こうも解釈できるなどと、優秀な官僚の解読をまつようなことで良いのでしょうか。これは、メディアの責任でもありますが、法律用語の専門性を誇り、誤解をわらう前に、立法と行政に携わる側としては、一般の国民に分かりやすく伝えられていないまま、成立してしまうことを問題とすべきではないでしょうか。正しさは、誤りを除去する事によってのみ近づくことが出来ます。よらしむべし、知らしむべからずではなく、自由な言論を通じて、可能な誤解もふくめ問題点を明確にし、という過程が民主主義国家には必用ではないでしょうか。そのためには、人権擁護法は、国民に知らされる形での、議論がなされなさすぎです。かりに法案に危惧されているような問題がなかったとしても(これは、以下にしめすように、事実とはまったく異なる想定ですが。かりにそうしおきます。)そんな状態で成立させていいのでしょうか。
 法律家は、正当化にたけています。正当化の根拠は、種々の法令や判例などです。権威のある正しい源泉から導かれた結論は正しいとして、法的知識を総動員して、ある主張なり、法令などの正当化を試みます。しかし、人間と社会に対する理解なしに、もっぱらこうした正当化主義のアプローチによることは危険です。人間は、誤りうる存在であり(可謬主義。ポパーなどを参照。)、また党派的動物(単純な性善説で社会の仕組みを作るのは危険。「フェデラリストNo.10.」などにおけるアメリカ建国の父の思想を参照。)です。これは、「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもの」であっても同様です。法律家は、他の法案でも同じ文言が使われているなどと正当化しようとするでしょう、しかし、これは同じ無意味な飾りが他でも使われている程度のことにしかなりません。権力行使の他の機関によるチェック、権力行使の誤りへの対処などが、具体的に、かつ実効的に用意されていることが必用です。自由な言論は、こうしたチェックと誤りへの対処が可能になる不可欠の環境です。人権擁護法案は、差別的と見なされる言論も対象にしていますので、悪用すると、人間の誤りやすさと党派性への、解毒剤となる自由な言論そのものに妨害的な影響をあたえる危険があります。
 実際、弁護士Blogでは、人権擁護法に賛成しないか、修正案を出さないのは、差別容認しているのではないかと疑われるなどと、早くも人権擁護法の自由な批判的議論への抑圧効果を暗示しています。以下は、弁護士Blog(http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/1)のコメント欄でのYukitomi氏による意見で、小倉氏が結局答えなかったものです。非常に理性的な意見だと思いますので、下に引用します。こうした疑問に答えることは、一般の国民の生活に関係の深い法案を新しく制定しようとする側の義務だろうと思います。


■歯止めの不在
人権委員会は実質的に同じ組織の中で、告発・認定・強制措置が可能。これは、警察が強制捜査を行うには裁判所の令状が必要といった形で歯止めがあることと比べると、歯止めがなさすぎやしないでしょうか。かといって、法務大臣は管理監督権限がなく、委員の身分保障条項もあるため解任もリコールもできない。あまりに恣意的運用を可能にする余地が大きすぎると思います。

■救済(対抗)措置がない
人権委員会の活動に対して、救済(対抗)措置がない。もちろん、裁判によればいいのですが、一般の社会人(しかも、人権委員会により告発されていれば、その時点で社会的制裁をうけると想像される)は、裁判を維持すること自体が難しいのではないでしょうか。これは、人権委員会が自らの組織内だけで“権力行使”できることに比べると不公平すぎないでしょうか。

■法的安定性を欠く
「人権」という言葉はあまりに範囲が広く、具体的にどのような言論が人権侵害になるのかという予見が困難。このことは人権委員会に恣意的運用を可能にする余地を大きく与えるとともに、実際に告発に至らなくても言論を萎縮させる可能性があります。例えばサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』は、日本人から見れば、ただの小説にすぎませんが、イスラム教への冒涜であるとして、ホメイニ師から懸賞金付でラシュディと出版社は死刑宣告をされました。立場が違えば、言論に対する評価は全く異なるものになる例だと思います。イスラム教徒にとって『悪魔の詩』は自分達の宗教への冒涜として「人権侵害」であるということができます。このように推し進められていくと、一人でも「人権侵害だ」と強弁すれば、なんでも人権侵害だと認定されて、言論が封殺されてしまうのではないかという疑念があるのです。
過去(現在でも)人権の名のもとに、言葉狩りが行われたり、講演会が中止に追い込まれと、実質的な言論弾圧に近いことが行われています。であるから、「人権」というあいまいな定義での言論の取り締まりを危惧するのです。

