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   Farsideの過去ログ。

どろろ

2007-01-27 | 映画の感想 た行
◆手塚治虫の漫画、「どろろ」の映画化。有名な作品だと思うし、各部の設定は映画用に変えられているものの、物語の大筋は同じなので粗筋は省く。


◆監督は『黄泉がえり』の塩田明。総制作費は、邦画としては破格の20億円ともアナウンスされている。私は原作が好きで何度も読んでいるので、公開初日に観に行ったのだが、感想は微妙だ。正直、人に薦めることは出来ない。


 出演者は、百鬼丸に妻夫木聡、どろろに柴咲コウ。権力を求めて我が子の体を魔物に与えた父の醍醐景光に中井貴一、母親役に原田美枝子、弟の多宝丸に瑛太。百鬼丸の育ての親、呪術師の寿海に原田芳雄、語り部役の琵琶法師に中村嘉葎雄。他に、麻生久美子、杉本哲太、土屋アンナなど。全員がうまいハマリ役だとは言わないが、それなりに人気・実力のあるキャストを揃えたと思う。大がかりなニュージーランドでのロケも、舞台設定を原作の室町時代ではなく、「いずことも知れぬ戦乱の時代」としたことで、違和感なく観られる。20億円という巨額の制作費を投入しただけあって、合戦のシーンでも人数をけちることなく撮影されている。だが、全てが中途半端だ。どんな映画にしたかったのか、それがよく分からない。一応はダークファンタジーとして作っているのだろうと思うが、それにしてはコミカルで、おどろおどろしさが無い。アクション映画を意図しているのなら、設定や舞台装置を生かしていない。スタジオ撮影の部分とロケの部分で露骨に雰囲気が違うのも違和感を覚える。全てが噛み合っていないような勿体なさ、もどかしさを感じる。


 この映画の見せ場である、百鬼丸がその左腕に仕込まれた妖刀で魔物を倒し、奪われた体の部分を一つずつ取り返していくシーン。序盤の魔物は確かに良く出来たCGで、その動きと迫力に感心したが、そこから先は張りぼてや着ぐるみが多く、現代の技術で巨費を投じたものとは到底思えない。ショッカーの怪人と大差ない魔物が出てきたのでは、さすがに拍子抜けしてしまう。父である醍醐景光との戦いに於いても、肝心要のところでショッカーの怪人になってしまうので、観ていて脱力する。本来なら夜や夕闇の中で行われるべき戦いが、真っ昼間の健康的な明るさの下で行われるのもどうかと思う。各種の制約があるのかも知れないが、昼間の撮影でも夜っぽく見せることは出来るし、さして難しくはないだろう。


 CGの手抜きは、百鬼丸の両腕に仕込まれた刀についても言える。百鬼丸は肘から先が刀という設定だから、マトモに映像化しようとすれば、その全てがCG処理になる。CGの手間を減らすためか、ほとんどのシーンで百鬼丸は長い袖で腕を隠し、袖の中から直接長い刀が出ている。刀を腕の長さに限定すればアクションは非常に制約を受けてしまうから仕方のないことなのだが、膝まで届く長い腕の持ち主でもない限り、あんな長い刀はおかしいのだ。漫画であれば、戦う場面で刀の長さが都合よく長くなっていても気にはならないが、漫画と映画は違う。私は何も、魔物の出てくるダークファンタジーにリアリティを求めているわけではない。百鬼丸の体は、もとより欠落部分を呪術師が作った人工のパーツで置き換えたもの。説明さえすれば、基本的には何でもありなのだ。人工の手を外した時に、腕に仕込まれた刀が伸びる演出を序盤で見せていれば、「そういうものだ」と観客は納得できる。このあたりの見せ方は、映画化にあたってもっと工夫のしようがあったのではないかと思えるところだ。


