blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

8月を振り返って

2018-08-31 20:20:37 | 月末振り返り
毎月最終日はその月を振り返る。
長い夏休みもあり、ダメ押しの避暑あり、友人とのビアガーデンありで、プライベートはとても楽しかった。
そのせいか、平日の仕事のつまらなさとの落差が目立ったが、つまらない気持ちを一人で抱え込まず会社の中で吐き出す機会にも思いがけず恵まれた。
その機会では、後々の私の生活に変化があることを示唆する中身もあった。
詳しいことが何も分からないうちにここで書くわけにはいかないが、ある意味異常な状況に置かれている私自身の現状を考えれば、いい方にいってもらわないと困るし、それには自分自身の努力も必要になる。

月の初めから酷暑酷暑でいい加減に疲れて来たタイミングで、9日間という長い夏休みに入った。
前半は故郷に帰省し、後半は乗り鉄旅行プラス東京でのライブ出演というこれまでにない日程になった。
試みとしての旅の計画もほぼうまくいき、行ったことのない地域や都市にも足を入れ、最後はプロのバンドも頻繁に立つステージに立って自分の歌声を披露することができた。
休みの旅行は毎回満足して帰って来るが、今回は特殊な経験も込みだったので感慨もひとしおである。

ライブとは前後してしまったが、いずれ手元に作品がやってくる。
作品はネット上の各種音楽サイトにも流してもらえることになっているから、たとえ今日私にもしものことがあっても「生きた証し」はこの世に残る。
本人がもうこの世にいないという例は極端としても、一世を風靡した人気アーティストの作品は、グループがとっくの昔になくなっていても、版権を持つレコード会社が「ビジネスになる」と思えばいろんな形にして世に出してしまう。
本人が存命でない例で言えば、マイケル・ジャクソンの「This is it」のような、本人が出すことを望んだかどうか分からないようなメイキング映像がバカ売れして、出した会社はボロ儲けということになった。
とにもかくにも私の場合は、売れる売れないではなく、応分の投資もして春から取り組んできたプロジェクトがこれで終わりになっても目的の半分以上は達成されていて、万が一にもブレイクするなら少しは親孝行もできるかなというくらいのものであり、わずかな期間ではあったが、一つのことに、この年齢になってからでも夢中になって取り組んだという事実自体が貴重なことなのである。

当地での生活もすでに年単位ではないだろう。
また故郷に戻るのか、はたまた別の土地か、そもそも次はどんな仕事をするのか、誰の下につくか、期待と不安は半々といったところだ。
いずれにしろ、3年間はあっという間で思い出は尽きないし、当地そのものは冬場の足元もよくて過ごしやすく土地としては全く嫌いではなかった。
ただ、職場ではほぼまるまる3年間をかなり強めのアウェイ感(感、なのであくまで主観)の中で過ごすことになり、特に病気から復帰した後の直近3ヶ月は、ほぼ誰からも話しかけられることもなく過ぎ、私自身今の当地の職場にいる意味を見出せなくなっていた。
公私の落差こそ大きかったが、裏を返せばまた遊びに来てある程度自分の判断で好きなように動ける土地が増えたということだから、すっきりとした気持ちで次の環境に向かうことさえできればそれでいいと思う。

*8月のベストショットは、ややVOWネタ的だが下の写真とした。(撮影地:新潟県村上市JR府屋駅付近)


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思い立ったが吉日

2018-08-29 20:20:40 | 休日
夏休みのことをようやく書き終え、退屈な平日(今週の月曜夜は友人と飲んでいたが)のことは書く価値もないので省き、今回は8月26日のことを書いて時系列で強引にかなり追いついておくことにする。

お盆休みの疲れもあって、25日26日の2日間は引きこもりを決め込んでもいいくらいに思っていた。
25日はその通りに休み、整理が付いていなかった旅行先での資料などを片付けたりした。
さて、翌日の26日、今や休みだからと言って9時10時に目がさめることはなく、その日も7時くらいだった。
外は快晴、しかし日中は猛暑日の予想だ。
ゆっくりしたい気は残っていたが、日がな自室で冷房をかけて過ごすのもどうかと思ったのと、夏休みの間に酷暑の中をほったらかしにしていたクルマのためにも、どこかに出かけようと少し考えた。
結果、避暑も兼ねてとりあえず「山」に行くことに落ち着き、三重県北部の御在所岳を目指すことにした。