言論の自由は、民主主義の根幹をなすものであり、それに制限を加えるような法は、他の法より以上に慎重になるべきだと思います。

■解同が実際に悪用の意図をもってるかどうかは、私は問いません。ただ、解同のような組織が悪用の意図をもっていたと仮定した場合、現行法案では、その悪用を容易に許してしまうのではないかというのが不安派・反対派が恐れていることです。「性善説」にたちすぎた法案で、言論の自由という民主主義の根幹に対する規制となる法案なのだから、もっと慎重に、「性悪説」よりにたつべきではないかということです。

?「人権委員がそれを「不当な差別的言動」であると認定して是正勧告を行い、その旨を公表したところで、世間はそれを「不当な差別的言動」とは見なさないわけですから、何らおそれる必要はありません。」?
■どの程度の情報が公開されるか判然としませんが、過去、ロッキードの「灰色議員」のように、起訴もされていないのに、以後、ずっと世間の批判にさらされた例があります。公表された時点で、「くさいものには蓋」とばかりに、内容をよく吟味されないまま所属会社からの解雇などの社会的制裁を受ける可能性は高くはないでしょうか。とくに実力行使にでるような団体相手の場合は。

?「少なくとも差別的言動等との関係でいえば、勧告及びその内容等の公表以上のことはできません」?
■これは上記同様、公表された時点で、社会的制裁を受ける可能性が高いという不安があります。

?「「いくらでも拡大解釈」して「恣意的な運用」をしてみても、人権委員等が恥をかくだけのことです。」?
■恥をかかすためには、表現の自由が確保されていることが大前提です。人権委員に対する批判自体が封殺されてしまえば、無意味でしょう。

人権擁護法案

2005年03月14日 | 人権擁護法案
  ゴミ捨て場を夢の山とよび、オーウェルの1984年における検閲と変造を任務とする真理省のような、すてきな名称の法案が今国会で通るかもしれません。人権擁護法案です。「人権擁護法案は、人権侵害の定義があいまいで、恣意的に運用されるおそれがあります。しかも令状なしの捜索と押収が可能です。人権の名のもとの人権侵害が、人権委員会によって、より広範囲に、法のお墨付きを得てなされることが危惧されます。名称とは反対に、特定のいくつかの集団による言論弾圧と人権侵害が、なされかねない法案です。自由社会を守るため、人権擁護法案を通さないで下さい。」などのメールを自民党と政府などに出したのですが。
http://blog.livedoor.jp/no_gestapo/
 ところで下のサイトの、politicalcompassをやってみました。
http://www.politicalcompass.org/
  Economic Left/Right: -3.63
  Social Libertarian/Authoritarian: -1.18
  結果は、経済的には左で、社会的にはややリベラルということでした。右翼だとか、人から言わることもある私がこの程度とは。基準がアメリカのせいもあるでしょうが、日本の言論空間の枠の中心はpoliticalcompassでは、ずいぶん偏っているのでしょう。
  下は、skyscrapercityにおけるmew さんの発言です。

http://skyscrapercity.com/showthread.php?t=128319&page=5&pp=20

mew

Quote:
Originally Posted by v9
「The best educated Japanese have already abandoned the hopelessly incorrect histories that the LDP's right wing (together with Yakusa elements) push upon the Japanese populace.」

What is going on in Japan looks like exactly opposite.

I am surprised it seems you don't know how strong the socialist influence in Japan. The Teachers' Union is a socialist-based organization, and one of its former leaders once highly praised Kim Il Sung (really!!). And what they have told Japanese pupils are "The Chinese and the Koreans are always right!" "Japan is an evil nation!" "Your father is a murder!" to the children of SDF soilders during classes.

Right-wing in LPD? That's too easy. If you want to believe things are that simple, go ahead.

That holds for media, too. One of the most major papers in Japan, which sells 8 million copies a day (according to them), has had tendency to be sympathetic with socialism. The paper once praised Stalin saying he's a gentle uncle, and Pol Pot is full of 'Asian kindness', and North Korea 'the Paradise on the Earth.'

In short, the Japanese people have been deceived. Of course there are many conservatives, but it's been really hard to criticize those socialist-minded people in fear of practical retaliation. That is why Japan has been so obedient to Koreans and the Chinese. There's no need for it to be logical, the one who claims loud is always right.

If you haven't lived in Japan for some long time, it may be difficult to acquire this sense.

This is beginning to be changing. It's thanks to Koreans and Chinese guys.


Quote:
Originally Posted by v9
「The sooner other Japanese see through such lies, the sooner they can truly make peace with the rest of Asia.」


Yes, the lies have been being betrayed.

By the way, do you know that many (some one third) of Yakuza are Korean Japanese?