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   Farsideの過去ログ。




◆2007年11月22日、二十歳の誕生日を迎えたジロー(小出恵介)は、奔放で大食いでちょっと乱暴だけど、めちゃくちゃキュートな女の子(綾瀬はるか)に出会う。一晩だけの、ほんの数時間のデート。そして一年後の2008年11月22日。二十歳の誕生日に出会った名前も知らない女の子のことを想いながら、去年と同じレストランで一人テーブルに向かうジローの前に、[彼女]が現れた。ただ、去年出会った女の子とそっくりではあるものの、中身は全くの別物。[彼女]は、特殊合金の骨格と生体組織の皮膚を持つアンドロイドだった。運命を変えるために未来から送り込まれた[彼女]は、最初はロボットそのものだったが、次第に人間らしい動作を学んでいく。そんな[彼女]に、ジローは次第に心惹かれていく。だが、恋する気持ちが募るほど、心を持たない[彼女]と暮らす日々が辛くなってくゆく。酔った勢いでつい、「出ていけ」と口走ってしまったジロー。翌朝目覚めたとき、そこに[彼女]の姿はなかった。そして、次の日も、次の日も。[彼女]が来る前と同じ生活に戻っただけのはずなのに、ジローの毎日はひどく虚しかった。


◆賛否両論あるようだけど、私はこの映画が大好きです。


 始めに、しっかりネタバレな事実を書かせていただく。私は女の子が不幸になる映画は苦手。その私が「大好き」と公言している以上、不幸なエンディングは無い。悲しい映画が苦手な方も、安心してご覧いただきたい。


 この映画は、『猟奇的な彼女』『僕の彼女を紹介します』のクァク・ジェヨン監督・脚本による作品。前二作で[彼女]を演じたチョン・ジヒョンがぷにぷに体型になってしまったせいか、あるいは別の理由によるものかは不明だが、主演女優の変更ばかりでなく、完全な日本映画として制作されたもので、『猟奇的な彼女』と『ターミネーター』を足して二で割って可愛くしたようなSFファンタジー。
 この映画は主演の綾瀬はるかの魅力全開で、私はすっかり見とれてしまった。私はTVドラマをほとんど見ないし、彼女が脇役以外を演じている映画は、磯村一路監督の『雨鱒の川』ぐらいしか見たことがない。『雨鱒の川』では、耳が不自由でひたむきな小百合という女の子を好演していた。ひたむきで切なげな表情も魅力的だったが、本作のキャラクターもキッチリ自分のものにしている。次回作では女座頭市を演じるようだし、可愛いだけじゃなく、演技の幅の広い女優さんでもあるようだ。映画を観る前は、[彼女]の役は、可愛らしさなら平田薫、ロボットらしさなら関めぐみあたりが良いかと思っていたが、人間の女の子とアンドロイドの一人二役をこなすには綾瀬はるかがピッタリの適役だと思う。それにしても、パクパク食べる女の子って本当に魅力的だなぁ。ジローを演じた小出恵介も、ある種の「情けなさ」が必要な、引っ込み思案でお人好しの青年を好演。


 完璧な美しさと驚異的な強さ、無垢な心を併せ持ち、いつも側にいてくれる[彼女]は、おそらく男の子が思い描く理想の恋人像の一つだろう。理想像であると同時に、それは永遠に実を結ばない恋でもある。エドマンド・クーパーの「アンドロイド」など、人間とアンドロイドとの恋や心の交流を描いたSFはいくつかあるが、そこで恋が実ることはほとんど無い。人ではない存在に恋心を抱くのは始まりであって悪いことではないが、そこで自己完結してしまったら二次元コンプレックスと大差ない話になってしまう。だがこの映画には、アンドロイドの[彼女]との思い出を決して置き去ることなく本当の恋が始まるという凝りに凝った展開が用意されている。フィギュアヲタクが等身大でスタイル抜群のフィギュアに恋をするという話ではなく、本物の恋に始まって本物の恋に終わるという正当な映画なので、ヲタクの二次元愛を見せつけられるというご心配は無用。


 SF考証だのタイムパラドックスだのの問題は、綾瀬はるかの笑顔の前では些細なことなので気にもならないのだが、それとは別に、脚本上ツジツマの合わない部分も確かにある。重箱ツツキストの私としてはしっかり気づいているのだが、まぁ良いじゃないか、そんなこと。SFファンタジーとラブコメの合体作みたいな映画なので、野暮なことは言いっこ無しだ。ただ、用語についてはひとこと言っておく。『僕の彼女はサイボーグ』というタイトルが付いているものの、[彼女]はサイボーグではなく人型ロボット。(ちなみに、サイボーグとは体の一部を機械化した人間を指す)したがって、[彼女]はアンドロイド、あるいはガイノイドと呼ぶのが正しいのだが、クァク・ジェヨン監督、あるいは韓国には、そのへんを峻別する習慣はないようだ。