 悪の巣窟として描かれる醍醐景光の城は、『コナン・ザ・グレート』や『鬼武者シリーズ』にでも出てきそうな造形だが、内部はあまりにも普通。魔物が跳梁跋扈する世界でありながら、世界観にもおどろどろしさがない。デジタルアクターも使っているとは思うが、せっかく甲冑具足を揃えて大人数のシーンを撮っているのだから、もっと合戦のシーンを増やすとか、せっかくの状況を生かす方法もあったと思う。『ゼイラム』シリーズの雨宮慶太あたりが監督していれば、もっといい映画になったのではないかと残念。

それでもボクはやってない

2007-01-20 | 映画の感想 さ行
◆満員電車に揺られて就職面接に向かう26才のフリーター、金子徹平(加瀬亮)は、駅のホームで少女に腕を捕まれる。「あなた、痴漢したでしょ」


 その一言を振り出しに、徹平の運命は本人を置き去りにしたまま転がり始める。あれよあれよという間に逮捕拘留、当番弁護士からはやってもいない痴漢の示談を勧められ、友人の斉藤達雄(山本耕史)と母の豊子(もたいまさこ)がツテを頼って紹介された弁護人の須藤莉子(瀬戸朝香)にも無実を信じてもらえないままに数ヶ月が過ぎ、ついに起訴されてしまう。徹平は家族・友人・弁護士、そして同じく痴漢冤罪事件で戦っている佐田満(光石研)の協力を得て、事件の再現ビデオを作り、目撃者を捜し、何とか事実を明らかにしようとする。被疑者から被告へと立場を変えた今、求められるのは「事実をありのままに話すこと」ではなく、「自分が無実だと立証してみせること」だった。日本の裁判の有罪決定率は99.9%。戦う相手は警察・検察だけではない。「有罪で当たり前」だと固く信じている裁判長も敵だった。


◆周防正行監督・脚本の、入念に作り込まれた11年ぶりの新作。痴漢冤罪事件に巻き込まれたフリーターの目を通して、日本の司法の信じられない様な実態を描いていく会心の一作。2時間23分という長尺、しかも、ともすれば説明ゼリフや長広舌に流れやすい裁判ものというジャンルでありながら、上手な構成で中だるみもなく観客を退屈させない。押しつけがましい説明ゼリフの固め撃ちではなく、初めて裁判に触れる当事者・関係者の当然の疑問に答える形で、自然に用語や規則、状況が理解できる。そして、取り上げられている題材が「痴漢」という特殊な犯罪であることが、観るものにリアリティを感じさせる。男性には『いつ犯人と間違われるかわからない』という恐怖を与える。これが映画の中のことだけではなく、日本の司法の現状をそのまま描いたものであることに寒気を感じる。また、ごく普通の生活、ごく普通の行動でも、その一部分だけを意図的に切り取ってみせれば、簡単に「普通じゃない人間」に仕立て上げることができるという点も怖い。


 この映画自体は決して堅苦しいものではなく、コミカルでユーモラスな部分、徹平の無罪を証明しようとみんなで力を合わせていく部分、司法の実態を解き明かしていく部分など、エンタテイメントとして十分に楽しめる。役所広司・鈴木蘭々・本田博太郎・益岡徹・田口浩正を始め、味のあるキャストが多いのも楽しい。難しいことを考えずに映画を楽しみ、観終わった後で感じたことがあれば、それを少し考えてみるといいんじゃないだろうか。


■ちょっと考えれば分かることだが、そもそも、法と善悪は全く無関係なものだ。善悪と無関係な法に照らし合わせて、適法か違法かを判断するのが裁判所の役割だ。当然、裁判で善悪の判断は行えない。裁判に善悪の判断を求めるというのは、実態とは大きくかけ離れた、妄信・幻想でしかない。たとえ裁判官がどう思いこんでいようとも、裁判は善悪には無関係なものだ。この当たり前の事実が、一日も早く一般認識になることを望みたい。でないと、法や制度の誤りはいつまでたっても正されることはない。


