“A Rose for Emily”(William Faulkner) を読んだ。
先日知人が読んで、全然面白くなかった、といったからである。
いわく、何も起こらないんだもん、もっと劇的な何かがないとね、とのこと。
Faulkner の小説を読んでいて思うのは、ひとの行為の背後には何があるのか、ということ。
我々が目にすることのできる行為は結果であって、当然全てがみえているわけではなく、その裏側に潜むものは何なのだろう。
Faulkner によればその回答は明瞭で、「以前よりもよくなりたいという気持ち」だと答えているが、「以前よりよくなる」ということがどのような基準でどのように「よい」とされるかについては、各行為を決定した主観をいかに理解するかにかかることになる。
そしてその主観が明かに、つまり客観的に示され、その行為の背後にある深みが明かになるにつけ、大江さんがいう、「Passion (情熱)があるからこそPassion(受難)を受ける」としか表現しようのないリアルさに直面する。
その主観から客観への移行が読者のなかで展開されるところにFaulkner 文学の醍醐味があるから、Jean Poillon は小説の目的は「客観性」にあると述べたのだと思う。
したがって Sartre がいうように、Faulkner の小説では何かが起きるのではなく、すでに起こっている。
そしてなぜ起こったのかにせまることこそが読者につきつけられるのである。
そのうえで、“A Rose for Emily"をみてみよう。
この短編でも事件は起きてしまっているから、その起きてしまった行為自体にはあまり衝撃はない。
起きてしまっているから、この物語の主人公 Emily Grierson が結婚しそびれた結果ろくでもない男にすがりつつ殺害し、その死体と数十年も添い寝してきたことが最後にわかっても大したスリルはないかもしれない。
むしろ彼女がなぜそれをしなければならなかったのか。それを知ろうとしてはじめてその小説にある全ての言葉が愛おしいほどに光を放ち始める。
つまり理解してやらなければならないのは、"more than ever the recognition of her dignity as the last Grierson" である。
この部分は翻訳では、more than がないことになってしまっているが、実際は上記のようにあり、重要な意義がある(と僕は思う)。
少しく客観的に説明しよう。
この物語は、南北戦争終了後に結婚適齢期を迎えたEmily Grierson がその数十年後未婚の老婆(74歳)として亡くなり、葬儀が行われるところから始まる。
Grierson 家は名家であったが、そうであったがために、Emily には結婚相手がいない。
なぜなら南北戦争でめぼしい男がいなくなっていたからである(家の釣り合いという意味で。そしてそれを判断したのが彼女の父親だった)。
そのためEmily は結婚できず、実際にその釣り合いを見定めて結婚をさせなかった父の死後、三十路を過ぎたEmilyは、北部から流れてきた日雇い労働者と逢瀬を重ねるようになる。
生粋の南部貴族としての家系に生まれた彼女がまさか北部の男なんかと結婚するはずがないとみな考えるが、Emily は彼との結婚のための用意かと思しき徴候をみせつつ、砒素で殺してしまう。
しかも先に書いたように殺したあと、彼と添い寝を何十年も続けるのである。
ここでいくつかのなぜが思い浮かぶはずである。
まず最初に浮かぶ「なぜ」は、殺さなければならなかった理由。その北部の男Homer Barron は、彼女から逃げようとしたわけではないし、彼女が嫌っていたわけでもないことは添い寝の事実からも窺い知れる。
問題は明かに矛盾するベクトルが働いていることである。
そして丹念に読んでいけば(僕が丹念に読んだかどうかは分からないが)、彼女がひとりの女性として、かつGrierson 家の最後の生き残りとして生きることに引き裂かれていた結果だということがみえてくる。
だから先ほどのMore than が重要になる。
彼女がHomer と逢瀬を重ねることを世間にみせるとき、彼女が要求したのは、Grierson 家の最後の生き残りとしての威厳を認知させることではなかった。
その認知を超えた、歴史的な事件に対応することのできない、割り切れない矛盾が彼女にHomer を殺しつつの添い寝を選択させたのである。
こうしてみると、その知人の「面白くない」というコメントは的を得ていたのかもしれない。
原文にある more than が翻訳では消えているのだから、それを読み取りようがない。
先日知人が読んで、全然面白くなかった、といったからである。
いわく、何も起こらないんだもん、もっと劇的な何かがないとね、とのこと。
Faulkner の小説を読んでいて思うのは、ひとの行為の背後には何があるのか、ということ。
我々が目にすることのできる行為は結果であって、当然全てがみえているわけではなく、その裏側に潜むものは何なのだろう。
Faulkner によればその回答は明瞭で、「以前よりもよくなりたいという気持ち」だと答えているが、「以前よりよくなる」ということがどのような基準でどのように「よい」とされるかについては、各行為を決定した主観をいかに理解するかにかかることになる。
そしてその主観が明かに、つまり客観的に示され、その行為の背後にある深みが明かになるにつけ、大江さんがいう、「Passion (情熱)があるからこそPassion(受難)を受ける」としか表現しようのないリアルさに直面する。