 さて、私の勘違いでなければ、本作ではジローが[彼女]の名前を呼ぶシーンが一度だけある。ぜひ、お見逃し無きよう。


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◆大企業に勤めるエリート社員の木村(堺雅人)と、母校で教鞭をとる中学校教師の神野(大泉洋)は、タイプは全く逆なのに中学時代からの親友。その朝、木村は臨月を迎えた美しい妻(常盤貴子)とさし向かいで朝食をとっていたが、不機嫌な義父(山本圭)がいるせいか、雰囲気が妙にぎごちない。神野の新車を借りて出社した木村は、そのまま連絡が取れなくなってしまう。
 アダルトショップを経営する傍ら、怪しげな探偵業で裏社会と通じている北沢(佐々木蔵之介)は、借金で首が回らなくなっていた。そんな北沢の元を訪れたスーツ姿の依頼人。依頼内容は人捜し、期限は大至急。資料として渡されたのは、木村の履歴書と、一枚の写真。ホテルの前で撮られたその写真には、木村と一緒に一人の女性が写っていた。卒業名簿を頼りに木村の交友関係を当たろうとした北沢は、訪れた中学校で木村の親友である神野と出会う。情報集めに利用できると踏んだ北沢は、「同級生の島崎」と偽名を名乗り、神野の思い違いを良いことに、まんまと木村探しを手伝わせてしまう。調査を続けるうちに、意外な事実が浮かび上がる。バラバラに見えたひとつひとつの点は、実は一本の糸によって結ばれていた。


◆う~ん、困った。ネタバレせずに粗筋を書くのがここまで難しい映画も珍しい。商業サイトの粗筋を読んでみたが、えっ?、えっ!、という展開の妙を楽しむ映画なので、読者に余分な知識を与えないように気を遣って書いている。これはなぁ.....。私の乏しい文章力では、観客の楽しみを削がずに粗筋を書くことは不可能だ。なので、商業サイトに準じた書き方をさせていただく。事実とは違う部分もあるが、どこがどう違うかはご自分の目で確かめていただきたい。粗筋、というか物語のイントロは何とかネタバレ無しでなぞったが、感想がまた書きにくい。意外な展開が続く映画なので、何を書いてもネタバレになるだろう。とりあえず、私はこの映画、結構好きです。


 監督・脚本は『運命じゃない人』の内田けんじ。短めの尺でテンポ良く展開していくドラマ、30代半ばから40までの、邦画のこれからを背負って立つであろう俳優三人の共演、明らかに若返って見える常盤貴子の、真っ白で儚げな美しさ。脇を固める味のある面々の、控えめながらコミカルな演技。そして、今までにないタイプの物語展開。先読みに神経を使ったりせず、内田けんじの手のひらで踊らされてみるのが正しい楽しみ方だろうと思う。


 この映画の主眼である「意外な展開」の部分は、実はドラマチックに盛り上げるような作りではなく、静かにサラリと、時にコミカルに描かれる。激闘でも感涙でも爆笑でもないその終わり方を、盛り上がりに欠けると感じる人もいるかもしれない。これはそういう種類の盛り上がり方をする映画じゃなく、意外な展開を楽しむ映画なので、凍り付くようなサスペンスや涙々のエンディングを期待する向きにはお薦めしない。


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◆白い魔女(ティルダ・スウィントン)の氷の時代を終わらせたペベンシー兄弟。ナルニアの一の王、英雄王ピーター(ウィリアム・モーズリー)、優しの君スーザン(アナ・ポップルウェル)、正義王エドマンド(スキャンダー・ケインズ)、頼もしの君ルーシー(ジョージー・ヘンリー)と呼ばれた四人は、初代ナルニア王・女王としてケア・パラベルで平和な治世をしいていた。大人になった四人が「こちら」の世界に戻ってみると、彼らはナルニアに行く前と同じ子供のままで、時間の経過すら全くなかった。一年が過ぎ、子供としての暮らしにやっと慣れた頃、四人は助けを求める魔法の角笛によってナルニアへと引き戻される。そこは、四人の治世から1300年の後、隣国テルマールによって自由を奪われ、ナルニアが消えゆこうとする時代だった。角笛を吹いたのは若きカスピアン十世、テルマールの悪政を憂う若き王位継承者。国を追われたカスピアン王子(ベン・バーンズ)と、森に隠れ住み、今もアスランを信じるナルニア人の前に、救済者として現れたナルニア初代の王と女王達。力を合わせてテルマールの軍勢を追い払おうとする彼らのもとに、なぜかアスランは現れなかった。


