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俳句自由詩協同企画評 -森川雅美「五つの文字の変容」のやぎもとの〈ののの〉現場リポート- 柳本々々

2015-07-13 13:11:37 | 日記
のの変容
野の乃ののの之のに野が乃ののの之のに野が乃をのの之のに


森川雅美さんの自由詩「五つの文字の変容」の〈現場〉におもむいてみたいとおもいます。
その前にラカンによる〈日本語読者〉のための『エクリ』序文のこんなことばから始めてみようとおもいます。

 本当に語る人間のためには、《音読み》は《訓読み》を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているペンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
……誤解を恐れないで言えば、日本語を話す人にとっては、嘘《を媒介として》、ということは、嘘つき《であるということなし》に、真実を語るということは日常茶飯の行ないなのです。
……したがって、私は彼らに、この序文を読んだらすぐに、私の本を閉じる気を起こさせるようにしたい!

(ジャック・ラカン「日本の読者に寄せて」『エクリⅠ』弘文堂、1972年、p.Ⅳ)


 ジャック・ラカンはかつて日本語を〈精神分析的〉であるといいました。日本人は〈焼きたてのゴーフル〉のような日本語を使うことでたえずじしんを精神分析している。だから俺の本は必要じゃない、と。このラカンが使ったおいしい比喩〈焼きたてのゴーフル〉という日本語の重層性はあるひとつのことを示唆しているとおもうんです。

 たとえば、なんでもいいんですが、「心」と打ち込んだ場合に、この「心」はつねに潜在的かつ多層的なレベルで「心/こころ/ココロ/しん/シン/KOKORO/試/新/…」などと葛藤しあっています。葛藤しあう位相を抑圧して、たったひとつの「心」を打ち込むわけです。ここには打ち捨てられてゆく〈外部〉があります。日本語を使うということは、たえず〈外部〉を抑圧し、忘却していくことなのです。大澤真幸さんがこんなことを述べられています。

 「漢字」が表現するような抽象的かつ普遍的な概念に妥当性を付与する超越的な審級は、日本語の言説空間の中で、どうしても、両義的な位置を得ることになる。日本語は、漢字を媒介にしながら、普遍的なものを受け入れてはいる。しかし、それは、日本語に対して外在的なものとしてのみ、日本語に受け入れられたのだ。言ってみれば、それは客人としては迎えられたが、いつまでたっても、身内としては認められなかったのである。
(大澤真幸「哲学と文学を横断すること」『思想のケミストリー』紀伊國屋書店、2005年、p.13)


 大澤さんが、「漢字」を使用するからこそ生じる「外在=客人」としての〈外部性〉を指摘しているように、実は〈日本語〉を使うということは、その一音一音が〈外部〉への〈抑圧〉の作業になっているんじゃないかということです。多様なありえた〈のののののののののの〉の選択肢のなかから、ただひとつの〈〉を選ぶということ。

 森川さんの自由詩「五つの文字の変容」のなかの「のの変容」においては、「」がさまざまなかたちでパラフレーズされていき、「」に潜在している〈「」たち〉がひきずりだされていきます。

 そこには「」や「」や「」がある。これらは実は「」を使うときにもつねに・すでに潜在的に「」のしたにいつでももぐっている〈〉のはずです(だから変換予測にはいつも出てくる)。

 ところが「の」を使うときはそれらを〈抑圧〉して使うわけです。ある意味で、「」を使うときにわたしたちは「」を喚起しつつも、即座にそれらを抑圧し、忘却し「」にたどりつく。

 この詩の詩的役割は、そうした「」の抑圧を解除しつつ、なんども「」の〈記憶(=隣接的換喩)〉が〈記録(=同一的隠喩)〉によって忘却されようとする〈現場〉を記述することにあるのではないかとおもうんです。

