映画「接吻」:沈黙、雄弁、「感情移入」

2010-09-26 18:24:33 | レビュー系
前に「犯人に告ぐ」の分析をやったので、豊川悦司繋がりで「接吻」の感想を書いておきたいと思う。簡単な紹介については予告編を見てもらうとして、ここでは強く印象に残った部分についてのみ触れる。


まず最初に言っておくと、この作品を傑作たらしめているのは間違いなく小池栄子(主人公)の圧倒的な演技力である、ということ。豊川悦司(犯人)の寡黙な役回り、中村トオル(弁護士)のピエロ的な立場&棒読み(笑)というアシスト(?)があるにしても、彼女のそれは際立っている。その事を念頭に置いて、以下の内容を読んでもらいたい。


<犯人の生い立ちが語られるシーン>
特別な理由もなく一家を惨殺する人間というものは、社会にとってみれば「狂人」と位置付けざるをえない(でないと社会が崩壊するので)。ところで、狂人の描き方に関しては、大きく分ければ二つの手法があるように思われる。一つは、狂気・犯行に到る背景を徹底的に描いて受け手を「感情移入」させる(できたと思い込ませる)方法、もう一つはそれを語らず「風景の狂気」として描く方法だ(後者の手法によって、前述の「犯人に告ぐ」のような視点が生み出されることもある)。

しかしこの作品は、そのどちらも採らない。具体的には、犯人の兄に彼の恵まれない生い立ち(親の死や兄に見捨てられた記憶)を語らせたその上で、あえて主人公に「でもそれは犯行を正当化する理由にはならない」と言わせるのである。これは先の二項対立的な描きかたをズラすという意味でも、犯人に最も近い立場にいるはずの存在が犯人に同情的な意見を否定するという意味でも、観客の意識を宙吊りにし、作品の緊張感を持続させる効果を上げている。もう少し詳しく説明すると、例えば主人公が兄の意見に賛同したなら、この作品は単に犯人の立場に寄りそって描く作品として、主人公は単に「犯人を擁護するヤツ」としてカテゴライズされ、その瞬間に作品の内容や主人公の発言・行動は予定調和へと堕し、緊張感が失われる、ということである(ex.キャラ的人間関係は予定調和による解毒化を目的とする→「偶然性、再帰的思考、快ー不快」)。

この描き方は一歩間違うと受け手にただ意味不明だという印象を与えてしまう危険性があるのだが、主人公の、相手の奥底まで見透かしてしまいそうな眼差し、そして毅然とした、いや超然とさえした態度が、その発言に有無を言わさぬ説得力を付与し、その場にいる兄や弁護士を含めた受け手は圧倒されるのである。そしてこのような主人公の発言・振舞い(あるいはその描き方)ゆえに、それらが無差別殺人を行った犯人に一目ぼれして結婚までした上に世間を見下すという「異常」なものであるにもかかわらず、受け手は思わず見入ってしまうのではないだろうか。

以上のことからすれば、決してカタルシスなどはなくとも、この作品の中で極めて重要なシーンだと言えるだろう。


<犯人が初めて声を出すシーン>
犯人は、不可解な行動を取った後で警察に捕まり、以後沈黙を貫くが、主人公の「もし私を受け入れてくれるなら、あなたの声を聞かせてください」という願いを聞き入れ、法廷で一言だけ言葉を発する。作中で初めて犯人が言葉を発すること、主人公の(今までの陰鬱なそれと対比して)心から嬉しそうな表情などから、このシーンが印象に残っている人も多いと思われるが、それはさておき、この一連の流れから「沈黙=拒絶、発語=受容」という図式を読み取ることが可能である。ここで決定的に重要なのは、内容よりも行為がフォーカスされている点だ。例えば、犯人は法廷で自分の本籍などについて聞かれた時も答えようとしない。これは不可解なことだ。なるほど確かに、自分の動機づけを聞かれるのは解釈の問題に絡むので、他人の勝手な憶測を嗤うといった世間への向き合い方に直結するのは理解できるが、変えようのない事実に関してまで沈黙を貫く理由にはならないからだ(*)。また序盤で犯人から主人公に送られてきた手紙には、主人公の手紙に対する否定的な見解が書かれているが、結局犯人は心を開いていったことも想起したい。その他、レポーターたちに向けた沈黙と笑みなど枚挙に暇が無いが、つまりは、事実だから言っても曲解される心配はないはずだとか、否定的な発言だから拒絶しているといった内容面の問題ではなく、沈黙するという行為それ自体が拒絶であり、言葉を発することは、たとえその内容が相手に対して否定的なものであっても、それ自体が受容として描かれているのである。