◆いい映画だった。


 もともとが児童文学であるだけに、ナルニア国物語のシリーズには残酷さといったものはほとんど描かれない。かなり原作に忠実な映画化ではあるものの、同じ内容を描いても、映像にすれば受け取り方は違ってくる。戦いの場面の迫力や、人々の死というものの重みが、文字だけの世界よりもずっと際だつからだ。さすがに映像では、死をサラリと流して描くのは難しい。死や戦いを描きながら情感を省くと、『ライラの冒険』のように命や人間を消耗品扱いする物語になってしまう。やはり、そこには苦悩や悲哀を描かざる得ないだろう。私は小学生の頃からの愛読者なので、前作『白い魔女』では、原作よりも対象年齢の高い物語になっていることにいくらかの戸惑いもあった。大人向けにするか子供向けにするか、前作ではそのへんの線引きが今ひとつだったように思えたのだが、この『カスピアン王子の角笛』ではそのへんの曖昧さはなくなり、すっきりとした作りになっていると思う。対象年齢は中学生から大人まで、本音を言えば、かつての愛読者だった大人にこそ見て欲しい映画だと思う。


 映像の迫力や緊迫感などは前作よりも大幅にスケールアップしており、見応えのある一大叙事詩になっている。CGを駆使したナルニア人達の動きも良くなっているようだ。セントールの身のこなしについてはちょっと違うような気もしたが、何しろ本物のセントールを見たことがないもので.....。(((((^^; 子供のセントールのかわいい動き、身を挺して仲間を救うミノタウロスなど、彼らの見せ場もきちんと盛り込まれている。そして、特筆すべきはその世界の美しさ。暗い冬だけが続いていた前作と違い、ナルニアという世界の美しさが際だっている。その映像の美しさだけでも見ほれてしまうほどだ。この完成度の高い世界観と映像は見て損はないと思う。


 前作と本作は続けて撮影されたようで、登場人物の成長にもほとんど違和感はない。ペベンシー四兄弟の物語は、基本的には、最も純粋なルーシーがキーになるお話。ルーシー役のジョージー・ヘンリーは野に咲く花のように可憐に育っていて、幼いながらもいちばん存在感がある。名子役なんじゃないだろうか。時に若きカスピアン王子と対峙し、テルマールの王位簒奪者であるミラース(セルジオ・カステリット)と渡り合うナルニアの一の王、ピーターを演じたウィリアム・モーズリー。原作でのピーターは、少年の姿でありながらも、ナルニアに戻ってかつての威厳を取り戻していくのだが、それは文字の世界ならではのお話。若くして王の威厳を身にまとうのは、ちょっと難しかったようだ。もっとも、ピーターやエドマンドの役は、大人の経験と王の威厳を持った少年という、とても難しいもの。好演と言っていいだろう。前作に比べていちばん成長の見られる、スーザン役のアナ・ポップルウェル。今回は、カスピアン王子とのほのかな恋模様も織り込んだ役柄を好演。原作の読者の方はご存じだろうが、スーザンはペベンシー四兄弟の中で、というよりも、ナルニアに行ったことのある全ての子供達の中で唯一ナルニアとの縁が切れてしまう人物なので、映画のラストは観ていてちょっと切ない。


 全七巻のナルニア国物語は、神学者でもあるC・S・ルイスが聖書との対比を盛り込みながら書き上げた、多くの寓話性も含む物語。そこには、信頼や愛、正しい心の大切さと、そういった大切なものを忘れたときに陥る不幸もきちんと描かれている。本来は児童文学なので、難しいことは抜きにして物語の面白さで読者を引きつけ、読み終わったときには正しいものの考え方も心に残る、という意図なのではないかと思う。物語が書かれたのは1950年代で、本は今よりもずっと貴重なものだったし、子供の娯楽も今ほど豊富ではなかった。児童書だけに限ったことではないが、「一度読んだらそれでお終い」ということは無く、物語はくりかえしくりかえし、心に刷り込まれるまで読まれていた。だからこそ、作者が伝えたいメッセージも登場人物達の直接の会話ではなく、行動によって示すというスパンの長いものになりがちなのだと思う。たとえば、兄弟を裏切ったことのあるエドマンドは高潔な正義王となり、仲間と信義のために戦う。原作に忠実であるだけに、映画の中でも説明的な長台詞は無く、素っ気ないほど短い言葉で示される。映像の美しさや迫力に目を引かれる分、原作を知らない観客には、物語の背景にある意図や精神世界が伝わりにくいかもしれない。もし映画を観て興味を持たれたら、一度原作を手に取ってみても面白いと思う。訳が古いためにいささか違和感のある言葉遣いもあるが、指輪物語やゲド戦記よりは読みやすい。時代を超えて読み継がれていって欲しいと思う。


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◆19才の予備校生、テンコ(大塚ちひろ)。雨の朝、予備校に向かうバスでテンコが偶然出会ったのは、かつての姉の恋人、ジダン(和田聰宏)。予備校をさぼったテンコと仕事をさぼったジダンは、雨宿りついでに近くの喫茶店に入って、7年前の話を始めた。テンコの姉でジダンの恋人、7年前にこの世を去ったショコラ(竹内結子)の思い出。
 子供の頃、7つ年上のショコラは、テンコ(子供時代/藤本七海)が風邪を引いて熱を出すたびに、不思議で美しいおとぎ話をしてくれた。その話を聞いたジダンは携帯を開き、旅先のショコラから送られてきたムービーメールを再生してみせる。テンコがおとぎ話だとばかり思っていた不思議な光景は、全て現実だった。いくつもの不思議、いくつもの奇跡を体験していたショコラ。雨上がりの街に出た二人は、ショコラの足跡を追いかけてみることにした。