 ここから先は、映画の感想ではないし、女性が読んで不愉快になるかも知れないが.....。


 常々女の子の味方を標榜している私は、もちろん痴漢行為を卑劣な犯罪だと考えている。現行の、迷惑防止条例や強制猥褻の適用程度では、まだまだ手ぬるいと思う。ただし、本当に有罪だった場合の話だ。
 痴漢は日常的に頻発する犯罪でありながら検挙件数がとても低く、現行犯以外での立証が難しい。被害者本人が加害者を捕まえない限り、罰することが難しい犯罪だ。被害者が勇を鼓して犯人を捕まえても、罪は(それこそ法外に)軽い。刑罰は軽いが社会的な制裁は大きく、仮に冤罪であっても無実を証明する手段がほとんどない。映画の中でも語られるように、全ての男に動機があるとみなされる。男でありさえすれば、全員が潜在的な犯罪者と見なされるわけだ。それを逆手にとって、「ムシャクシャしたから」という理由で痴漢騒ぎをデッチあげた高校生もいた。そのケースでは、被告となった会社員の男性が一貫して無罪を主張し、裁判の場でようやく事実が明らかにされた。男性側は長期にわたる拘留によって職を失い、やってもいない罪で社会的な制裁を受けたが、虚偽の申し立てをした高校生は、未成年ということで罪に問われなかった。このケースでは運良く濡れ衣を晴らすことが出来たが、これは希な例だろう。現実には、ゆすりを目的にしたデッチアゲ事件も起きている。


 私は15才の時に、三週間だけ電車通学をしたことがある。このとき、おそおらく20代前半ぐらいの女性に痴漢と間違われたことがある。何かを言われたわけではないが、向かい合う形で斜め前にいた彼女にすごい顔で睨まれたのだ。15才と二ヶ月半だった私は、『このお姉さん怖い』と思って逃げ出したかったが、満員電車で身動きが取れなかった。各駅停車だったので睨まれていた時間はほんのわずかだが、女性にあんなふうに睨まれるのは恐ろしいものだ。自分が痴漢と勘違いされているのではないか、そう思ったのは、次の駅で女性が場所を移動した後だ。右手で金属の柱、左手で学生カバンを掴んでいたので、まさか痴漢と間違われるとは思わなかったが、私の左手がカバンを掴んでいることは、満員の車内では見えない。その女性が痴漢被害に遭っていたのだろうことは確かだと思う。そのこと自体はお気の毒だが、あいにく犯人は私じゃなかったのだ。以来、高校へは自転車で、大学へはバイクで通学し、予備校へ行く以外は極力電車に乗らなかった。社会人になってからは満員電車の洗礼を山ほど受けているが、どんな時でも痴漢と間違われないように気を遣っている。女性専用車両を設けることには、痴漢被害はもちろん、冤罪被害を減らすためにも大賛成だ。痴漢被害の膨大な数に比べれば、処罰される犯人の数はとても少ない。『女性に対する男の犯罪』であることから『痴漢は女性の敵』だと言う声もあるが、この映画を観て考えを改めてもらいたいと思う。痴漢は『マトモな男にとっても敵』なのだ。痴漢の被害者を減らすためにも、デッチあげや冤罪を減らすためにも、痴漢の刑罰をうんと重くして欲しいところだ。微罪ではマトモに捜査をしない警察も、重罪であれば、ある程度本腰を入れて扱ってくれる可能性が出てくるだろう。

