ドラゴンボールの転換点:なぜ悟空はクリリンの死で超サイヤ人になったのか?

2016-09-29 12:25:14 | 本関係

 

昨日の記事では、ドラゴンボール(以下DB)という作品において、

1.DBが人を復活させることができるために、人の死が終わりではなく、むしろ復活させようとする新たな物語の始まりになること

2.目の前ですぐに魔法で復活させるようなことはできないため、DB集めの間その不在(重み)も同時に感じられること

が大きな魅力の一つであったと書いた。

 

その上で、DBの「一度だけ生き返らせることができる」というシステムのため、メインキャラでさえ簡単に殺すことができ、それが物語の展開を読めないものとしてスリリングさを確保することにも繋がったとも述べた。前回の記事では人が死なない前提の天下一武道会から一転してクリリンが殺される展開への落差を書いたが、亀仙人の死→その相手に挑むことによる死闘感の演出(もちろんクリリンの復讐が背景にあることは言うまでもない)。突如大きく成長した悟空が突如結婚をし、子どもも生まれファミリー漫画的要素(?)が入ってきて一体これから物語はどこに向かうかと思った矢先「サイヤ人」という新しい要素の登場とまさかの悟空の死、Z戦士が次々と死んでいく対ナッパ戦とその絶望感(それはまさに生き返ろうとしている悟空を待つ焦燥感とも重ね合わされる)・・・これらは全て、DBのシステムゆえに可能となった物語展開であるが、これこそが、連載ものにありがちな引き延ばされている印象を全く感じさせず、それどころか早く次が見たいと読者に思わせる原動力となったと言っていいだろう。

 

悟空が死に、悟飯がピッコロに連れ去られた時、チチは空を仰いで気絶したのだが、この反応は完全にコメディタッチで描かれている。結婚間もなくの夫と子を失った人間としては、半狂乱になってもおかしくないところであり、このような演出は人の死が不可逆な作品では決してありえなかっただろう。なお、DBのシステムによる先の見えなさは確かに重要だが、それが全てではない。たとえば、悟空が死んでいる間にピッコロ×悟飯という交流を導入したのは、今見ても神がかっているとしてか思えない。というのも、おそらく多くの読者が悟空って一体どんな父親として振舞っているのだろうという疑問・不思議さを感じたと思われるのだが、そこである種厳しさ=父性を代行する役割としてのピッコロを師匠役に持ってくるという配置があまりにできすぎているからだ。それと同時に、あの世・界王様という死後の世界を描写し、こちらは逆に死が関わっているのに極めてすっとぼけた話が展開されピッコロ×悟飯で描かれるまずは飯を自力で調達するといったある種生々しい展開と好対照をなしている。このように優れた演出が、DBのシステムと相まってDBを極めて優れた作品たらしめていることを強調しておきたい。

 

さて、以上のように考えてみると、フリーザ編の特異さに我々は改めて気づかされるのではないだろうか?特異さとは、クリリンが二度目の死によってもはや生き返ることができなくなったこと、そして悟空がおよそ初めて「キレた」ことである。後者に関しては、なるほど確かにクリリンが最初に死んだ時、タンバリンに「殺す」と言うなど悟空は今までと違う側面を垣間見せた。しかしその様子は、冒頭の動画や有名な「クリリンのことかー!!」というまさに"fury"としか言いようのない反応とは、明らかに大きな落差がある。この時の悟空は、おそらくあまりの怒りにそれをどうコントロールしていいのかわからないといった体で、フリーザの手を掴んだまま怒りの口上をつらつら述べるでもなく、ましてや攻撃するわけでもない。しかしそのことが、かえって悟空の荒れ狂う怒りが言葉より雄弁に私たちに伝わるシーンとなっている。少なくとも、このようにして作者側が「今までの悟空とは違う」感を明確に出そうと演出していたことは火を見るより明らかである。 (次回に続く)


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