◆『クローズドノート』の行定勲監督と竹内結子の組み合わせで、2007年に公開された50分ほどのショートムービー。なんでも、もともとは携帯電話のCMのために撮った映像で、それをベースに映画を撮りあげたものらしい。松たか子の『film 空の鏡』と『四月物語』のような関係だろうか。


 監督のセンスに加えて、撮影の中山光一、美術の山口修の力によるものか、テンコとショコラの暮らす家の造形の美しさ、そしてその映像のしっとりとした雰囲気が良い感じで、私はとても気に入った。虹を意識させるために鮮やかな7色で作られたCGは、正直技術的な水準は低いが、映像の美しさと竹内結子の神秘的な美貌が相まって、きっちり別世界を作り上げている。大人になったテンコとジダンのパートも、雨や水滴、水たまりを効果的に使って、現代の日本でありながら、どこか違う空間のような雰囲気を上手に作り上げている。もともと、和田聰宏と竹内結子という組み合わせのファンタジーと言うことでDVDを手に取ったのだが、19才になったテンコを演じる大塚ちひろが飛び抜けて魅力的で、現在のテンコのパート、過去のショコラのパート、どちらも魅力的に話が進行していく。今までどちらかといえばひとクセのある役が多かった和田聰宏(旧:和田聡宏)だが、本作では心優しい成年を好演。これからもこういった役柄が増えることを期待したい。


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◆ケイル(シャイア・ラブーフ)は、自分が運転していた車の事故で同乗していた父が命落とし、そのことで自分自身を責めていた。何事にもやる気を無くし、自堕落な毎日を送るケイルは何度も問題を起こし、ついには教師を殴って三ヶ月間の自宅軟禁という処分を受けた。足首につけられたセンサーのおかげで自宅を出ることが出来ず、もし禁を破れば即座に逮捕、少年院行きが待っていた。母親にゲームもテレビも取り上げられて腐るケイルが始めたのは、隣家の覗きだった。怪しげな隣人、妻の留守中に不倫する男、特に、隣に越してきたアシュリー(サラ・ローマー)の着替えやプールで泳ぐ様子を見るのが楽しみだった。ところが、悪友のロニー(アーロン・ヨー)と一緒にアシュリーの水着姿を覗いているのがバレて、アシュリーがケイルの家を訪れた。震え上がったケイルとロニーに、アシュリーはにっこり笑いかける。家庭に問題のあるアシュリーにとって、ケイルの家は格好の避難場所。三人で怪しげな隣人、ターナー(デビッド・モース)の監視をゲーム感覚で始めた。最初は、テキサスで起きた連続殺人事件で目撃されたのと同じ車に乗っているというささやかな理由だったが、ケイルたちのゲームは最悪の形で現実へと変わっていった。


◆隣人が殺人者かもしれないという設定は、コメディからサスペンス、ホラーに至るまで幾度となく映画化されてきたアイデア。足首に取り付けられたセンサーで自宅の敷地を出られないという『裏窓』的な設定を生かしつつ、ひょうきんでちょっと頼りない親友や、主人公が恋心を抱くお隣の美人の力を借りて、携帯やビデオカメラといった現代ならではの小道具を生かして追跡するパートはなかなか面白い。実を言えば、双眼鏡での監視方法には大きな穴があるのだが、まぁ、そこは突っ込まないことにしよう。映画の嘘とも言うべき部分だし、対象に気づかれない監視方法などを開陳するのは、本物の覗き魔を助長しかねないので。
 ケイルたちの監視が途中から犯人のタナーに感づかれ、逆に追い詰められていくパートは、たたみ掛けるような緊迫感がある。お決まりの、信じてくれない大人達。最初から色眼鏡で見る警察官、犯人の巧妙な擬装。物語を100分ほどの短めな尺におさめることで、多少アラのある脚本をそれと気づかせず、スピーディーに物語を転がして行く。10代から20代前半ぐらいを対象年齢にした、なかなか出来の良いサスペンスだと思う。さすがに、大人の映画ファンを唸らせるには遠いが.....。