これまで三重県には列車による訪問が多く、クルマで行ったのは青山高原くらい、北勢地域の内陸部となると初めてであった。
ナビは積まない主義のため、道路地図を助手席に広げての危うい小旅行が始まった。
それにしても、北勢地域は新名神など高速道路の建設が急だし、一般国道のバイパスも至る所にある。
少しでもラクをしたいとそれらを利用するのだが途中でブツ切れになっていて道に少し迷い、これだったら普通に国道23号線で四日市市街まで来てそれから山手に向かえばいいということに結果的になってしまった。

子供さんたちはあるいは夏休みの最終日だったか、湯の山温泉街の入り口で渋滞が始まり駐車場まではずいぶん時間を食ってしまったが、それでも午後を少し過ぎたあたりで、御在所ロープウェイの湯の山温泉駅にたどり着いた。



地図で見るイメージよりははるかにスケールも大きく、乗車時間も上りで15分となれば相当に長い部類である。
険しい地形を一気に上がるこのロープウェイ、下の写真中央に見える白い「6号鉄塔」は高さ61mで日本一の高さだそうだ。



御在所岳頂上がある山上公園(別途スキーリフトで行く)は後に回し、ロープウェイ山上駅の近辺を散策。
2枚目は、国土交通省の雨量計レーダーと書いてあった。





いよいよ頂上のある山上公園へ向かうためリフトに乗車。(写真は公園側からロープウェイ駅を望むアングル)
リフトを降りてすぐのところに頂上と三角点があった。





あえて無理な体勢で撮った下の写真、いつも思うがこの状況で私の体に何かあったら、三重・滋賀どちらの県の救急車が来るのだろうか。



滋賀県の領域にも入っていることで、もちろん琵琶湖も視界に入るロケーションではあるが、この日は空気もかすんでいて、よく目を凝らして「ああ、あれがそうか」という程度の見え方で、写真を後で見返してもよく分からなかったのは残念だ。

気軽に来れるとはいえ急峻な山の上、少し歩くとさすがに暑いのだが、気温は下界よりは10°Cくらい差があり、風の涼しさは下界とはまるで違っていて、中には「寒い〜」と言っている男性もいたくらいだ。
ロープウェイ駅の3階からあらためて伊勢湾方面の素晴らしい景観を写真におさめて山麓駅に下りた。



湯の山温泉街から下って、近鉄湯の山線の終点である湯の山温泉駅を撮影。
しかしこの駅、温泉街からは3.5kmも離れているので注意である。
三重交通バスとの連携は完璧だとは思うのだが、四日市市街に向かう国道沿いには「アクアイグニス」なる新しい温泉施設もあったから、旧の温泉街も集客にあれこれ知恵を絞っていることだろう。



帰りは四日市市街まで出て国道1号線で桑名市に入り、過酷な行程に耐えた愛車を揖斐川沿いの堤防で撮影。



この後はもう少し頑張ってもらい、揖斐川の近鉄とJRが並行している鉄橋でのしばしの撮り鉄タイムに付き合ってもらった。
桑名駅方面から揖斐川に向かう列車は右に大きなカーブを切りながらやって来るので見た目にも迫力があったし、走行中の列車としては今までで最も近い距離での写真を撮ることもできた。
その後は木曽三川公園近くから進路を東にとり、国道302号線を道なりで走って無事に春日井に帰ったのであった。

当地に来てから、もちろんまだまだ名所はたくさんあるとはいえ、思いつくところには足を運ぶようにして、思い出もたくさんできた。
まだ中身は明らかにはできないが、いよいよ当地での生活も今後そう長くないであろうことが判明したため、今回の御在所岳は文字通り行っておいてよかったということになった。
9月になれば、落ち着いて遠出することもできなくなるかもしれず、しかし今の私の職場での状況を考えれば、もはや出身地でもない土地に私がい続ける意味はあまりなくなっている。
3年間は本当にあっという間で、そのうち2ヶ月は病気療養こそあったが、ほとんどの期間は元気に楽しく過ごすことができた。
当地での機会を与えてくれた会社、また公私を問わず私のような人間を支えてくれた様々な人々に感謝して、気持ちよく次の環境に行けたらと思っている。

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8月19日の行状

2018-08-28 02:49:07 | 旅行
長い長い夏休みも19日で終わりであった。
この19日に東京でライブ出演という日程が入ったために今夏の予定が決まったと言っても良かった。
この春から積み上げてきた練習の成果を披露する場だから大仕事といえばそうだが、もともとステージ経験はたっぷりあって本番には強いタイプでもあるので、前日夜は餃子だけでなくビールもしこたま流し込むことができた。

