詩客 協同企画

短歌俳句自由詩の協同の企画を掲載します。

俳句自由詩協同企画評 野村喜和夫

2015-06-21 09:37:18 | 日記
 まず、三詩型交流についての私の基本的な考え方を伝えておきましょう。以前、どこかに以下のように書いたことがあります。
 「世界中どこでも、言語のあるところ詩がある。けれどもその詩がさらに短歌、俳句、現代詩と三つのジャンルに分かれているのは、おそらく日本だけの特殊事情であろう。それゆえ詩型の越境という問題も生じることになる。しかし、短歌や俳句を作る方に訊いてみたい。ついでに現代詩も書いてみようなどと思い立ったことがはたしてあるかどうか。岡井隆のような例外もあるが、おおむねは詩人つまり現代詩の書き手が、俳句や短歌への越境を果たそうとする。かつて大岡信は、近代詩のポジションを「蕩児の家系」にたとえたが、その伝でいけば、長い旅に疲れた「蕩児」が、ふっとなつかしさに駆られて故郷を訪れる、それが越境である。しかし、あたたかく迎えられるとはかぎらない。冷たくあしらわれて、ふたたび旅に出る詩人のほうが多いのではなかろうか。
 私自身も越境には悲観的だ。詩人が書く短歌や俳句は、所詮は現代詩の域を出ない。逆に、たとえば俳味なるものを知ってしまったら、もう現代詩は書けなくなるのではないか。とはいえ、短歌や俳句とちがって現代詩は、それ自体を同一的に規定しにくい。いいかえれば、外へと自らを開き、あるいは自らのうちに他なるものを穿つことでようやく成り立つ形式である。その意味では、考えるべきは越境より融合かもしれない。短歌や俳句の富をどんどん取り入れて、三つの詩型が渾然とひとつのテクストを織り成しているような詩、それならば私も夢見たい気がする。」
 というようなわけですから、私は、この俳句自由詩合同企画に寄せられた俳人の三作品──花尻万博「鬼」、小津夜景「うきはしをわたる風景」、竹岡一郎の「虎の贖罪」──にある種の感動を覚えました。越境よりも融合。その夢が、まがりなりにも実現しているではありませんか。だいたい、俳人というのは詩(=自由詩、現代詩)に無関心です。詩人たちのほうは私も含めて俳句にあれほどラブコールを送っているのに、俳人たちからはなしのつぶて、われわれが書く詩を読もうともしてくれません。まあ、趣味や遊びで俳句を作ることはできても、同じように趣味や遊びで詩を書くことはなかなかむずかしいでしょうから、俳人たちが詩に関心を寄せないのも、わからないではありません。でも、そうなると、歌人のほうが──さきほどの「岡井隆のような例外」のほかにも何人かいます──比較的詩に興味をもってくれているという事情が説明できなくなります。詩との非対称的な関係という面では、短歌も俳句もだいたい同じなわけですから。
 そんな状況でのこの企画ですから、作品を寄せてくれた三人には、まずもって感謝の意をあらわしておきたいと思う次第なのです。いろいろご苦労もあったことでしょう。だいいち、定型意識から基本切れている詩に、定型意識をどうやって持ち込むのか、それは晴れた日に傘をさして出かけるようなものでしょうから、あるいはその逆、無定型土砂降りのなかへ575定型というこざっぱりした恰好で飛び込んでいくみたいなものでしょうから。
 いちばんシンプルな持ち込みかたは、詩行のどこかにそのものずばりの俳句を挿入することでしょう。花尻作品がそれにあたります。行分け部分を五パートに分け、それぞれに、反歌みたいに俳句的一行を置くという構成になっています。ところが、行分け部分が、なにかおどろおどろしい民俗的霊異的な世界を喚起させて、およそ現代詩らしくありません。漢字も多すぎて、語彙も私には奇異なものばかりですが、そういう印象が強烈なので、かえって肝心の俳句部分が目立たなくなってしまっているようにみえます。つまり自由な現代詩になにか途方もない異物が闖入しているような感じで、それはそれで面白いのか、それとも異物は異物にすぎないなのか、わたしにはどうにも判断不能です。ごめんなさい。
 ふたつめの持ち込みかたは、自由詩部分も俳句的定型、つまり575の音数律ベースで押し通してしまうというもので、竹岡作品がそれにあたるでしょう。いわゆる連作俳句のような感じ。しかしそれよりもさらに詩行から詩行への連続性は増しているような気がします。それが、全体になにかしら叙事詩的雰囲気を漂わせ、普通の現代詩ではほとんど見たことがないような言語空間をつくりだしています。イナゴみたいに575音数律が襲来し、埋め尽くしている感じで、面白いと言えば面白い。叙事的記述内容と575音数律は合うのかもしれません。それにしても何が語られているのでしょう。中東あたりに取材した時間錯誤的な黙示録的光景とみていいのでしょうか。
 最後に小津作品は、このふたつの持ち込みかたの中間にあるような感じで、現代詩もやれば連作俳句的構成もやるという、欲張りな、でもそれほど不自然さを感じさせない幅が出ています。それは、和語主体ひらがな主体のやわらかな書法によるところ大でしょう。まず口語的な文体による自由詩形がきて、つぎに文語的で575ベース的な詩行がつづき、最後にまた自由詩形となりますが、まんなかの連作俳句的パートがやはりいちばん読ませます。典雅でなまめかしい。たとえば「はなびらに吹かれて貌となる日かな」「あけぼのに小鳩まばたく火星かな」──俳句としてはイマイチかもしれないのに、現代詩が定型意識に逆流してきている感じで、つまりポエジーとしては高められているのです。自由詩形の部分がちょっとふつうというか、印象が弱くなってしまっているのは、いた仕方のないところでしょうか。

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