これで良いのか

2007-01-14 | なんとなく
 グラビアの仕事から女優へとステップアップしてきた例は多い。グラビアの仕事は、言ってみれば夢を売る仕事。私自身が男だからかもしれないが、一定の品位を守っていれば、別に悪いものだとは思わない。綺麗な夢、かわいい夢、私だって好きだ。ただ、品位やモデルの年齢といったものに境界線を引くのは難しい。名の通ったアイドルや女優の写真集などを見ると、名前だけは有名なカメラマンが、ネガティブキャンペーンかと思うほど下品で汚い写真を腐るほど撮っている。服を着込んでいても下品なものは下品だし、すっぽんぽんでも美しい写真は美しい。要は、「このコをいちばん素敵に撮りたい」という気持ちと技術があるか無いかだろう。写真集の常連になってしまっている大御所のカメラマン達には、そんな気持ちは全くないし、技術も酷く、控えめに見てもカメラマン失格。それに比べれば、雑誌のグラビアを撮っているカメラマンの方が遙かに、桁違いに優れている。出版界の害毒でしかない大御所写真家達が早く引退(何なら絶命でも構わないが)して、有能なカメラマンがもっと活躍の場を広げられるようにと常々願っている。


 土曜の夜、kinki kidsの堂本光一が司会をしているトーク番組を途中から見た。適当にチャンネルを変えているときに流れていただけなので何という番組なのかは知らないが、なんだかもの凄い番組だった。泉明日香という女の子と彼女の母親が出ているのだが、この泉明日香はグラビアアイドルだという。Tバックの水着で過激な露出を売りにしていて、そのジャンルでの売り上げはトップだとか。確かにある程度綺麗な顔をしているが、昭和のアイドル安めぐみとか、ポカリスエットのCMで元気なかわいらしさを振りまいている綾瀬はるかなどに比べると、さして特別なものはない。どこにでもいる、ごく普通の女の子だ。彼女のセールスポイントを聞いて、私は飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになった。泉明日香は中学二年生なのだという。ネットで情報を拾ってみると、彼女が過激な露出を武器にデビューしたのは中学一年生の時のこと。写真も何枚か見たが、中学生が着るようなものではないし、まともな親なら絶対、娘にあんな格好はさせないだろう。女の子の写真集ではなく、性商品という意図がはっきり表れているように見えた。母親と一緒にTV出演というのが理解できないと思ったのだが、実は母親が自分でプロダクションを立ち上げて、中学生の娘の裸同然の写真や映像を売りさばいているのだということが分かった。恐ろしい親だ。


 他の出演者から、母親であり、プロダクションの社長でもある彼女に対して、「親としてそれで良いのか?」という質問が幾度も投げかけられていた。それに対する母親の答えは、「以前の所属プロダクションが勝手に娘のTバック写真を売り出したので、娘を守るために自分でプロダクションを立ち上げて、自分のプロダクションで娘のTバック写真を売ることにした」というものだ。言うまでもないが、娘を守ることになどなっていない。
 娘が性商品として金になることを知り、もっと儲かる方法を選んだのだろう。「低年齢の少女の裸」だから売れるのであって、一年ごとにその商品価値は落ちていく。今のうちに稼ごうと思って、批判されるのを承知の上で、親子でTV出演したのだろう。コストゼロの売名行為としては、見事に理にかなった戦略だ。調べてみてびっくりしたが、同じような過激な露出で性商品化されている中学生は多く、その低年齢化にはさらに拍車がかかり、小学生に形だけの水着を着せて商品にしている例も複数ある。どう控えめに考えても児童ポルノ扱いだと思うのだが、「本人と親の同意がある」場合、現行法では取り締まれないギリギリの線らしい。