その主観から客観への移行が読者のなかで展開されるところにFaulkner 文学の醍醐味があるから、Jean Poillon は小説の目的は「客観性」にあると述べたのだと思う。
したがって Sartre がいうように、Faulkner の小説では何かが起きるのではなく、すでに起こっている。
そしてなぜ起こったのかにせまることこそが読者につきつけられるのである。
そのうえで、“A Rose for Emily"をみてみよう。
この短編でも事件は起きてしまっているから、その起きてしまった行為自体にはあまり衝撃はない。
起きてしまっているから、この物語の主人公 Emily Grierson が結婚しそびれた結果ろくでもない男にすがりつつ殺害し、その死体と数十年も添い寝してきたことが最後にわかっても大したスリルはないかもしれない。
むしろ彼女がなぜそれをしなければならなかったのか。それを知ろうとしてはじめてその小説にある全ての言葉が愛おしいほどに光を放ち始める。
つまり理解してやらなければならないのは、"more than ever the recognition of her dignity as the last Grierson" である。
この部分は翻訳では、more than がないことになってしまっているが、実際は上記のようにあり、重要な意義がある(と僕は思う)。
少しく客観的に説明しよう。
この物語は、南北戦争終了後に結婚適齢期を迎えたEmily Grierson がその数十年後未婚の老婆(74歳)として亡くなり、葬儀が行われるところから始まる。
Grierson 家は名家であったが、そうであったがために、Emily には結婚相手がいない。
なぜなら南北戦争でめぼしい男がいなくなっていたからである(家の釣り合いという意味で。そしてそれを判断したのが彼女の父親だった)。
そのためEmily は結婚できず、実際にその釣り合いを見定めて結婚をさせなかった父の死後、三十路を過ぎたEmilyは、北部から流れてきた日雇い労働者と逢瀬を重ねるようになる。
生粋の南部貴族としての家系に生まれた彼女がまさか北部の男なんかと結婚するはずがないとみな考えるが、Emily は彼との結婚のための用意かと思しき徴候をみせつつ、砒素で殺してしまう。
しかも先に書いたように殺したあと、彼と添い寝を何十年も続けるのである。
ここでいくつかのなぜが思い浮かぶはずである。
まず最初に浮かぶ「なぜ」は、殺さなければならなかった理由。その北部の男Homer Barron は、彼女から逃げようとしたわけではないし、彼女が嫌っていたわけでもないことは添い寝の事実からも窺い知れる。
問題は明かに矛盾するベクトルが働いていることである。
そして丹念に読んでいけば(僕が丹念に読んだかどうかは分からないが)、彼女がひとりの女性として、かつGrierson 家の最後の生き残りとして生きることに引き裂かれていた結果だということがみえてくる。
だから先ほどのMore than が重要になる。
彼女がHomer と逢瀬を重ねることを世間にみせるとき、彼女が要求したのは、Grierson 家の最後の生き残りとしての威厳を認知させることではなかった。
その認知を超えた、歴史的な事件に対応することのできない、割り切れない矛盾が彼女にHomer を殺しつつの添い寝を選択させたのである。
こうしてみると、その知人の「面白くない」というコメントは的を得ていたのかもしれない。
原文にある more than が翻訳では消えているのだから、それを読み取りようがない。
ところで…コメントを。。。
「Passion (情熱)があるからこそPassion(受難)を受ける」という表現。大江さんがどんな人か分かりませんが…(前に教えて頂いたかなぁ…??)いやぁぁぁぁぁ…素晴らしい!!!!!!(笑)こんなこと言える人はカッコイイと思います。←すみません。。。単純な感想で↓
Faulknerの「以前よりも良くなりたいという気持ち」…この言葉を聞いてある人の言葉が思い浮かびました。私の前バイト先のオーナーがよく言っていた言葉です。「負けず嫌いは何にも勝る」です。その人は女性の人で、絶対間違ったことは言わない人でした。同じ女性ということもあったし、私が学生でもあったので、ビシバシと鍛えられました。そのオーナーからもらった言葉はたくさんあるのですが…その1つがコレです。「負けたくない」…何に負けたくないか…やっぱり自分です。過去の自分…「以前の自分」はいったいどこまでが以前の自分と言えるか分かりませんが、それは、誰が決めるわけでもなく自分が決めます。…って「結局自分じゃん!!!!!!」と思う訳です。私は、それをオーナーからより認識付けられました。オーナーは尊敬する人です。こうやって、アルバイトでもなんでもいいから、ちょっとずつ成長していきたいです。これが、私の考え…テーマ??の1つです。
追伸:新しいバイト先の面接受かりました!!!!!!よかった。まぁ…ぼちぼち働きます。それから、今日は真面目に授業にでました。今日は、七夕…。私の友人の多くのカップルは、七夕祭りへ行きました。幸せそうでした(笑)私は1人淋しく課題と格闘です。いいなぁ。。。。stoneさん、恋愛について今度話し合いましょう。課題で煮詰まったら、このブログ見て、コメントさせて頂きます★