◆手塚治虫の漫画、「どろろ」の映画化。有名な作品だと思うし、各部の設定は映画用に変えられているものの、物語の大筋は同じなので粗筋は省く。
◆監督は『黄泉がえり』の塩田明。総制作費は、邦画としては破格の20億円ともアナウンスされている。私は原作が好きで何度も読んでいるので、公開初日に観に行ったのだが、感想は微妙だ。正直、人に薦めることは出来ない。
出演者は、百鬼丸に妻夫木聡、どろろに柴咲コウ。権力を求めて我が子の体を魔物に与えた父の醍醐景光に中井貴一、母親役に原田美枝子、弟の多宝丸に瑛太。百鬼丸の育ての親、呪術師の寿海に原田芳雄、語り部役の琵琶法師に中村嘉葎雄。他に、麻生久美子、杉本哲太、土屋アンナなど。全員がうまいハマリ役だとは言わないが、それなりに人気・実力のあるキャストを揃えたと思う。大がかりなニュージーランドでのロケも、舞台設定を原作の室町時代ではなく、「いずことも知れぬ戦乱の時代」としたことで、違和感なく観られる。20億円という巨額の制作費を投入しただけあって、合戦のシーンでも人数をけちることなく撮影されている。だが、全てが中途半端だ。どんな映画にしたかったのか、それがよく分からない。一応はダークファンタジーとして作っているのだろうと思うが、それにしてはコミカルで、おどろおどろしさが無い。アクション映画を意図しているのなら、設定や舞台装置を生かしていない。スタジオ撮影の部分とロケの部分で露骨に雰囲気が違うのも違和感を覚える。全てが噛み合っていないような勿体なさ、もどかしさを感じる。
この映画の見せ場である、百鬼丸がその左腕に仕込まれた妖刀で魔物を倒し、奪われた体の部分を一つずつ取り返していくシーン。序盤の魔物は確かに良く出来たCGで、その動きと迫力に感心したが、そこから先は張りぼてや着ぐるみが多く、現代の技術で巨費を投じたものとは到底思えない。ショッカーの怪人と大差ない魔物が出てきたのでは、さすがに拍子抜けしてしまう。父である醍醐景光との戦いに於いても、肝心要のところでショッカーの怪人になってしまうので、観ていて脱力する。本来なら夜や夕闇の中で行われるべき戦いが、真っ昼間の健康的な明るさの下で行われるのもどうかと思う。各種の制約があるのかも知れないが、昼間の撮影でも夜っぽく見せることは出来るし、さして難しくはないだろう。
CGの手抜きは、百鬼丸の両腕に仕込まれた刀についても言える。百鬼丸は肘から先が刀という設定だから、マトモに映像化しようとすれば、その全てがCG処理になる。CGの手間を減らすためか、ほとんどのシーンで百鬼丸は長い袖で腕を隠し、袖の中から直接長い刀が出ている。刀を腕の長さに限定すればアクションは非常に制約を受けてしまうから仕方のないことなのだが、膝まで届く長い腕の持ち主でもない限り、あんな長い刀はおかしいのだ。漫画であれば、戦う場面で刀の長さが都合よく長くなっていても気にはならないが、漫画と映画は違う。私は何も、魔物の出てくるダークファンタジーにリアリティを求めているわけではない。百鬼丸の体は、もとより欠落部分を呪術師が作った人工のパーツで置き換えたもの。説明さえすれば、基本的には何でもありなのだ。人工の手を外した時に、腕に仕込まれた刀が伸びる演出を序盤で見せていれば、「そういうものだ」と観客は納得できる。このあたりの見せ方は、映画化にあたってもっと工夫のしようがあったのではないかと思えるところだ。
悪の巣窟として描かれる醍醐景光の城は、『コナン・ザ・グレート』や『鬼武者シリーズ』にでも出てきそうな造形だが、内部はあまりにも普通。魔物が跳梁跋扈する世界でありながら、世界観にもおどろどろしさがない。デジタルアクターも使っているとは思うが、せっかく甲冑具足を揃えて大人数のシーンを撮っているのだから、もっと合戦のシーンを増やすとか、せっかくの状況を生かす方法もあったと思う。『ゼイラム』シリーズの雨宮慶太あたりが監督していれば、もっといい映画になったのではないかと残念。
