目明し編終盤の追加要素:救済の必然性

2008-04-26 01:02:28 | ひぐらし
前回は詩音と沙都子の関係について述べたが、今回はPS2版ひぐらし(以下「カケラ遊び」で統一)における目明し編の重要な追加について考えてみたい(なお、以下はネタバレなのでこれから自分でやりたい人などは飛ばしてくださいな)。


カケラ遊びの随所に細かな追加があるのはやった人ならすぐにわかるだろうが、特に重要なものとしては、目明し編終盤のそれが挙げられる。原作では、詩音の「罪の告白」が終わった後から圭一救出まで割とスピーディーに展開するのだが、カケラ遊びだと圭一に引き返すチャンスを何度も与えたり、あるいは詩音の心理描写を通して「圭一が詩音だと看破できるか」が強調されている(もっとも、この辺り記憶に自信がそれほどなかったりするのだが…)。


もっと詳しく言えば、「魅音を殺人鬼にしたなら(=信じなかったなら)悟史の帰りを信じなかった自分と同じだから生きるに値しない」(カッコ部分はギーガによる)といった部分が追加され、原作では一種気まぐれにも思えた圭一の救出が、ある程度理論化され、必然性を持たされている。


魅音か詩音か当たられたら助けるというのは、ある意味圭一の読みとプレイヤーの推理を同列に置くことであり、これによって、ともすれば単に「推理が当たった外れた」という傍観者的な視点になりかねない目明し編の終盤に重みを持たせている(そしてまた、魅音がかわいそうと言うだけだった人たちへの強烈な皮肉にもなっている)。アニメ版ひぐらしの「あなたは信じられますか」にも繋がる追加・演出だと言えるだろう。


まあ特に理論だってないのもあの詩音の精神状態を考えればむしろ必然的な気がするが、これはこれで…というところだろうか。

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