 小学生や中学生が自分で「私の裸を買ってください」と売り込みに行くとは考えられないし、年齢を考えればプロダクションと直接契約も出来ない。小学生や中学生を性商品として金に換えているのは、直接契約が出来る実の親なのだ。親が自分で職業を持ち、自分の収入で生活できる場合は、娘に裸を売れと強制しなくても済む。だが、親がプロダクションを立ち上げて、娘が唯一の所属タレント、唯一の収入源となってしまっている場合、娘が裸を売らなければ生活が出来なくなってしまう。理屈の上ではプロダクションを辞めることが可能でも、小学生や中学生が親を捨てて自活することは出来ない。たとえ裸を売ることが嫌でも、その事情を考えれば「嫌」だとは言えないだろう。親の方は、金が欲しくて自分から子供の裸を売っているわけだから、そもそも「嫌」であるはずがない。つまり、「本人と親の同意がある」という状況は、実は「親だけの意向」と大差ないのではないか。確かに、泉明日香本人は「明日香の意志でやってます」と発言している。だが、よくよく聞いてみると、「Tバックを履いて下半身のアップを撮影されたい」と望んでいるわけではなく、「写真集やグラビアの仕事をきっかけにして、将来は女優になりたい」という考えでやっているということだった。親が望むように、進んで性商品になりたがっているわけではない。まぁ、露出狂じゃないんだから当然だ。


 この番組の出演者だった武田鉄矢が、「裸で売り出したら良い役は来ない。脱いだ服を着ていくのはすごく大変だ」と言っていた。全くその通りだと思う。「グラビアのかわいい子をCMやドラマで使おう」というのは自然な流れだと思うが、それで女優として生き残れる例は多くない。というより、相当少ないそうだ。「法律スレスレの性商品で売り出した女の子をCMやドラマで使おう」という発想は、たぶんあまり出て来ないだろう。イメージや好感度を重視するCMは論外だろうし、ドラマなどでも選択肢に組み入れてもらえるかどうか疑問だ。少なくとも、『三井のリハウス』で使ってもらえる可能性はゼロだ。女優を目指すという本人の言葉が事実だと仮定するなら、明らかに間違ったアプローチだろうと思う。


 ネット上で、"その筋"の人々の意見を拾ってみた。要するに、少女写真集が好きな人々だ。意外なことに、と言っては失礼なのかもしれないが、かなりモラル重視の発言が多いことに驚いた。"その筋"の人々にはいろいろな人間がいるだろうし、ブラインドが縦に降りた部屋に生涯住ませておいたほうが世のため人のためという輩も中にはいるだろう。だが、少女という美しいイメージが性商品として汚されることに危惧を抱く、普通の倫理観を持つ人間も多いようだ。「自分は"その筋"のヲタクだが、少女が好きなのであって、少女が不幸になることを望んでいるわけじゃない。小学生や中学生の女の子がこんな写真集を出すのは、汚して使い捨てにするみたいなものだ。過剰な露出はもっと大人になってからすべきだ」という趣旨の意見を多く目にした。同様に、金のために娘を商品にする親への批判も多く目にした。泉明日香については、「ライバル続出の状況で、彼女の商品価値はせいぜいあと二年。その後は18才まで何とか繋ぎ、その段階で全裸、あとはAV.....」という予想をして嘆いている声もあった。確かに、露出しかセールスポイントがなければ、あとは体を売っていくしか稼ぎようがないかもしれない。繰り返しになるが、泉明日香のように『親が娘を売って生活している』という状況では、やめることも、「エッチな水着は着ません」という宣言も出来ない。これってホントに合法か?
 法律と善悪は全く無関係だ。法に照らし合わせて分かるのは、それが合法であるか違法であるかだけで、善悪の判断基準にはならない。これが合法であるとしても、悪なんじゃないだろうか。少なくとも私には、これが善であるとは思えない。

ラッキーナンバー・スレヴン

2007-01-13 | 映画の感想 ら行
▼原題は"Lucky Number Slevin"。どこでどう間違ったのか、邦題は『ラッキーナンバー7』。主人公の名前であり、物語の重要なキーとなる"slevin"(スレヴン)に引っかけたこのタイトルは、映画の内容と密接な関わりがある。例によってバカ揃いの配給会社(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)が愚かな邦題をつけて、観客を無駄に不愉快にさせてくれている。原題のカタカナ表記である『ラッキーナンバー スレヴン』というタイトルでも観客は十分に理解できるはずだが、百歩譲って、観客が配給会社の連中と同じくらいバカだと仮定してみよう。この映画には数字の7にまつわるエピソードは一つもなく、邦題は映画の内容とはまったく無関係。観客を混乱させる以外の効果はゼロだ。もしどうしても『ラッキーナンバー スレヴン』というタイトルにしたくないのなら、映画の中で繰り返し出てくる「カンザスシティ・シャッフル」という言葉を邦題にすれば良かったのだ。それなら映画の中身と関わりがあるし、少なくとも、観客を混乱させる恐れはない。