◆監督は『黄泉がえり』の塩田明。総制作費は、邦画としては破格の20億円ともアナウンスされている。私は原作が好きで何度も読んでいるので、公開初日に観に行ったのだが、感想は微妙だ。正直、人に薦めることは出来ない。
出演者は、百鬼丸に妻夫木聡、どろろに柴咲コウ。権力を求めて我が子の体を魔物に与えた父の醍醐景光に中井貴一、母親役に原田美枝子、弟の多宝丸に瑛太。百鬼丸の育ての親、呪術師の寿海に原田芳雄、語り部役の琵琶法師に中村嘉葎雄。他に、麻生久美子、杉本哲太、土屋アンナなど。全員がうまいハマリ役だとは言わないが、それなりに人気・実力のあるキャストを揃えたと思う。大がかりなニュージーランドでのロケも、舞台設定を原作の室町時代ではなく、「いずことも知れぬ戦乱の時代」としたことで、違和感なく観られる。20億円という巨額の制作費を投入しただけあって、合戦のシーンでも人数をけちることなく撮影されている。だが、全てが中途半端だ。どんな映画にしたかったのか、それがよく分からない。一応はダークファンタジーとして作っているのだろうと思うが、それにしてはコミカルで、おどろおどろしさが無い。アクション映画を意図しているのなら、設定や舞台装置を生かしていない。スタジオ撮影の部分とロケの部分で露骨に雰囲気が違うのも違和感を覚える。全てが噛み合っていないような勿体なさ、もどかしさを感じる。
この映画の見せ場である、百鬼丸がその左腕に仕込まれた妖刀で魔物を倒し、奪われた体の部分を一つずつ取り返していくシーン。序盤の魔物は確かに良く出来たCGで、その動きと迫力に感心したが、そこから先は張りぼてや着ぐるみが多く、現代の技術で巨費を投じたものとは到底思えない。ショッカーの怪人と大差ない魔物が出てきたのでは、さすがに拍子抜けしてしまう。父である醍醐景光との戦いに於いても、肝心要のところでショッカーの怪人になってしまうので、観ていて脱力する。本来なら夜や夕闇の中で行われるべき戦いが、真っ昼間の健康的な明るさの下で行われるのもどうかと思う。各種の制約があるのかも知れないが、昼間の撮影でも夜っぽく見せることは出来るし、さして難しくはないだろう。
CGの手抜きは、百鬼丸の両腕に仕込まれた刀についても言える。百鬼丸は肘から先が刀という設定だから、マトモに映像化しようとすれば、その全てがCG処理になる。CGの手間を減らすためか、ほとんどのシーンで百鬼丸は長い袖で腕を隠し、袖の中から直接長い刀が出ている。刀を腕の長さに限定すればアクションは非常に制約を受けてしまうから仕方のないことなのだが、膝まで届く長い腕の持ち主でもない限り、あんな長い刀はおかしいのだ。漫画であれば、戦う場面で刀の長さが都合よく長くなっていても気にはならないが、漫画と映画は違う。私は何も、魔物の出てくるダークファンタジーにリアリティを求めているわけではない。百鬼丸の体は、もとより欠落部分を呪術師が作った人工のパーツで置き換えたもの。説明さえすれば、基本的には何でもありなのだ。人工の手を外した時に、腕に仕込まれた刀が伸びる演出を序盤で見せていれば、「そういうものだ」と観客は納得できる。このあたりの見せ方は、映画化にあたってもっと工夫のしようがあったのではないかと思えるところだ。
悪の巣窟として描かれる醍醐景光の城は、『コナン・ザ・グレート』や『鬼武者シリーズ』にでも出てきそうな造形だが、内部はあまりにも普通。魔物が跳梁跋扈する世界でありながら、世界観にもおどろどろしさがない。デジタルアクターも使っているとは思うが、せっかく甲冑具足を揃えて大人数のシーンを撮っているのだから、もっと合戦のシーンを増やすとか、せっかくの状況を生かす方法もあったと思う。『ゼイラム』シリーズの雨宮慶太あたりが監督していれば、もっといい映画になったのではないかと残念。