ひぐらしのなく頃に:山本七平の「空気」と園崎天皇&雛身沢

2006-09-26 02:07:08 | ひぐらし
園崎天皇という呼び名は、園崎お魎の絶対的な権力を表すものとして適切なものだと思われてきた。だが『「空気」の研究』を読んでいると、作者は他の意味でも「天皇」という言葉を使っているのではないかと考えられる。


園崎家の支配は、ブラフによって「園崎家がやったに違いない」という雰囲気を作り出すことによって成り立つものであった。この事実は、それが「ルールZ」という名称を与えられることでも強調されている。


そして北条家が相変わらずいじめられていた状況もこの推測を後押しする。この状況は、閉鎖的な環境での、いわゆる「村八分」として我々にはわかりやすいものである。確かに、皆が皆「北条家憎し」で凝り固まっていたのなら、単に「村八分」という解釈で片付くように思う。しかし注目すべきは、誰もが「止めたい」と思いながらも周りの雰囲気でそれが言い出せず、結果として「村八分」の状態が続いたという事実である。こういった「良くないと思いながらも止められない」という状況は、山本七平言うところの「空気」に通ずるものがある。またそういった「空気」の中心にいながら、なおその「空気」に支配されていたのが園崎天皇であったところに注目したい。というのも、「空気」によって成り立つ天皇制、そして「空気」の中心にいながらも「空気」を統制するのではなく自身もそれに支配される天皇という、山本が暗示的に見せる天皇と日本社会の関係が、まさに園崎天皇と雛身沢の間にも成り立っているからだ。また綿流し編で提示された731部隊の話題が入江研究所に繋がっている事実なども考え合わせれば、園崎天皇という呼び方や村のあり方が山本七平の「空気」を意識した内容・構図であるという分析もそれなりに根拠のあるものだと思うがどうだろうか。


ここで想像をたくましくしてみる。形なく人々を支配している「空気」という怪物の正体は、実は雛身沢を支配している寄生虫なのではないか。そして「いわしの頭も信心から」と物に勝手な意味を付与して有り難がったり恐れたりする心性は、勝手に読み替えを行う「雛身沢症候群」によって象徴されているのではないか。ひぐらしは、そんな大掛かりなメタファーさえ意識しているのかもしれない。さて今回は、そんなイメージ的飛躍を提示しつつ稿を終えるとしよう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 感想:池上俊一『魔女と聖女... | トップ | 長いような短いような一年が... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事