◆不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、知り合いのニックのところへ転がり込むつもりでニューヨークに降り立った。ニックのアパートにたどり着く前にノックアウト強盗に遭い、鼻を折られた上に財布を取られ、踏んだり蹴ったりの状態。ようやくアパートにたどり着いて見れば、肝心のニックは留守だった。鍵が開いているのを良いことに勝手に上がり込み、シャワーを浴びてやっと人心地がついたところに、騒がしい隣人のリンゼイ(ルーシー・リュー)が砂糖を借りに乱入。騒々しくもほほえましい出会いで、楽しい一日が始まるかのように見えたスレヴンに、次々と訪れる乱暴な訪問者達。二つの組織に多額の借金をしていたニックと間違われ、両方の組織から返済を迫られる。財布と一緒にIDを盗まれていたスレヴンは人違いを証明できず、ニックの借金を返さなければ殺されるというピンチに追い込まれる。借金返済のかわりに持ちかけられた条件は、ある人物を殺すことだった。だが、この人違いにはもう一つの裏があった。対立する二つの組織に現れて、ある計画を持ちかける殺し屋、グッドキャット(ブルース・ウィリス)が影で糸を引いていた。


◆対立する二つの組織のボスにモーガン・フリーマンとベン・キングズレー。向かい合ったビルのペントハウスにそれぞれ居を構え、防弾ガラスと厳重な警護越しににらみ合うこの二人が、典型的な巻き込まれ型のミステリーとして始まる物語にそれなりの重みを加えている。道一本を隔てて二つの組織がにらみ合うという構図、それぞれの部下のやや間の抜けたコミカルな様子、わずか三日の間に急接近して愛し合うリンゼイとスレヴンといった設定は、やや漫画チックで詰め込みすぎな気もするが、なかなか面白かった。不運続きでニューヨークへ逃げ出してきただけのスレヴンが、人違いという理不尽な理由で殴られ、ギャングに殺すと脅されても飄々としていたり、「死ぬのは怖くない」と腹をくくってみせるあたり、観ていて「ヲイヲイ」と思ったりもするのだが、そのあたりはラストで納得できるようになっている。また、二つの組織を監視している警察の動きにも、きちんと意味が盛り込まれている。「あのときのセリフはこの伏線だったか」と納得できるので、些細な場面にも注意怠りなきよう。


 この映画はR-15指定だが、エロティックな描写ではなく、殺人シーンの描き方がその理由になっているようだ。同じR-15指定でも『シン・シティ』のような残酷さはないから、その部分は特に気にする必要はないと思う。ただ、映画の後半を彩るのはダークな雰囲気で、後味はちょっとハードボイルド。

