都農から北へ戻り、高速道路を日向ICで下りて、国道327号を西に向かいました。
次の目的地は美郷町南郷水清谷折立の梅の名所「かいごん塔」です。
いつものようにナビに住所を入力し、鼻歌交じりのドライブを続けました。
327号線を暫くはしり、ナビのアナウンスのままに、東郷町鶴野内で左折すると、国道446号に入りました。
道の左に流れる坪谷川は、日向市から日向灘に流れ込む耳川の支流です。
耳川は戦国時代、北に向かって勢力拡大を図る薩摩の島津氏と、北九州の覇者であった大友宗麟が激突し、九州の関ヶ原とも称される「耳川の戦い」の古戦場として知られます。
一方、道路沿いの川は耳川から坪谷川へ、国道番号は327号から446号へと変わりましたが、「若山牧水生家 →」と記された表示が道路脇から消えることはありません。
そして、質素なコンクリート製の橋のたもとを過ぎたとき、
突然、若山牧水の生家が姿を現しました。
なんという偶然でしょう。
このような、降って湧いたチャンスを見過ごすわけにはいきません。
時刻は既に14時を過ぎていましたが、都農への往復に高速道路を利用したので、時間にはまだ余裕がありました。
若山牧水の生家は人気もなく、無料開放されていました。
玄関を入ると、右手に二間続きの和室が見えました。
若山牧水の生家は、江戸時代後期の1845年に祖父の健海(けんかい)が建てたものです。
健海は埼玉県所沢の農家に生まれ、江戸・福岡・長崎で漢学・蘭学・西洋医術などを学び、天保7年(1836)に坪谷に移り住んで開業しました。
写真に見える手前の部屋が患者の待合室で、奥の部屋を診療室として使っていたそうです。
明治18年(1885)に、この豊かな自然に囲まれた家に生まれた牧水は、旅を愛し、広く全国に足跡を残しました。
牧水の歌碑は全国に及び、その数は約300を数えるそうです。
また牧水は、大の酒好きで、一日に一升程の酒を呑んでいたようです。
土間には次のような解説が貼られていました。
お隣の寅おぢやんに物申す 永く永く生きてお酒飲みませうよ
「帰郷する度に幼少の時から可愛がってくれた寅おぢやんを訪ね、酒を酌み交わすのが牧水の楽しみだった。
大正13年、父の13回忌に帰郷した牧水を待っていたのは連日の大歓迎。
そんな中、滞在最終日の出発直前になって漸く逢えた牧水と寅おぢやんは ここの土間に立ったままで酒を酌み交わし別れを惜しんだと言う。
2人にとってこれが永久の別れになった。」
酒を愛し、旅を愛し、自然を愛した若山牧水だったそうです。
そう言えば、こんな歌があります。
それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味
牧水
旅が好きで、酒を呑んでほろほろするのが好きな私は、今まで以上に牧水に親近感を感じ始めていました。
そうか、そうだったんだ、と呟きながら私は、偶然出合った、牧水の生家を後にしたことでした。
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