理解と共感:共感という認識の虚構性

2005-11-19 21:34:11 | 抽象的話題
この世に存在するのは、理解、誤解、そして「共感できる」という誤解である。


(本文)
もし理解を「理(ことわり)を解すること」、共感を「ある行動や思考、感情を感覚・感情面で共にすること」というように定義することが正しいとしたら、私はこの世に共感など存在しないと思う。人の思考・感情というものは、数限りない(環境などの)前提・性格・行動原理・無意識から生じているのであり、それを他人が感覚的・感情的な面で正確に認識することは不可能だからである。

あえて言うなら、「共感」したという認識は、上述したような混沌や感情、さらには抽象的思考といったものが混交して生まれた行動や思考・感情そのものに対してではなく、言葉などによって混沌の部分が削り取られて限定されたものに対してのもであると言うことができる。

一例を挙げよう。あなたはある病気にかかったことがあるとする。そして今度は、あなたの友人が同じ病気にかかった。その友人は、あなたに自分の病状を訴える。ここであなたは「自分も同じ病気にかかったことがある。その痛みはよくわかるよ」と言う。

さて、この「痛みがよくわかる」というのはどういうことだろうか?少しのズレも無い、全く同じ痛みを共有・共感しているのか?…まさか!!!単にあなたは友人の言葉を聞いて、「彼が言うのは自分と同じ症状だ。だから痛みがわかる」と思っているに過ぎない。そこには、あなたがあなたの身体から感じる「痛い」の度合い、人から「痛い」と聞いたときに感じる「痛い」の度合い、そして友人が自分の身体から感じる「痛い」の度合い、ちょっと考えただけでも三つの感覚的・言語認識的断絶が存在するのである

このように考えるならば、いかに共感というものが起こりえないものであるかわかるだろう。もしも…もしも真に共感という現象が生じたのだとしたら、それはもはや「奇跡」とでも言うべきことであろう。そしてだからこそ、「理解しよう」という営為が重要になってくるのである。(続く)
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