以下、全面的にネタバレです。

 主人公のケイルは、自己憐憫から始まって、学校では傷害事件を起こし、自宅に軟禁されてからは覗き魔に変わって隣の女の子の着替えを盗み見し、息子の将来を案じる母親のジュリー(キャリー・アン・モス)には心配ばかりかけている少年。これが自分の隣人だったら、どう贔屓目に見てもひねくれた変質者でしかない。ほぼ最悪のキャラクターでありながら、観客に嫌悪感を感じさせることなく、なおかつアシュリーとの恋まで納得させてしまうのは、主演のシャイア・ラブーフの力に負うところが大きいと思う。他の人が演じたら、単なるパラノイアの変質者にしかならない可能性もある。『マトリックス』の時よりも大分若返って綺麗になったキャリー・アン・モス演じる母親を悲しませてばかりいる前半のパートでは、正直に言えば「どうしようもないガキ」という雰囲気のケイルだが、いざとなった時には、母を助けるために命がけで危険に飛び込んでいく。この落差に観客はケイルを応援したくなるし、前半の「どうしようもないガキ」というイメージが綺麗に払拭される。このあたりの作りは良い。


 さて、エンディングではジュリーの顔に生傷が残っているので、事件からせいぜい数日しか経っていないことが分かる。ケイルの友人のロニーは、一撃で気絶するほどの打撃を受けても怪我はしていないし、ケイル自身もかなりの傷を負っているはずだが、エンディングでは痛そうなそぶりすらない。まぁ、ここまでは映画の嘘で良い。あえて突っ込まなくてもいいこの種の部分に対して、どうしても突っ込んでおきたいところがある。ケイルが殴りつけたスペイン語教師の従兄弟でもあり、ケイルの自宅付近をパトロール地域にしているグティエレス巡査についてだ。
 グティエレス巡査は、ケイルに対しては「自分の従兄弟を殴ったガキ」という色眼鏡は確かにあるものの悪意は持っていないし、もちろん悪い人間でもない。それがあっさり命を落とすという展開は、正直かなり意外だった。殴られて怪我をするとか、気絶しても命は落とさないという設定にしないと、ケイルやロニーの「映画の嘘」が「ただの嘘」になってしまう。エンディングを見ると、息子を信じなかったことで親子共々殺されそうになった母親のジュリーも、ケイルたち三人も、非常にハッピーで何一つ気にせず笑っている。自分たちを助けに来た善人があっさり殺されたことにも、自分たちが殺されかけたことにも、むごたらしい犠牲者の遺体をたくさん見たことも、何一つ影を落としていない。本来なら、凄惨な体験のショックで落ち込む姿を描き、みんなを明るくしようとロニーがわざと馬鹿をやって見せて、そこで初めてみんなが笑顔を取り戻すというのが王道の展開だと思う。そして、笑顔を取り戻したジュリーとケイルの間にはわだかまりの氷解した親子の愛情がもどり、ケイルとアシュリーの間には確かな恋が始まる、というところでエンドロールになるべきなんじゃないだろうか。このあたりの描き方が、大人も楽しめるサスペンスとお子様映画を分かつ境界線ではないかと思う。


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◆メイン州の片田舎、湖を臨む一軒の家。画家のデヴィッド(トーマス・ジェーン)は、二階のアトリエでポスターを描いていた。好きな仕事をして、妻と息子の三人で暮らす生活は幸せそのもの。記録的な嵐のせいで木が倒れ、アトリエの窓を破って絵を台無しにしてしまったが、家族さえ無事なら落ち込むほどのことではなかった。嵐は送電線や電話線にもダメージを与え、携帯電話も不通になっていた。山から湖にかけて濃い霧が広がり始める中、デヴィッドは、息子のビリー(ネイサン・ギャンブル)と隣人のブレントを車に乗せて、街へと向かった。食料品や、とりあえずの補修材料を買いにスーパーマーケットに入ると、店内は同じような買い物客でいつになく混雑していた。人々は、顔見知りを見つけては愚痴をこぼしてはいたが、そこには嵐が通り過ぎたことへの安心感があった。だが、広がりつつあった霧が街を覆い始めた時、本当の異変が始まった。


 視界の全てを白く殺してしまう濃霧。この霧の中には何かが潜んでいた。人を襲い、殺す未知の生きものたち。スーパーに立てこもった彼らに怪物の襲撃は続き、ジリジリと人数を減らしていく。極限状態の中、人々はいくつかのグループに分かれて反目し始めた。中でも、聖書を片手に破滅を説く狂信者、街の厄介者だったミセス・カーモディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が多くの人々を従えて一大勢力を築きつつあった。ミセス・カーモディの主張は「贖罪」。神の意に背くものを生け贄として差し出せば、残ったものは生き延びられる、と。


◆スティーヴン・キングの「骸骨乗務員」に収録された中編「霧」をベースに、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』のフランク・ダラボン監督が映画化。映画は原作に極めて忠実に作られており、筋金入りのキングファンでも満足できる出来になっている。もともと、キングの「霧」はF・ポール・ウィルソンの「ナイトワールド」シリーズなどと違って怪物との戦いに派手さが無い。映像化されて実体を得たことで、原作には無かった派手さ、緊迫感が加わって、私的にはとても満足のいく出来だった。原作のファン、「ナイトワールド」「サイレントヒル」といった作品が好きな方なら無条件にお薦め。
 原作と映画の違いは、小説の中ではほのめかす程度だった軍事施設と霧の関係と、ラストの脱出行の結末の二点。このラストはなかなか衝撃的で、『ディセント』や『猿の惑星』のような強い無常感があって、原作以上に良い物語になっていると思う。極限状態に置かれた人間が、煽動者の言に乗せられて、仲間である人間に牙をむく異常な集団に変わってしまう恐怖。原作でもそういった人間の恐ろしさは描かれていたが、映画では、それとは異なる種類の悲劇も盛り込んでいる。本作はR-15指定となっているが、本来はPG-12ぐらいで十分だろう。個人的には、その種の規制は不要な映画だと思う。