なるべく余裕を持って会場入りしたいという気持ちから、当日朝は湘南新宿ラインの朝一番の快速(8:35発)を使うことにしていた。
鉄道写真ばかりになってしまうがご容赦を。











18きっぷによる節約旅ながら、実質最後の移動はほんの少しだけ奮発してグリーン車を取った。
ほぼ特急と同等のシート、2階建車両の2階を確保し、約1時間半、新宿までの移動はすこぶる快適であった。

ライブ会場がある下北沢は初めて下りる場所、若干道に迷いながらもまずはこの日のライブ会場である下北沢ReGをこの目で押さえてから昼食をとることにした。



周辺は、常に住みたい街上位にランクインすることがなるほどと思える街並み、ただし下北沢ロフトがまだ続いているかは写真だけでは分からなかった。





リハーサルは13時から、歌詞を思い切り間違えながらもつつがなく終わり、18時過ぎの本番までは新宿に戻って時間をつぶした。
本番を控えて気持ちが落ち着くはずもなく、出番よりは相当早めに会場に戻った。

私の出番の頃にはお客さんも増え、ステージ前ギリギリまで人が詰めている状況だった。
ステージ慣れはしているとはいうものの、これまではリズム隊の一員(ドラムズ)であることが多く、照明の具合によってはお客さんがあまり見えないことも多くあったが、ヴォーカリストとして上がるステージはそういうわけにはいかなかった。
しかし、練習した成果はほぼ出し切ることができ、余計なアオリまで入れられたステージは、歌い終わった後のトークも含めて個人的には大成功であった。

これからどんな流れになるのか、オリジナル曲がコンピレーションアルバムとしてCD化されることと各種音楽サイトへ配信されることは決まっているものの、自分自身の活動についてはまだぼんやりとしたままである。
さらに選ばれてミュージックビデオの制作までいっている出身者もいるようだが、そこまでいくのかどうか、ライブ終了後は何の音沙汰もない今は本当に何も分からない。
そこまで選ばれなくてもそうそうできない貴重な経験をさせてもらえたとは思うのだが、じっと私の方をまっすぐに見つめてリズムをとりながら拙い歌を聴いてくれたお客さんのことを思い出すと、これからいろんな形で露出を増やしていかなくてはならないとの思いを強くする。
できるならば、誰にも胸を張って大好きと言える「歌の世界」に使う時間を人生の中で増やしていければと思う。

3部構成のライブも、愛知に住む私は3部は見ることはできず(出演は2部)新幹線の品川駅に向かった。





若き頃に熱狂したラフィンノーズやニューロティカが立った(彼らはまだ現役なのでこれからも立つ)下北沢ReGのステージに自分が立てたことに感慨を覚え、同時にここまで導いてくれた多くの人々への感謝の気持ちを忘れることなく、好きなことを極めることを人生の一部として取り入れていけたら、きっと生きていて良かったと思える人生になっていくことだろう。

いろいろな場面はあったが総じて、新鮮な体験も多く充実した夏休みになった。
この夏休みを機に本当に今を変えていくことができるなら言うことはない。

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8月18日の行状

2018-08-26 21:56:58 | 旅行
先週の旅行記を書いている間に、今週が終わってしまう。
今週末も昨日こそゆっくり休息したが、今日日曜は思い付いて近場の観光地に出かけている。
早く時系列で追いつきたいが、夏休みについては書きたいことも多い。
本日は8月18日のこと、明日に19日のことを書いて夏休みの話はようやくにして終わらせ、変わりばえなくつまらない平日のことは省いて、また新しい場所に行った今週のことを書きたいと思う。

山形市内で当地にいるような楽しみ方をした翌日、出発は10時くらいを予定していた。
山形駅は、地味な駅が多い奥羽本線にあってさすが県都という趣があった。



次の目的地は宇都宮市で、ここは山形市同様初めて足を運ぶ。
栃木県も日光市や足利市などには行ったことがあったが、やはり県都に行っていないと何かが抜けているような気になる。
時間的には余裕はあったが、山形からすべてを普通列車でカバーするのにはいささか無理を感じた。
山形新幹線はミニ新幹線のため特急料金が安く、その特長を利用して郡山までは新幹線の力を借りることにして、山形駅10時過ぎのつばさ号に乗り込み、11時半ごろに郡山に着いた。



