◆メイン州の片田舎、湖を臨む一軒の家。画家のデヴィッド(トーマス・ジェーン)は、二階のアトリエでポスターを描いていた。好きな仕事をして、妻と息子の三人で暮らす生活は幸せそのもの。記録的な嵐のせいで木が倒れ、アトリエの窓を破って絵を台無しにしてしまったが、家族さえ無事なら落ち込むほどのことではなかった。嵐は送電線や電話線にもダメージを与え、携帯電話も不通になっていた。山から湖にかけて濃い霧が広がり始める中、デヴィッドは、息子のビリー(ネイサン・ギャンブル)と隣人のブレントを車に乗せて、街へと向かった。食料品や、とりあえずの補修材料を買いにスーパーマーケットに入ると、店内は同じような買い物客でいつになく混雑していた。人々は、顔見知りを見つけては愚痴をこぼしてはいたが、そこには嵐が通り過ぎたことへの安心感があった。だが、広がりつつあった霧が街を覆い始めた時、本当の異変が始まった。
視界の全てを白く殺してしまう濃霧。この霧の中には何かが潜んでいた。人を襲い、殺す未知の生きものたち。スーパーに立てこもった彼らに怪物の襲撃は続き、ジリジリと人数を減らしていく。極限状態の中、人々はいくつかのグループに分かれて反目し始めた。中でも、聖書を片手に破滅を説く狂信者、街の厄介者だったミセス・カーモディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が多くの人々を従えて一大勢力を築きつつあった。ミセス・カーモディの主張は「贖罪」。神の意に背くものを生け贄として差し出せば、残ったものは生き延びられる、と。
◆スティーヴン・キングの「骸骨乗務員」に収録された中編「霧」をベースに、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』のフランク・ダラボン監督が映画化。映画は原作に極めて忠実に作られており、筋金入りのキングファンでも満足できる出来になっている。もともと、キングの「霧」はF・ポール・ウィルソンの「ナイトワールド」シリーズなどと違って怪物との戦いに派手さが無い。映像化されて実体を得たことで、原作には無かった派手さ、緊迫感が加わって、私的にはとても満足のいく出来だった。原作のファン、「ナイトワールド」「サイレントヒル」といった作品が好きな方なら無条件にお薦め。
原作と映画の違いは、小説の中ではほのめかす程度だった軍事施設と霧の関係と、ラストの脱出行の結末の二点。このラストはなかなか衝撃的で、『ディセント』や『猿の惑星』のような強い無常感があって、原作以上に良い物語になっていると思う。極限状態に置かれた人間が、煽動者の言に乗せられて、仲間である人間に牙をむく異常な集団に変わってしまう恐怖。原作でもそういった人間の恐ろしさは描かれていたが、映画では、それとは異なる種類の悲劇も盛り込んでいる。本作はR-15指定となっているが、本来はPG-12ぐらいで十分だろう。個人的には、その種の規制は不要な映画だと思う。
この映画、TVなどで特別な前宣伝をしているわけでもないのだが、公開二日目の客席は実に9割が埋まっていた。客層は20代から60代まで、メインは30代のようだ。シネコンのロビーを見渡した限りでは、お客さんの数は決して多くなかった。混んでいるのは『ミスト』だけだが、観客の全てがキングのファンとも思えない。「キングの原作を、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』のフランク・ダラボン監督が映画化」というアオリ文句に踊らされて、感動的な物語かと勘違いして劇場に足を運んだ人が多いのではないかと邪推してしまった。念のためにご注意申し上げるが、この映画はSFホラーであって、感動的な部分はゼロ。B級映画の王道を行く作りだ。勘違いで観に行くと取り返しの付かないことになるので、その点だけはご用心いただきたい。
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