まあここは別に難しい話でも何でもない。「無関心・無視が最大の侮辱」といった話を思い出せばいいだけのことだ。にもかかわらず一々論じたのは、これを念頭に置けばラストの解釈が容易になるからである。というわけで、次は最後のシーンについて述べる。


<最後のシーン>
ネタばれしない範囲で言うと、「~死刑にならない」の部分は明らかに説明的すぎるが、おそらくこれは以降の発言の趣旨を考えさせる(違和感の萌芽を促す)ためのスイッチである。主人公はこの後「私をどうにかしようなんて思わないで」「ほっといて」と拒絶の言葉を繰り返すが、先に見たこの作品における沈黙と発語の位置付けを思い出せば、これが拒絶ではないことは明白である。根拠が薄弱に思えるだろうか?ならばこう言おう。彼女が、本当に、心の底から、そう思っているのなら、レポーターたちに向けたあの嘲笑(えみ)をただ弁護士たちに向ければいいだけだ、と。

このように見てくると、最後の言葉はむしろ救いを求めているのだと解釈することができる。問題はここからだ。最後のシーンは、主人公の激情もあって確かに強烈なカタルシスをもたらすように思える。 しかし沈黙と発語に関する位置付けを意識すると、主人公の行動が結局「私を理解してほしい」というだけのものになってしまい、陳腐化してしまうのだ。先の<犯人の生い立ちを語るシーン>で述べたカテゴライズを拒むことによる緊張感の創出が、ここでは失われている。そのことによって、あえて極端な言い方をすれば、「色々あったけど主人公って結局『ツンデレ』ってゆうか『ヤンデレ』ってことだよね」などとネタ化され、安全な枠組みに落とし込まれてしまうということだ。そのような事態が主人公が最も忌避する(はずの)ものだったことからすれば、主人公はラストで言葉を発せず、弁護士たちにはあの嘲笑を向けることによって、最後の最後までカテゴライズを拒絶する存在として描き、反カタルシスの形で作品を終えることの方が妥当だったのではないかと思うのである。


<まとめ>
前述のように、カテゴライズを拒絶する緊張感とそれでも受け手を引き付ける演技力の絶妙な調和が、作品世界を成り立たせていた。しかし後半になると、前者の要素が薄れて良くも悪くも「わかりやすい」作品になってしまっている。その事自体は必ずしも悪いとは言えない。ただ一つだけ気になるのは、、作品の前半と後半の関係が捩れていて、作者がどこを落とし所にしたかったのか今一つ不明瞭になっているという点である。そこが明確になっていれば、あるいはよりいっそう素晴らしい作品になっていたのかもしれない。

とはいえ、これはおそらくハイレベルな要求であり、最初にも述べたように十分傑作と言っていい作品である。見ごたえのある映画を探している人には、ぜひお勧めしたい。



全くの余談だが、発語を通じて相手を拒絶するという描き方なら、例えば以下のようなものが考えられる。

(1)罵倒
「てめえらのクソみてーな感性で俺の動機を推し量ろうと思うなこの愚鈍ども。」

(2)カバーストーリー
「この競争社会に被害を受けた俺は、そういう社会で油断してたらどんな目に遭うかを示して過酷な現実を見せてやりたかった。だから鍵を開けたままにしている不用心な家を狙ったんだ。」と適当な話をでっち上げて、「(より)理解できる=(より)正しい」と考える白痴どもを内心で嘲笑う。

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