郡山では昼食のためにいったん改札から出た程度で特に街歩きはせず、ここからは各駅停車を細かくつないで福島県から栃木県に入り、15時ごろに宇都宮駅に着いた。



言わずと知れた餃子の街、駅前にはその名も「餃子像」という石像が。



当日の宿は東武宇都宮駅に近く、やや歩くのは知っていたが、そのおかげでよく整備された市街地の写真をいくつか撮ることができた。







さすがにここまでの疲れがたまって、予定よりは相当早めに宿に入ったが、当日は派手に遊ぶ気はなくまずはひと寝入りということになった。
目が覚めて、ホテルや周辺でもらった地図を頼りにやはり餃子を夕食の軸に据えることにし、東武百貨店の中にある某チェーン店の店舗に入った。



まずはタレはつけずにという触れ書きがあったので素直に従って食べると、タレがなくても十分に味がしみ出していて至高の味わいであった。
シューマイなど余計なものは付けないで、写真の通りほぼ餃子だけのメニューにしたがまったく十分だった。
普段お米と一緒にお酒は飲まないが、あまりにも餃子がおいしいのでビールを二杯も飲んでしまった。

ずいぶん暗くなっていたが、東武百貨店から出て周辺を街歩きした。
アーケードのある立派な商店街は「オリオン通り」と言って、夜遅くにも関わらず若い人が多く出て活気があった。
東京に近い地方都市共通の悩みはあるのだと思うが、この夜を見る限りは宇都宮もやはり熱かった。
写真はオリオン通りのネオンサインと、あえて遠目に撮ったが宇都宮市内で最も「艶っぽい」お店がビッシリ集まっている一角。
競争はもちろんあるだろうが、あれだけ「同業」が固まっていると、共存共栄の仕組みもあるにはあるのだろう。





翌日、夏休みの最終日はいよいよ東京での大仕事が控えており、朝の出発も早い予定だったので、ニンニクの匂いは気になりながらも、疲れからかはたまたビールを飲んだからか、この日も横になったら早々に眠りについたのであった。

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8月17日の行状

2018-08-25 20:49:40 | 旅行
新潟では街歩きは早めに終わらせ、休息を優先した。
この日が旅の一つのヤマ、新潟市→酒田市→新庄市→山形市という長距離移動の日であった。
しかし新潟を出発するのは早くなく、10時11分発の快速「きらきらうえつ」に間に合えばよかったから、17日の朝もホテルでゆっくりめに過ごせた。

さて、その「きらきらうえつ」は18きっぷユーザーならおなじみ、全車指定席(座席指定券520円別途必要)ながら快速扱いという大変ありがたい列車で、停車駅も特急とほぼ同じで酒田まで直通で行ってくれるのだから使わない手はない。



車両は国鉄型の特急車両を改造したもので、設備はほぼ特急レベル、4両編成のうちの1両はラウンジシート(車内の売店で購入したものに限り飲食可能)という快速とは思えない豪華さである。





新潟から酒田までは約2時間40分、昨日までの悪天候を引きずり数分遅れでの運行とはなったが、私の行程には問題なかった。
名勝・笹川流れを望む日本海沿いを走り、山形県に入ると米どころである広い広い庄内平野を突っ走る。
最後まで遅れは取り戻せなかったがわずかなもの、13時近くに列車は酒田駅に着いた。





酒田では駅前で昼食をとり、約1時間後の陸羽西線の新庄行き快速「最上川」に乗車する予定であった。
しかし、駅の案内板を見ると「バス代行」の文字がハッキリと見えるではないか。



8月上旬の豪雨により陸羽西線は運転を当分見合わせるとのことで、14時ちょうど発は同じながら乗るのはバス(列車代行バスだから18きっぷで乗車OK)というちょっとしたハプニングとなった。
バスは鉄道とほぼ並行する国道47号線を進んだが、進行方向左手に陣取れたのは運が良く、最上川の雄大な流れを終始楽しむことができた。
悪天候の影響で泥水の最上川ではあったが、本来はもっと綺麗な姿であろうかと思う。



代行バスとは言いながら、鉄道と同じ時刻での運行は保証されてなく、鉄道利用よりは30分ほど遅れて新庄駅に着いた。
下の写真は山形新幹線つばさ号。





本当なら山形駅までの道中で寄りたいところがもう一つあったが、スケジュール的にそこは困難になったので、仕方なく山形駅まで直行することにした。
奥羽本線沿いは山形盆地の中を通り、右を見ても左を見ても遠目には山、近いところは果物畑が延々と続くという一般のイメージ通りの道中であった。
単線区間もあり行き違いの待ち合わせなどがあって、結局山形駅着は予定より20分ほど遅れてしまった。
ホテルが駅近くだったことは幸いだった。