 「」と刻印したしゅんかん、「」が抑圧され、忘却されようとする。だからそれを〈変容〉という思考回路をとおして、「」や「」「」と表出し、もういちどひっぱりあげる。しかし「」や「」「」と刻印したしゅんかん、こんどはそれら以外の〈ノ〉が抑圧されるので、また「(たち)」をひっぱりあげる。

 これが〈〉の〈現場〉なのではないかとおもいます。

 そういった所作そのものを現場化する。だから、語り手は意味にかんしては不慣れでもあるのだと。ここから〈有意味〉的ななにかはたちあがってこない。なぜなら、それは〈〉が〈〉として明滅する現場だから。ただただ〈〉の記憶と忘却に奉仕し立ち会う〈ゲンバ〉だから。

 しかし〈現場〉はそれだけではありません。そもそもこの自由詩には、タイトルに「五つの文字の変容」があるように、この自由詩は「のの変容」だけでなく、「五つの文字」が「変容」しているのが特徴です。

 つまり、「」「」「」「」「」がそれぞれに段階をふんで、関係しあいながら、一方向的に、変容していくプロセスがあるのです。詩とは、プロセスなので、そのプロセスもまた、〈現場〉化されていきます。

 そこでさいごの「しの変容」をみてみましょう。

しの変容
師の死に誌を史から市へ志する視が紙と私まで刺で資する歯も


 「のの変容」とくらべてどう思われたでしょうか。ぐっと、意味性がでてきたと思われませんか。語り手はあきらかに〈意味生成〉のありかたにおいて〈変容〉していると、わたしはおもうのです。文字の変容をくりかえしくりかえししたプロセスのなかでこの詩の語り手はだんだんと〈日本語〉そのものに習熟していってる、と。

 つまり、「」がうまく使えなかったはずの語り手は「五つの文字の変容」というプロセスを経て日本語に〈習熟〉し、日本語が〈達者〉になり、意味生成への欲望をいだきはじめたのではないかとおもうのです。

 この詩の語り手は〈文字の変容〉というプロセスを通じて、「」のときにくらべて最終的に意味性の生まれる文を使えるようになっていると。

 〈文字の変容〉を繰り返すうちに、みずからの日本語に〈教育〉され、しだいに抑圧の所作に馴致し(あるいは忘却し)、〈達者〉になっていった。語り手は〈〉が葛藤しあっていたはずの〈現場〉そのものを抑圧し、次第に、わたしたちがふだん使っている有意味な日本語の文章にちかづいてきているのではないかと(つまり、完璧なる抑圧と忘却の現場に)。

 そういった語り手の変容する日本語的身体のプロセスが〈変容そのもの〉としてあらわれしだされているのがこの〈詩〉の〈詩性〉なのではないかとおもうのです。

 〈現場〉そのものが〈詩〉になっていたはずなのに、いつしか〈現場〉が抑圧/忘却され、その忘却される過程そのものが〈現場〉になるということ。それらのいっさいがっさいが〈詩〉なのだということ。

 それこそがこの詩の〈変容〉だったのではないかとおもうのです。

 語り手は、おびただしい〈〉の沃野からこの詩を始めました。そして、さいごの「しの変容」には多くの「」に交じって、たった一音の「」が入っていました。みずからの〈〉の始原を忘れてしまったかのように。それでもかろうじてみずからの〈〉の始原を思い出そうとするかのように。

 「日本語の話者は、普遍性を保証する超越的な審級を、完全には内面化しえなかったのだ」と大澤真幸は述べています。だとすると、この語り手も、超越的〈〉に出会えなかったのでしょうか。すべての〈〉を支え・保証してくれる、超越的審級としての〈〉に。

 それでも、この、最終的な、たった一音だけの〈〉のしたには、かつてあったはずの、そしてこれからありえるであろう、かこの、げんざいの、みらいの、まんかいの〈〉がふかくたかくうずもれているのです。

 以上、〈〉の現場から、やぎもとがお送りしました。の
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