日本とキリスト教:正統-異端、多様性、西洋コンプレックス

2013-12-18 18:38:26 | 宗教分析

1%程度しか信者がいないという今日的状況から逆算して、キリスト教は元々日本に馴染まないものであったと語られることがある。しかし、戦国時代~江戸初期においてはそれなりの信者数が存在していたのであって、そのような視点は粗雑にすぎると言わざるをえない

 

これに対してマリア観音などを持ち出し、「そもそもキリスト教のエートスを理解していたのか」と反論する向きもあるだろうが、それなら例えば「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」という教えは元来の仏教のエートスを理解していたと言えるのだろうか?また韓国のキリスト教はシャーマニズム的要素や現世利益的要素が色濃く含まれると言われるが(『韓国とキリスト教』)、同じくそれはキリスト教のエートスを理解していると言えるのだろうか?あるいはまた、イギリス国王がトップに立つ体制のアングリカンチャーチは、いかなる正統性を持つというのだろうか?あるいはかつて聖像禁止令(726年)と論争が行われたが、そもそも偶像崇拝はキリスト教において禁止されていたのではなかったか?etcetc...

 

いや、このような思考をする必要もなく、そもそも「キリスト教原理主義」なるものが一つの党派となりうること自体、原初的形態からの変容がむしろ一般的であることを示している。ゆえに、「日本において変容したキリスト教=日本的キリスト教とはどのようなものか?」であるとか「なぜそのような変化が生じたのか?」という問いを立てることは有意義であると思うが、「それはキリスト教であるか否か」というのは異端審問をしたいのでもない限り全くのところ無意味と言わざるをえない(「真理」との整合性よりも、多様性の襞に目を向ける方が実りがある、ということ)。

 

このような見地に立てば、マリア観音を含めたキリスト教の広がりは、日本が(多神教的にであれ)キリスト教を受容可能であったことを意味する、と解するべきだろう(多神教的要素を含むキリスト教などもはやキリスト教とは呼べない、という人がいるかもしれない。ただ、「聖霊」という要素を含む三位一体説を奉じるアタナシウス派に連なるキリスト教が多数派である現状などを踏まえると、そのような反論が説得力を持つのか疑問である。仮にそれをある程度認めるとしても、たとえば元来修行などを通じて輪廻から解脱することを目標とする仏教に関しては、阿弥陀仏にすがり念仏することによって成仏を目指す浄土宗などは仏教と言えないであるとか、現世利益を目指す仏教など言語道断である、と同時に考えなければ全くのところ片手落ちと言えよう)。

(続く)

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