夜近くに着いた山形市では、観光よりは夜の食事を楽しむことにした。
駅前北東側の香澄町と呼ばれるあたりがどうやら飲食・歓楽街のようで、泊まったホテルもその一角にあった。
ホテルがくれたクーポンを頼りに駅前すぐの某居酒屋でまずはひと飲み。
名物(と書いてあった)イモ煮は本当においしかったので写真も載せる。



ホテルの建物が少し変わっていて、ホテルは3階から上、2階から地下1階はいわゆる夜のお店が入っているというのも初めての経験だった。
だからというわけではないが、そのうちの一軒でやや夜更かしして「楽しい時間」を過ごしてしまった。
県内の他の土地は分からないが、山形市は相当に熱い街であったというのが感想だ。
今回は夜だけだったので、次回は昼間の観光も取り入れたい。
いずれにしろ、酒田市と立石寺(山寺)しか行ったことがなかった県なので、県都に立ち寄れたことは良かったと思う。

今回では唯一日付が変わるまで飲み、しかし翌日は移動時間には余裕があったので、寝過ごしだけはしないように対策をして横になったらアッという間に眠りについていたのであった。

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8月16日の行状

2018-08-24 19:46:22 | 旅行
長い夏休みの後半は、いよいよ青春18きっぷをフル活用しての鉄道旅のスタートである。
ただ、スケジュールの都合上、地元から上越市までは新幹線の力を借り上越妙高駅へ。
旧信越本線で直江津駅まで出て、そこからは長岡行き快速、長岡からは新潟行き快速と、各駅ではない列車をうまくつないで昼前には新潟駅に着いた。



当日はこれ以上の大きな移動はなく、まずは越後線で2駅の関屋駅に向かった。



なぜわざわざ普通の住宅地が中心の駅で下りたかというと、駅から徒歩5分くらいのところにある公園を目的としていたからである。
その公園が下の写真。



何ということはない公園に見えるが、実はここが旧新潟競馬場の跡地である。
石碑が建っていて、関屋から現在の場所に競馬場が移った経緯が記されている。
ちなみに今も夏の新潟開催には「関屋記念」という距離1,600mの重賞レースが組まれている。



競馬ロマンに浸った後は新潟駅に取って返し、いったんバスで新潟市の繁華街である古町まで。
天気が悪い中ではあったが、ただただ街歩きがしたくて行って見たところ、通称「ドカベンロード」(水島新司マンガストリート)という通りがあるので足を運ぶことにした。
新潟出身の水島新司さんはドカベン以外にも野球マンガを多く残されている。
通りには、「あぶさん」や「野球狂の詩」にちなむ銅像もあったが、やはり個人的にも最も馴染み深いのは「ドカベン」で、銅像の数もいちばん多かった。
以下、山田、里中、殿馬、岩城の順。









大雨の中、古町のアーケードを頼りに何とか万代橋までたどり着き、苦しい態勢ながら何枚か写真を撮った。
万代シティのレインボータワーには「さようなら」の文字があったから、近々取り壊しになるのかもしれない。





当日は早めに宿に入ることは決めていた。
夏の甲子園で3回戦まで勝ち進んだ富山県代表の高岡商が、後に選手権を制する大阪桐蔭と対決する試合をホテルのテレビで観戦したかったからだ。
負けはしたもののスコアは1-3の僅差、しかも相手の4番バッターを無安打に抑えての山田投手の11奪三振の力投は、富山県勢の夏の大会としては屈指の輝きを放つ成果として記憶されるだろう。
来年以降、富山県勢も少しは警戒されるような存在に徐々にでもなっていってほしい。

せっかくなので遊びたい気持ちもあったが、雨がやんだ夜もちょっとした街歩きと普通の食事のみで終わらせ、今回ではいちばん移動距離の長い次の日に備えてこの日は早めに休むことにしたのであった。

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8月11日〜15日の行状

2018-08-22 19:02:00 | 休日
今年は昨年と違って夏休みが長く、8月11日から19日まであった。
9日間のうち5日間は「青春18きっぷ」による移動が中心の節約旅であったから、月曜火曜は疲れが残って本欄の更新も今日になってしまった。
記憶が薄れないうちに書き留めておき、ある意味感慨深い9日間を振り返りたい。
一日一日は無理なので、帰省のための移動1日+故郷富山での4日間をひとまとめとしたい。