暖かい冬

2007-01-08 | なんとなく
 東京では、2006年は最後まで冬らしい寒さにならなかった。年を越した1月になっても、まだ葉が残っている紫陽花がある。枯れ葉がついているのではなく、生きた葉がついているのだ。ここまで来ると、呆れるのを通り越して気味が悪い。このまま本当の冬を経験せずに春になってしまうのではないかと、脳天気な私ですら心配になる。
 これだけ暖かいと、日当たりのいい私の部屋では暖房はほとんど不要。とはいえ、風邪気味で熱っぽい時など、たまに欲しくなるのがカイロ。2004年以来、冬になると発熱量の大きいハクキンカイロを愛用しているが、一年ぶりに引っ張り出したカイロの具合がよくない。カイロの火口の触媒は使っているうちに劣化するし、実は結構扱いがデリケートだ。反応開始温度まで過熱するときに温度が高すぎるとダメになってしまう。私のカイロも触媒の能力がかなり落ちている。メーカーは火口を一年ごとに交換するようにと推奨しているが、そもそも売っている店がなく、購入できるのはハクキンカイロのオンラインショップぐらいだ。昨年の11月、このオンラインショップで火口を含む消耗品をごっそり注文してあったのだが、未だに届く様子がない。約三週間で届くことになっているのだが、すでに二ヶ月が過ぎ、ショップ側からは遅延の連絡もない。何度か問い合わせを送ったが、それにも返事がない。老舗とはいえ大きな会社ではないし、災害で工場設備にダメージを受けたりと、経営が傾く要素はいくらでもある。潰れないでくれるとありがたいのだが.....。
 これ以上待っていると春になってしまいそうなので、運良くオークションに出品されていたものを見つけて購入。ハクキンカイロのオンラインショップで買うより三割安く、送料は1/4、落札の二日後には商品が到着。私はハクキンカイロという会社が好きだし、これからも存続して欲しいと願っているが、ホームセンターや大型店舗でも商品が買えず、自社のオンラインショップは事実上破綻状態。これでは、会社として成り立たないだろう。どこか、まともに経営出来る資本に身売りをして、会社として立ち行くようになって欲しいと思う。ユニフレームとか、スノーピーク、キャプテンスタッグなど、アウトドアスポーツ用品を作っている会社に吸収してもらうのが理想だろう。そうなればカイロそのものの需要も増やせるだろうし、ユニークな新製品だって期待できると思う。市場の活性化にも繋がって、いいことずくめに思えるのだが.....。


 「おしゃれイズム」という番組に、香里奈や森泉と一緒に広末が出ていて、思わずじ~っと見てしまった。誰かのお嫁さんであり、一児の母でもあるわけだが、いつ見ても可愛らしいと思う。広末は、2月10日公開の映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』で久々のメインキャストとしてスクリーンに登場する。私自身は彼女の出ているドラマを通して見たことがないし、映画も『20世紀ノスタルジア』と『WASABI』しか見たことがないが、今回は劇場でチェックするつもり。今まで、ドラマなどでは現実味のない妙な役ばかり与えられてきたように思える彼女。今回の映画では、おそらく初めての、コメディエンヌとしての要素が要求される。これをきちんとこなせるようじゃないと、いくら広末でも先行きは厳しい。可愛いだけ、綺麗なだけで生き残れる世界ではないし、少女の役はもう出来ない。ここらでキッチリ[女優]してくれることを期待。


 先日、レタッチして素材を作るために、ブーツの写真を撮らせてもらった。壁際に立てかけるように置かれたブーツの右足に、ちょっと寄りかかるように左足が重なって置かれているのだが、これが絵になる綺麗な構図。このブーツを履いているのは、実はちっちゃくてかわいい女の子なのだが、ブーツだけ見ていると素敵な大人の女性を想像してしまう。そう、私の好きなAngela Lindvallが履いても不思議はないような、大人の雰囲気に見える。
 そういえば、Angelaの妹、同じくモデルのAuderyが、昨年夏に事故で亡くなっていたのだとか。運命とはいえ、23才で他界するのはあまりにも早い。よく考えたら、広末(80年7月生まれ)より三つも下だ。Angela Lindvallの誕生日は今月の14日。生まれは79年なので、広末より半年お姉さんということになる。スーパーモデルと比べるのはちょっと変かも知れないが、なんか、広末とはだいぶ雰囲気が違うような.....。