 この映画、TVなどで特別な前宣伝をしているわけでもないのだが、公開二日目の客席は実に9割が埋まっていた。客層は20代から60代まで、メインは30代のようだ。シネコンのロビーを見渡した限りでは、お客さんの数は決して多くなかった。混んでいるのは『ミスト』だけだが、観客の全てがキングのファンとも思えない。「キングの原作を、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』のフランク・ダラボン監督が映画化」というアオリ文句に踊らされて、感動的な物語かと勘違いして劇場に足を運んだ人が多いのではないかと邪推してしまった。念のためにご注意申し上げるが、この映画はSFホラーであって、感動的な部分はゼロ。B級映画の王道を行く作りだ。勘違いで観に行くと取り返しの付かないことになるので、その点だけはご用心いただきたい。


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 先日、とある女性にご挨拶をした。知人の知人という程度で、別に友人でもなんでもないが、いちおう礼儀としてご挨拶しただけだ。私はその人の顔を見た瞬間、思わず「わっ!」と声を上げそうになった。これでもいい年をした大人なので、さすがに寸止めで抑えて声までは上げなかったが、本当にびっくりした。あまりにも綺麗だったから。綺麗で可愛らしくて、優しそうな明るい笑顔。並大抵の美人なら見ても眉一つ動かさないつもりだが、その時は心臓がバクバクするほど驚いた。純粋な美しさは、ほとんど暴力に近いほどの圧力がある。息が止まるかと思った。
 その後二時間ほど、私は彼女のことを考えていた。べつに、好意を持ったとかそういうややこしいことではない。どちらかといえば、かなり客観的な疑問だ。その女性は結婚して、お子さんも一人いる。「飛び抜けて美しい」ということは、ひょっとしたらご本人にとっては迷惑なんじゃないかと考えていたのだ。


 私は女性になったことはないが、美人じゃないよりも美人でいることの方が、たぶんご本人の気分が良いだろうことは容易に想像が付く。だがそれは、「美人」というありふれたレベルの話であって、初対面の人間が思わず声をあげそうになるほどの美しさではないんじゃないか。あまりにも美しいと、結婚されていてもお子さんがいても、周囲は放っておいてはくれない。そういうのって、きっとご本人には迷惑なはず。とっても鬱陶しい状態なんじゃないだろうか。いっそ、「普通の美人」ぐらいまで大幅にグレードダウンしておいた方が、周囲の余計な雑音が減って、ご本人は気が楽なんじゃないだろうか。私は過去に、綺麗すぎて苦労している女性を何人か知っている。見ようによっては贅沢な苦労なのかもしれないが、当事者にとっては深刻な悩み、厄介ごとだったようだ。「美しさは罪」という言葉があるが、この言葉は冗談でもなんでもなく、場合によっては真実なのではないかと思えた。


 赤の他人が、ろくに知りもしない女性の「美しさ」が邪魔ではないかと邪推する。考えてみれば、この世にこれほど要らぬお節介もないだろう。私自身もそう思う。なぜ私はそんな考えにとりつかれているのか、実は自分でも不思議だった。なぜ私は、初めて会った女性の、それも「飛び抜けた美しさ」を心配しなければいけないのだろう。しばらく経って、やっと答えが分かった。その女性は、私が遠い昔に好きだった女の子によく似ているのだ。その子は、23才で年をとることをやめた。もし毎年誕生日を迎えていたら、きっと、あんな風に美しい大人の女性になっていたことだろう。
 私が見てびっくりした女性も、とても綺麗でかわいい女性なのは間違いない。ただ、息が止まるほど美しいと感じたのは、もしかしたら私だけなのかもしれない。私にとっては胸が痛むほど美しく見えても、他の人にとっては普通の美人なのかもしれない。普遍的な美を対象にした言葉だが、「美はそれを見るものの眼(心)にある」というのは、たぶん真実なのだろう。


 人の心には、壊れないための防衛機構が備わっている。それは、「忘れる」という優しいメカニズムだ。どんなに辛かったことも、どんなに悲しかったことも、やがては少しずつ忘れていく。記憶はやがて感情の残像になり、「できごと」は思い出せても、その瞬間の「感情」は思い出せなくなる。理由の分からない衝撃として全身を叩くことはあっても、私の意識の中に、かつて大好きだった女の子の顔はしばらく浮かんでこなかった。これは救いなのだろうか。