夏休みには鉄道各社が様々な臨時列車を出しているが、高山本線が先般の豪雨で富山までは行けないため、中央本線から大糸線経由で初めて帰ってみることにした。
まずは人気になるであろう臨時快速「ナイスホリデー木曽路」に確実に座るために始発の名古屋駅へ。
通常はただの中津川行きの快速が、臨時に相当足を延ばして塩尻まで行ってくれるのが今回の帰省ルートの決め手になった。



塩尻までは約3時間、もし最寄りの駅から乗っていたら数十分は立ちんぼであったろうから、乗り放題切符の強みを生かして早めに行動したのは正解だった。
車両も中央本線の主力である313系(クロスシート)の窓側を確保し、悠々と塩尻までの景観を楽しむことができた。
塩尻では乗り換えのみ、そのまま松本駅に向かい大糸線の列車の時刻まで市内を観光することにした。



松本市はもちろん国宝・松本城が有名なのだが、一度行ったことがあるので今回はもう少しだけ北側にある旧開智学校を訪れた。



明治初期、城下町松本の経済力、人々の新しい時代への期待、一人の日本人建築家の情熱が合わさって、我が国では珍しい洋館風の尋常高等小学校が完成した。
滞在時間は短かったが、本来はもっと長くゆっくり見学して勉強すべき場所であり、機会を見てまた訪れたいものだ。

松本からは延々大糸線を北上し糸魚川へ。
糸魚川からは北陸新幹線、すぐ隣の黒部宇奈月温泉駅で下りて、長い長い帰省の行程が終わった。



富山の実家では天候にも恵まれ、骨休めも十分できた。
その間、父方母方両方の墓参りを済ませ、妹の家のネット環境改善に協力するなど「仕事」もこなし、14日には魚津から富山市に出て、久々に会う楽しい仲間たちと楽しい時間も過ごした。
魚津駅前と富山駅前の写真。







故郷での最終日15日には、名残を惜しむかのように魚津市内をクルマで流して海辺の写真を撮った。







実家で十二分にリフレッシュさせてもらい、16日からはまた旅の始まりとなったが、16日以降の行状については次回以降に。

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夏休みへ

2018-08-10 22:42:28 | 日記
お盆前の一週間は、一日一日が本当に長く感じた。
付いているベテラン社員が、キリのいいところで仕事をやめるタイプではなく、とにかく時間いっぱいまで何かをしたがるタイプなので、チームのシマに帰って一息つく時間はない。
本当に始業から終業まで、昼の休憩を除いては、それほど緊急性のない仕事でもとにかくやりたがるから、任意で行っていいトイレ休憩も結局はなくなってしまうこともある。
私は付いている立場だから、指示に従ってやっていると、現場から出るのも終業5分前か3分前かという感じだ。

同じチームの中でも半分くらいは16時くらいにその日の仕事は終わらせ、何やら仕事とは関係のない旅行のパンフを広げるか、電話をいじるかして終業を待つが、もともと残業体質のベテラン氏が終業30分前にシマに帰ってくることはまずない。
アピール狙いで長く会社に残ろうとする泥棒のような振る舞いとも違い、氏の場合は時間いっぱいまで仕事をしていないとただただ気が済まないのだろう。
私の提案で打ち合わせをするようになってくれたのはいいが、いつの間にか打ち合わせ魔になってしまい、今日やること明日やること盆明けでもいいことをゴッチャにして伝えようとするので、夕方ごろには純粋な体力とは別なところで疲れてしまう。

それでも、5月の最終週から仕事に復帰して、氏のおかげで日々のリズムも取り戻し、仕事そのものにも慣れ、お互いに分担しながら残業が発生しない流れに持っていくことができている。
文字通り動き詰めなので、体重もついに80kgを切り、身長ー100の数値が近づいてきた。
ストレスなど不健康な減り方ではないので、あとは今くらいを維持できればいい。(日中のスタミナのためには軽くなりすぎてもダメ)
一時は自分では何も考えられずただただ指示に従うだけの毎日に死ぬほど退屈な思いもしたが、立場はどうあれ言うべきことは言って、復帰当初に比べて自分自身もやりやすくなっているから、会社に足が向かない気分にまではなっていない。

ただ、職場の人間関係は深刻で、私を除く7人の同じチームのメンバーのうち、復帰後の2ヶ月半で会話らしい会話があったのはわずか2人である。
以前も書いた通り、すぐそこにいる私がまるでいないかのような扱いも度々受けるし、仕事後の付き合いはおろか、日中の雑談に関しても私は完全に蚊帳の外である。
病気になる以前の私の振る舞いも決していいものではなかったとはいえ、ここまで徹底されるとやはり示し合わせての動きと思わざるを得ない。
今のところは証明できるネタがないが、人間の本音は口には出さずとも態度ではなかなか隠し切れない。
いずれ怪しい場面に巡り合うようならば、一人の人間として、泣き寝入りはせずそれなりの動きを取ろうと思う。