カレンダー

2007-01-03 | なんとなく
 私の部屋には、現在五つのカレンダーがある。93・94・95・96、そして2004年のものだ。93年のカレンダーは二枚、94年のカレンダーは三枚めくったところで、95年と96年と2004年のカレンダーは表紙のままだ。そう、私はカレンダーをほとんど見ない。部屋にいるときはほとんどPCが起動しているし、私のスケジュールはもの凄く変則的で、そもそも予定の立たないことの方が多い。部屋にカレンダーがあるのはポスター代わりで、日付を見る用途にはまず使わない。これが広末なら最後まで確実にめくっていくのだが、部屋に広末のポスターが貼ってあったら気が散ってしまう。(もうカレンダーは出してないし.....)ポスター・カレンダーの類は、気が散らないタイプでないと。まぁ、気にならないから見ない、見ないからめくることを忘れる、という悪循環で10年以上前のカレンダーがかかっていたりするわけだが。いくら何でもそろそろ片づけようと思い立ち、三年ぶりに新しいカレンダーを買うことを思いついたのが12月の末。


 さて、誰のカレンダーにしようかと、ネットでいろいろ物色。最初に思いついたのは釈由美子。ただ残念なことに、カレンダーを出していない。HEARTSDALESも出していないし、深田恭子のカレンダーは部屋にあると気が散りそうだ。旬な美人さんということで、水川あさみにしようか甲斐まり恵にしようかと悩んだあげく、お天気お姉さんの甲斐まり恵に決定。朝の番組で毎日見ているせいか、とても親近感がある。育ちの良さそうな、優しそうな美人さんで、柔らかくて綺麗な声をしている。意外なことに、熊本の高校を卒業後上京、舞台芸術学院ミュージカル部本科に進んだという経歴を持つ、歌って踊れる舞台女優でもある。柔らかな雰囲気からは想像しにくいが、かなりの頑張りやさんでないと出来ないことだ。届いたカレンダーを見てみたら、これがメチャクチャかわいくて、ほとんど暴力の域に達していた。大いに気が散りそうだ。ただ、誰が撮ったんだか知らないが、写真はヘタクソだ。これだけかわいい女の子がモデルさんなんだし、全部で八枚しかないんだから、せめてもうちょっと考えて撮ってもらいたかったところ。

 どうせだからと、小型のカレンダーも一緒に頼んだ。こちらはエビちゃんの週めくり。年齢を考えると自分でもどうかと思うが、まぁ、人様に迷惑をかけているわけではないのでいいだろう。エビちゃんの週めくりの方は、アップの写真は補正のしすぎでディテールが潰れてしまっているが、引きの写真はよく撮れている。おそらく撮り下ろしではなく、CanCanで使った写真がメインなのだろう。私は昔っからCanCanのモデルはあまり好きでなく、歴代モデルの中で美人だと思うのは伊東美咲と蛯原友里のふたりぐらいしかいない。山田某とか押切某に至っては、どこが綺麗なんだかサッパリ分からないほどだ。CanCanは、言わずもがな女の子の雑誌なので、女の子から支持されるモデルさんがいちばんなのだろう。女の子が考える美人というのは、私のイメージとはずいぶん違うものだ。って、よく考えたら当たり前か.....。「ところで、エビちゃんていくつ?」と思って、ちらりと調べてあらびっくり。23ぐらいかと思ったら、79年生まれで、甲斐まり恵よりも一つお姉さんである。宮崎県立佐土原高等学校産業デザイン科卒、九州産業大学芸術学部デザイン学科卒、高校時代はバスケ部キャプテン、特技は水泳・・・。すごく立派な経歴だ。こちらもかなりの頑張りやさんでないと出来ないことだ。かわいいだけの女の子じゃなかったんだなぁ。


 そんなこんなで、カレンダーの女の子たちに尊敬のまなざしを送りつつ、私の新しい年は進んでゆく。ここ数年続いていたややっこしい日々を思うと、ありがたいことに2007年は世にも平和な滑り出しだ。出来ればこの先も、誰のカレンダーを買うかで悩めるような、平和な日々であってほしいものだ。