詩客 協同企画

短歌俳句自由詩の協同の企画を掲載します。

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俳句自由詩協同企画評 「定型」とはますます分からなくなってくる 森川雅美

2015-07-12 23:12:11 | 日記
 まず最初にこの企画の原点に戻ってみよう。
俳人には書けない詩人の1行詩 俳人の定型意識を超越する句
というのがそれだ。
 かなり強引な企画である。詩人はまだいい。あくまで定型の意識をずれて逸脱していけば、何らかの形になるのだから。
 実際、萩原は定型から発しそこからずれていく過程と、その言葉の移動の後の作品を提示し、柴田は名詞の羅列など、なるべくそこにあるものとして言葉を置いている。私、森川はひらがなを多用し、品詞を混乱させることを意図した。たぶん、あくまで私の貧しい脳の範囲だが、いま詩人が考える、定型をずれていく言葉の動きの、典型的な例が出そろったように思える。
 しかし、俳人に課せられた条件はより厳しい。
定型意識を超越する句
というのである。「ずれる」「外れる」のではなく、「超越する」というのだ。さらに「定型」でなく「定型意識」とは。イメージが湧かない。
 とりあえず、個々の作品に向かい合ってみる。

「鬼」花尻万博に俳句の素人である私は躓く。確かに、今まで見たことのない、言葉の切り方の俳句ではある。着眼点はいいし、試みとしても面白い。が、「はたしてこれが俳句なのか」という疑問も起こってくる。確かに、高柳重信など多行俳句の作品は多くあり、現在も多行俳句に特化した「未定」という結社もある。しかし、それらにはいくら逸脱しようとも、ある種の短さがあり、また言葉と言葉、この場合は主に行と行の緊張がある。では「鬼」はどうか、作品の冒頭を引用する。

柊や 街
祀られ鬼
言の間あひ虎落笛こゑする
鬼と災ふ
出口 街の川
鬼の衣冷た


 これは何なのだろうか。少しきつい言い方だが、どこが途切れかもわからずだらだらと続き、しかも行間の緊張も弱い。俳人が見ればまた違うのだろうが、正直なところ「あくまで定型を外れた」としか私には読めない。方法的には自由詩の柴田の方法と共通する、言葉をそのまま置く仕方だが、行わけをしたことでかえって平板になってしまっている。

吾の手か手袋の中動き出す

旧都とうきょう今乱れて今雁

焚火の炎耳当ての中耳病みぬ


 などの行は確かに定型である。とすると他の行は詞書なのか。しかし、それにしては言葉の質の違いが見えてこない。
 では作品はどのような意図でこのような形をとったのか考えてみる。言葉の奥にあるまがまがしい律、そのようなものを浮かび上がらせようとしたのか。しかし、まがまがしい言葉がかえって上ずっている印象は免れない。言葉の奥底の意識まで届いていないのだ。自由詩における高貝弘也のような達成は感じられない。

 「うきはしをわたる風景」小津夜景はよりわかりやすい構造だ。自由詩のような行わけ、俳句、日記、また俳句と、明らかに定型を中心に作品は成り立っている。いわばその他の部分は詞書のように働いている。

あばらやがのつぺらばうと戯れてゐる

扉からくちびるまでの朧かな

日々といふかーさ・びあんか白い墓


 引用してみたが俳句もなかなかいい。しかも、行わけにも俳句的リズムが潜んでいるのも面白い。
 しかし、二つほど問題がある。
 まず一番の問題は最初の行わけの部分だ。あくまで「詩」といわずに「行わけ」といっているのは、詩にしては言葉の緊張感が足りないのだ。説明過剰で行間の飛躍も弱い。もっとも、このような詩は自由詩の同人誌にも溢れているので、詩といってもいいのだが、ここではあえて妥協せずに考えていく。そう考えていくと、これは今までの散文であった詞書を、行替えしただけではという、いじわるな見方にもなる。
 もう一つは、先月見事にひとつの例を柳本々々が示したように、物語の構造が出来過ぎていることだ。そのため言葉の動きより、物語の構造が目立ってしまう恨みある。
 興味深い内容を提示した作品だけに、その部分が残念といえる。

 「虎の贖罪」竹岡一郎はまさに直球勝負だ。
 あくまで作品を提示するだけで、はじめに読むと作品を並べただけに思える。作品は確かに読み応えのあるものだが、言葉を切断したり非定型と組み合わせたりなどの試みはされていない。
 しかし、よく読み込んでいくと、言葉の引力と斥力の微妙なずれと逸脱があることに気がつく。冒頭を引用する。

地平には血泥うづまき降誕前
迫る聖夜、弾頭に迫る使用期限
千年を火薬に烟る聖樹たち


 純粋に作品を読めばいいので、あまり説明はしたくないが、まず最初の3行(独立の作品ゆえそういっていいか分からないが)から見てみる。ことばの斥力は「地平には」と「血泥うづまき」の間にある。まず初めに言葉は反発しあう。しかし、「血泥」は「降誕」、次の行の「聖夜」とは親和している。さらに「千年」「聖樹」に繋がり、2行目の「弾薬」は「使用期限」「火薬」とつながっていく。このようにこの一連の作品は、様ざまな縁語の連鎖で成り立っている。しかも、それらは徐々にずれていき新しいイメージを喚起させる。並みではない知識と言葉の反射神経が、背景にはあるのだろう。さらに、「聖夜」と「弾頭」のような斥力もいたるところに仕掛けられ、作品により奥行きを与えている。
 とはいえ、作品を根底で支えているのは、一句一句の力である。特に気にいった数句を提示する。

竹馬は熾れる灰の国歩む

ふさふさの尾が火事跡の金庫から

電脳へ霊を移す 仰げば空爆

初恋や少年饐えて弾籠める

空母搦め、悲母たちの諦めの髪

灯台に醒めをる獏の舌純白


 「虎の贖罪」がはたして「定型意識を超越する句」であるかは分からない。しかし、三つの作品の中で何か新しものを生み出す可能性が、最も大きいのは確かだ。
 「定型」とはまことに奥深く、ますます良く分からないものである。
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1 コメント

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無題 (匿名)
2015-07-15 17:08:09
森川氏の後出しじゃんけん的な偉そうな物言いに辟易する。甚だしい勘違いだ。読んで気分が悪くなった。 

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