明日からは長い夏休みに入る。
前半は実家、後半は小旅行に最終日はライブ出演という流れである。
この夏休みを境に生活や境遇が変わるかもしれないし変わらないかもしれない。
しかし、この歳になって夏休みを境に何かが変わるかもという希望を持てる人間がどれほどいるか。
春先から走ってきた成果を存分に発揮して、残りの人生、好きなことに関わる時間を多くしていけるなら最高だ。

PC環境がないため、次回更新は20日以後に。

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お盆前をしっかり

2018-08-05 21:57:45 | 休日
一時、異常な値を刻んだ本欄のアクセス数も通常運転に戻った。
だいたいは閲覧数200PV、訪問者数100IP前後が普通で、gooブログ全体では20,000位前後がいつもの本欄のポジションである。
毎日まめに更新しているから必ず上がるというわけでもないが、アクセスアップのコツや仕組みを知ろうとまでは思っていないから、数字はそれほど気にしていないということである。
それでも、11年半の積み重ねで700,000PVに達したのは、感謝の一言である。
有名な歌い手さんやタレントさんなら数週間で行ってしまう数字だろうが、無名の人間でもダラダラとやっていれば一つの節目には到達できるということである。

さて、猛暑は相変わらず続いているが、我が事業所のお盆休みは今年は長めで、11日から19日までである。
長いからと言って特別涼しいところに逃げ込むわけでもなく、前半は実家に厄介になり、後半は新潟県から南東北と北関東をノンビリ鉄道を使ってめぐり、最終日には東京に入って春先から取り組んできた活動の集大成としてのお披露目の場に出て長い夏休みを終える。

夏休みの最終日に大きな出来事が待っているので、それを終えて精神的な緊張が切れてしまわないか心配なくらい、春先から今までそれなりの投資もして東京や大阪にも何度も行き、その都度課題を克服しながら一歩一歩段階を踏んできた。
もともと本番には強いから、お披露目の場そのものについては心配はしていないが、東京での催しに、名古屋圏に住み出身は北陸という私がいくばくかでも人を呼べるのか、この点だけが心配である。
今まではいいが、今後はそういった動員力が問われる場面も多々あると思われるので、そこで印象を落としたくはないのだが…。

実家はありがたい存在ではあるが、過去にも書いたように長くいすぎることは実家にとっても私にとっても良くない。
何が良くないのかは、言葉では表現しづらく本欄では避ける。
他の家庭は知らないが、いくら家族といえども、今は私が実家に厄介になるのに適当な時間となると4日か5日が限界である。
かりそめにも9日間も厄介になろうなどとは最初から毛頭考えてなく、お盆後半の日程はけっこう早くから組んでいた。

40代後半になっている私が、「青春18きっぱー」として久々に移動に次ぐ移動の日程となる鉄道旅行を敢行する。
全都道府県はすでに踏破済みだが、まだ行っていない地域や都市を今回は盛り込んであるので、いくばくかでも新鮮で未知の楽しみが多い旅になるだろうと期待している。
体力的にはハードでも、およそこれ以上は考えづらい低コストの旅行に挑戦する気力が戻っていることは、桜の頃に一時疲労から倒れたことを考えれば幸せである。

5月の終わりから仕事にも復帰して、ここまでは休むことなく順調に来れた。
職場環境や人間関係は相変わらず良いとは言えないし、個人的にも悔しいばかりの出来事もあったが、とりあえず明日から金曜日までをしっかり終わらせて、あるいは人生の節目か転機になるかもしれない大切な夏休みに向かいたいと思う。

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威圧だろ、それ。

2018-08-04 22:02:09 | 休日
この暑さは本当にいつまで続くか見当もつかない。
ただただ気温が高いことに加えて、夏らしい気候の一部である夕立のような一時的な強い降水もない。
明日5日は急で激しい雨に注意とあった。
涼しさは感じられなくてもいいから、とりあえず雨の一つも降ってはくれないものか。