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 私はTVのニュースを聞きながら眠ることが多い。うつらうつらしながらニュースを聞いているため、夢とニュースがごっちゃに混ざることもある。楽しいニュースや罪のない話題なら構わないのだが、ニュースの中身は暗い話が多い。時には暗い夢も見る。愛知では、15才の女の子が下校途中に事件に遭い、殺害されたという。むごい事件なので、細部には触れない。被害にあった女の子のご冥福を祈ると共に、被害者とそのご遺族のため、まだ殺害されていない未来の被害者と未来のご遺族のためにも、一刻も早く犯人が捕まってくれることを、ただただ願いたい。そして、正しい裁きがくだされ、犯人が二度と社会に害を成さないようにして欲しいと思う。


 嫌な事件が続く世相の反映、いや、「原因」の方だろうか。先日『少林少女』を観に行った時、私の隣に座っていたカップルの、男の方の態度が悪かった。映画が始まる前の休憩時間のことだが、前の座席に土足を伸ばしていたのだ。時間が来れば、その席にもお客さんは来る。他人の土足が乗っていたところに頭を預けるのは嫌だろう。滅多にやらないのだが、その日は相手の顔も見ずに首根っこを掴んで脅し文句を口にした。腕力だけは自信があるし、何より私は機嫌が悪かった。馬鹿なガキかと思って脅してみれば、なんと私よりもずっと年上の夫婦だった。私は呆れた。ただただ呆れた。こんな大人が増えている。こんな大人が、恐ろしいことに人の親を名乗る。呆れすぎて、もう脅す気にもなれなかった。
 私の席は中央通路側。私が通さない限り、彼らは座席にカンヅメだ。映画が終わって照明が点いても、私は組んだ足を解かなかった。両手の指をポキポキ鳴らしながら、不機嫌な顔でただ座り続けた。こういう時の顔はかなりの凶相で、控えめに言ってもかなり怖い。大の大人の、それも夫婦者が相手では馬鹿馬鹿しくて説教する気にもなれないが、この世には怖いこともあるという事実をいい加減知っても損はないだろう。理不尽なことをすれば、理不尽な目に遭う。客の全員が劇場を出たところで、私はゆっくり立ち上がって、どれだけ体格差があるのかを十分に見せた上で、相手の顔を上からのぞき込んだ。詫びの一つも言うかと思ったが、ただただ目を合わせないようにするだけで、反省の言葉も無い。もしかしたら、私が本物のヤクザにでも見えたのだろうか。まぁ、重武装しているのは一目で分かるし、立場が逆なら私でも緊張するだろう。私は絡んだわけでも因縁をつけたわけでもないが、彼らが最低限のマナーを守ってさえいれば、無人の劇場で私に睨まれて縮こまっている必要もなかったはずだ。私は彼らに知って欲しい。別に聖人君子になってもらおうとは思わない。「マナーやルールは自分を守るためにある」とだけ、知って欲しい。いい年をした大人、子供が成人していてもおかしくないような夫婦者が、そんなことさえ知らないというのが情けない。少なくとも男は、自分はともかく同伴者がトラブルに巻き込まれない程度のマナー意識を持って欲しいところだ。それが出来ないような奴は男ではない。


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◆物語の始まりは、150年前のイギリス。ウォール(壁)という名の村の、延々と続く石垣。何百年も前から村人はその石垣を守り続けていた。壁の裂け目には、決して人を通さぬように日ごと夜ごと門番を立て、往来を阻んでいた。壁の向こうには、魔法が支配するストームホールドという別世界が広がっていた。


 18才のトリスタン・ソーン(チャーリー・コックス)は、こちらの世界とあちらの世界の血を引くもの。若き日に壁を越えた父と、ストームホールドの女性との間に生まれたのだった。村いちばんの美人、ビクトリアの気持ちを掴むため、壁の向こうに落ちた流れ星を見つけに行くトリスタン。そこで見つけた流れ星の正体は、鉱物でも宝石でもなく、イヴェイン(クレア・デインズ)という名前の、ちょっと勝ち気な美人だった。ビクトリアの元へ、強引にイヴェインを連れて行こうとするトリスタン。トリスタンは流れ星のイヴェインをビクトリアに会わせたら、空へと帰すつもりでいた。だが、ストームホールドの王位を狙う冷酷な王子たちと、永遠の若さのために流れ星の心臓を狙う魔女たちがイヴェインを狙っていた。


