氷見市北端の「脇」から国道を戻り、途中の中波から山の中へ進む道に入りました。
ルートは事前に決めてありますから、ナビに入力可能な5個の目的地をインプットし、最初の目的地に着いたら、次の新しい5番目の目的地を再入力してドライブを続けました。
一度走り出せば、どのような道筋を辿るかは全てナビ任せです。
丘陵地帯をはしると、目の前になだらかな尾根が続き、長閑な田園風景が広がります。
道路脇にスミレが咲きほころび、ハンノキが萌木色の葉を青空に広げていました。
暫く進むと、「日本の棚田百選 長坂棚田」の石碑が見えてきました。
へー、そうなんだ、棚田百選か、これを見逃す手はないですよね。
写真写りの良さそうな場所を探してパチリ。
しかし写真歴50年近い年季がある者としては、納得がいきません。
高い所に上れば、もっと良いポイントが見つかるかもしれません。
農道を上がってゆくと、「石動山大宮坊の歴史」と記された看板が目に留まりました。
どうやら棚田の上の林道の先に、歴史を纏った、眺望の良さげな場所がありそうです。
車一台がやっと通れるほどの林道を慎重に登ってゆくと、小高い尾根の突端に展望台が設けられていました。
期待したほどの眺望ではなく、どうやらこの場所が石動山(せきどうさん)山頂でもなさそうです。
それらしき山が目の前に横たわっていました。
ここまで来たら行くしかありません。
谷を見下ろすと、林の奥に白い雪が消え残っていました。
石動山に人気は無く、苔むす茅葺屋根を被った、旧観坊に残る落雪の塊が、この地の冬の様子を物語ります。
石動山大宮坊は、石川県鹿島郡中能登町、七尾市及び富山県氷見市にかけて広がる寺院跡、城郭伽藍跡なのだそうです。
泰澄が、百済から仏教が公式に伝わったとされる752年の僅か数年後の756年、この地に天平勝宝寺を建立し、南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと再興を経て、明治の廃仏毀釈によって廃寺となりました。
平成2年(1990年)から発掘調査が始まり、以下の写真の御成門(おなりもん)等の復元が進められたそうです。
改めて石動山の歴史を紐解くと、足利尊氏、上杉謙信、織田信長や前田利常などの名が連なります。
越中、能登、加賀の国境に位置する石動山に繰り広げられた、数多くの物語を垣間見た思いで、私は山を下り、再び麗らかな椿の旅へと戻ってゆきました。
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