それでも我が国の国旗は日の丸の名の通り、太陽の恵みをこれ以上ない形でシンプルに表現している。
四季の移ろいのある我が国ではやはり太陽は有り難い存在であるし、そうでなければ国旗には盛り込まない。
しかし、我が国以上に暑い中東諸国(トルコやパキスタンなど)の国旗が軒並み月や星のデザインなのは、暑すぎて太陽はあまり有り難くないものだからだと何かの記事にあった。
国の象徴たる国旗にはそこに住む人々の思いや気候風土までもが表現されていると思えばまた見方も変わってくるのかもしれない。

暑い寒いに関係なく、困った人間というのも世の中には多い。
先日、私と、仕事でコンビを組んでいる某氏は、過日の書類の中にサイン漏れがあったという指摘を受けた。
私たちが準備した箱やら説明書やらを機械に組み込んで、製品と一緒になって箱詰めされていくわけだが、箱詰め側に渡すにあたっては二人で確認したという痕跡を残す必要がある。
片方が抜けることはあるが、二人分がまるまる抜けていたことで「これはどうしたことか」と書類を管轄する部署では大いに問題視され、主担当の某氏が事情の説明に追われることになった。

さすがに両方のサインが漏れるというのはチェックをしたという証明に全くならないので、非は私たちにあるし、理由を問い詰められるのも仕方がない話ではある。
問題は、私にとっては上司としてはいちばん近い、つまりチョクウエの上司(以下、チョクウエ氏)で、普段は穏やかだが他部署から何か言われた時には顔から広いオデコまで真っ赤にしてゆでダコのような形相になって部下を責めようとする。
チョクウエ氏は、自分の部下が何か指摘を受けて、自分の部下の味方になるとか防波堤になるとかは100%ない。
上から何か言われた時は、その中身を噛み砕きもしないでそのまま投下して部下を責め立てるのが仕事だと思っている。
こちらが何か反論でもすれば「上は、上は」と言うだけで、要は自分の意見などなく、自分が怒られたからどうしてくれるという全くもって短絡的な思考回路の中で生きている。
「怒られ代」が給料の中に入っているにも関わらずだ。

今回の件については、初回ということもあり書類担当からは始末書等の作成などという指示が出るまでには至らなかった。
書類担当からは、再度同じことがあったら○○ですね的な話はあっただろう。
○○の中身は、正式に始末書なのか、別室で説教を食らうのか、日々監視が付いてしまうのか、考えられることは様々だ。
そのこと自体はいいとして、チョクウエ氏が狡猾なのは、そこの○○をあえて「・・・(無言)」にして部下に伝えることである。
言い方としては、「今度やったら・・・ってことで、気をつけてください」となる。
大切な部分を「・・・」にされると、言われたこちらは無限にその内容が想像できてしまい(担当を外されるなどの最悪に近い事態)、余計な圧力としてのしかかる。
根っからの体育会系、かつては人並み外れた体軀を存分に利用して、仕事上で対立した人に暴力をふるいケガをさせたという経歴を持つから、どういう言い方をすれば人が怖がるか嫌がるかくらいは重々承知ということである。
チョクウエ氏がチョクウエのまま(今の職位から上に行けない)である理由は、自分の部署の部下に関心がなく、何かあった時には守ろうという意識がないため部署内での人望を得られないためである。

今は過去の反省もあり暴力は影を潜めているようだが、潜在的にある冷酷で威圧的な側面はなかなか変わらないだろう。
私が病気から復帰して以来、チョクウエ氏はじめその周辺4名ほどとは一切会話一つなく過ぎているのも、あるいはチョクウエ氏が指示しているのかと勘ぐりたくもなるくらいだ。
私は、チョクウエ氏よりも上の職位の上司には一定の評価を受け、最近は、復帰したことである社員の残業が減ったと、恐れ多くも感謝の言葉までいただいている。
そんな状況では、私にあからさまなことをしたくてもできないから、無視といういちばんラクな方法で私に圧力をかけるという姑息な手段に出ているということであろう。

明日からは夏の甲子園である。
残念ながら、野球(ベースボールではないあくまで野球)というスポーツが我が国において、一般的には広い支持や関心を集めながらも他のスポーツと比較して時代遅れに見えるのは、ひとえに体育会系的思想そのものが皮肉にもあの場に凝縮されているように思えてならないからだ。
もう飛田穂洲はこの世にいない。
スポーツと教育を一体化してきたこと(体育という言葉の源泉)こそが、世にはびこる「体育会系」の元凶であって、すでに他の競技は概ねそこからは脱皮し、世界で再び顕著な成績をあげるようになってきているではないか。

部下や選手を威圧して動かそうなどという人間の出番など、平成も終わろうかとしている今の時代には全くないと断言してエントリーを閉じる。

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