◆良く出来たファンタジー。魔法の王国、暗黒の魔女、王位継承権争い、空の海賊、そしてトリスタンのささやかな恋。いくつもの話を絡めながら二時間強という枠の中で物語を転がして、最後は大団円にまとめてしまう手腕はお見事。映像自体も嘘くささのない良い出来で、きちんとした世界観が出来上がっている。
 王位継承者同士の殺し合いや恐ろしい魔女の存在など、言葉にすると子供向けではなさそうだが、実際は子供から大人まで楽しめる物語になっている。暗黒の魔女役にミシェル・ファイファー、ちょっとワケありな空の海賊にロバート・デニーロ。ニール・ゲイマンの原作は、本来かなりダークな内容。それを暗さのない映画に作り替えたのは、この二人の力が大きい。地味でもっさり、引っ込み思案なトリスタンが、真実の愛と仲間の助けを得て、冒険を切り抜けながら自信に満ちた一人前の男に成長していく成長譚。この映画のヒロイン、流れ星のイヴェインも、実は最初は美人じゃない。空から落っこちて脚をぶつけたことにお冠なイヴェインは、最初はつっけんどんな振る舞いをして、あまりかわいくない。そんな彼女が、トリスタンと共に幾多の冒険を切り抜けることで輝き始める。私はファンタジー系も大好きなので、この種の映画は大量に観ているが、ファンタジーで恋と魔法と冒険のバランスを取るのはとても難しい。万人向けを目指すには、剣戟や戦いを最小限度に抑え、欲は描いても憎しみは描かず、真実の愛は必ず報われるという展開にしなければならないが、なおかつ物語が面白くなければそもそも映画は成り立たない。この難しいバランス配分を上手くやってのけた、監督・脚色のマシュー・ヴォーンには拍手。


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◆故人となっている片山外務大臣の娘、片山雛子議員(木村佳乃)のもとに送りつけられた手紙爆弾。それはほぼ音だけで、殺傷能力のない「警告」だった。特命係の杉下右京と(水谷豊)と亀山薫(寺脇康文)に、因縁浅からぬ警察庁官房長の小野田(岸部一徳)から片山議員の警護班への合流が命じられる。とっさの機転で片山議員の暗殺を阻止した二人は、現場に残されたアルファベットと数字の組み合わせを見つける。それがチェスの棋譜であることを見抜いた右京は、最近起きた数件の事件で同様の棋譜が記されていたことを突き止めた。そんなとき、特命係に新たな情報がもたらされる。連続棋譜殺人を予告したリストの存在。手がかりを追う特命係の常に一歩先を行く犯人。その巧妙なミスリードは、彼らを五年前の事件へと導いていく。


◆TVシリーズとしてはけっこうな長寿番組らしく、私も時々見たことがある。TVの刑事ものとしては、笑いあり風刺ありでなかなか面白かった。今回の劇場版も、TVシリーズと同等の出来だと思う。映画の中には各種の設定や人間関係などの説明はゼロなので、TVシリーズを見たことがない人には到底お薦め致しかねるが、シリーズが好きだという人なら十分楽しめる構成になっている。予算がかかっていること、舞台が東京ビッグシティマラソンとなっているだけあって、画面に映る人数が半端でないことを除くと、TVのスペシャル版と劇場版の違いはそれほど無いと思う。「映画なんだから、映画なりに変えないと」という意見は常にあるが、あんまりいじくりすぎるとせっかく劇場に足を運んでくれたTVシリーズのファンにそっぽを向かれてしまうので、これぐらいの作りがちょうど良いと思う。時間と予算をかけた豪華なスペシャル版、内容は同じ、というところだ。


 私はTV事情に疎いので的外れかもしれないが、TVドラマの刑事ものは、かつての「勧善懲悪」路線を維持できなくなって久しいと思う。警察組織内部の問題を絡めた作りや特殊能力を扱ったもの、体裁は刑事ものだが内情は人情ものになっているシリーズなど、「普通の刑事もの」として幅広い年齢層が楽しめるものは少ない。そんな近年の流れの中で、この「相棒」シリーズは唯一の「普通の刑事もの」であり、クオリティの高い番組として人気を博していたのだろう。


 私が観に行ったのは、公開三日目の土曜日、16時の回。いつものようにネットでチケット予約していた私は、続々と埋まる客席を見て驚いた。なんと満席。映画を見終わってから発券窓口の掲示板を確認してみると、次の回もその次の回もチケット完売。柴咲コウ主演の『少林少女』も健闘していたが、こちらは「完売」には至らず「残りわずか」。映画終了後の客席の声を拾ってみても、TVシリーズのファンが多いことは容易にうかがい知れた。TVシリーズのファンにとっては満足のいく出来だろう。漏れ聞こえてきた感想は全体に好意的だった。
 邦画の場合、TVやコミックなどの原作がない、独立した刑事物で大量集客を見込むのは非常に難しい。続編の公開を来年に控えている『踊る大捜査線』とそのスピンオフシリーズは、刑事物・警察ものとしてはエポックメイキングな存在だったが、TVシリーズがなければあそこまでのヒットにはならなかったと思う。興行的には振るわなかったが、篠原涼子主演でTVから劇場版へと発展した『アンフェア』、来年公開予定の『SP』など、いずれもTVシリーズの人気がなければ企画すら浮かばなかっただろう。やはり、TVの力は大きい。


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