詩客 協同企画

短歌俳句自由詩の協同の企画を掲載します。

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俳句自由詩協同企画評 時をかける〈俳句=詩〉-小津夜景「うきはしをわたる風景」を読む/渡る- 柳本々々

2015-06-27 12:40:42 | 日記
これからのひととき
景色の遠のくにしたがい、
私は記憶から忘却の方へと
静かに存在の項を移しつつ、
非人称の影となって
あなたの隣に横たわるだろう


 小津さんの俳句=詩「うきはしをわたる風景」(俳句自由詩合同企画/2015-02-28-16707.html )を読んでいくにあたって、まずはこの詩のいちばん最初の出だし「これからのひととき」に注意してみたいんです。この俳句=詩は〈時間〉の記述から始まっているのが特徴です。

これから」の「ひととき」というように〈時間〉への感応=気遣いから始まっている。

 そして実はこの〈時間への気遣い〉、詩のいちばん最後にもこんな句として出てくるんです。この詩の最後の一行です。

わたぼこりこんな時間に旅立つか

 最後にも「こんな時間」と〈時間〉の記述が出てきて、終わっています。この俳句=詩の最初の時間の記述と最後の時間の記述はひびきあっているようなんです。〈さいしょ〉と〈さいご〉のひとわたりの〈時間〉として。

 だから、この俳句=詩「うきはしをわたる」とはある意味において〈時間〉のはじまりから〈時間〉の終わりへの〈時間のうきはし〉を〈わたる〉俳句=詩になっているのです。〈時をかける俳句=詩〉ということです。

 この小津さんの「うきはしをわたる風景」は、「俳句・自由詩協同企画作品」として書かれたものです。では、〈俳句〉でもなく、〈詩〉でもなく、横断的に、〈俳句〉と〈詩〉が〈俳句=詩〉になるためには、なにが必要なのか。

 それは、〈長さ=時間〉だとおもうんです。俳句が、これだけの〈長さ〉と〈連なり〉をもち、あたかも〈うきはし〉のように読み手をわたらせようとするときに、そこで読み手は〈俳句〉から〈詩〉へ、〈詩〉から〈俳句〉への往還を生成していく。〈俳句=詩〉の〈=〉という〈架橋(うきはし)〉を読み手は、〈長さ〉と〈時間〉のなかでつくりあげて、わたりぬいていくのです。

 この「うきはしをわたる風景」は〈時間性〉を有することによって〈俳句=詩〉というあわいの領域を形成している。冒頭の「これからのひととき」という〈未来への時間〉から、最後の「こんな時間」という〈未来〉を〈現在〉に回収する〈気づき〉としての時間感覚として。

 ここまでは冒頭と終わりという〈枠組み〉で話をしてきました。しかし、この〈俳句=詩〉の内部にいざわけいり・渡ろうとすると、実は語り手が〈時間〉に対して〈積極的〉に〈鈍感〉なそぶりをみせていることに気がつきます。

某月某日。
庭に降りる。
風。
馬酔木が花弁をおののかせている。


 「某月某日」という記述が指し示すように、それは〈どの日〉でも〈どの時間〉でもあり得ない〈某月某日〉です。〈茫〉漠とした〈時間〉です。

 しかし、よくよく考えてみれば、「某月某日」というのは〈倒錯的〉な時間表記です。そこには「」といいながらも「月/日」と具体的に示そうとする〈意志=意思〉はあるのですから。

 だから、これはある意味で、語り手の〈時間〉に対する〈鈍感〉さではない。むしろ、まだ〈終わり〉までは読み手に「こんな時間」という〈時間への配慮〉をもたらさないための〈積極的忘却〉というべきかもしれないとも思うのです。語り手もこんなふうに語っています。

生くるべしすべからくあの忘却を

 この詩においては、〈時間〉は生成されつつも、その生成されつつある〈時間〉が積極的に〈忘れられている〉ようなのです。〈忘却〉が生きられている。

 〈積極的忘却〉としての生成は〈積極的曖昧さ〉としてこんなふうにも語り手の〈俳句〉をとおしてあらわれてきます。

てぶくろにおぼつかなくも棲む指か
あばらやがのつぺらぼうと戯れてゐる
空耳にそれはあらぬとつばくらめ 
かの日々に棲むばらいろの分身が
めびうすの廊下を走る我と影
飛ぶ手見ゆやぶられしわが天蓋に
おばけみな羅衣なびかせて手ぶらかな
まぼろしを包むぼろきれありにけり


 「のつぺらぼう」や「空耳」「分身」「」「おばけ」「まぼろし」。もちろん語り手の身体である「」や「」さえも「おぼつかな」かったり、「」んでいたりします。〈曖昧〉や〈ぼんやり〉に対してひじょうに〈積極的〉なんです。

 このように〈俳句〉の定型では〈ぼんやり〉に対する積極的態度をみせているのですが、ところが〈散文〉に移行したときに語り手のモードも変わります。

わたしは花陰にねそべった。
手にしているこの文章をふたたび読んだ。
本を閉じ、土を嗅ぎ、目の前の馬酔木に指を入れた。
花が、けざやかに裂けた。
ぞっと、そのあざやぎに震えた。
指を葬られて。


 語り手の積極性は俳句から散文への移行のなかで、或いは「某月某日」という時間の逆説的言辞をほどこしたあとで、「降りる」「ねそべった」「手にしている」「嗅ぎ」「指を入れた」「ふるえた」「指を葬られて」とそれまでの〈ぼんやり〉を振り切るかのように〈はっきりした身体〉で〈積極的同一性〉をつなぎとめていくのです。〈これがわたしのからだ〉だと。いま・ここに〈わたし〉はいるんだよ、というかんじで。

 この〈俳句=詩〉においては、散文=詩は〈散〉っていくエクリチュール(書く行為/書かれた文)であるにもかかわらず、身体をまとめあげていくエクリチュールになっています。

 一方で、俳句=定型はその〈定〉められた型という記述に反して、身体を〈ぼんやり〉のさなかに置くものとなっています。

 この〈俳句=詩〉にはそういった逆説的な〈うきはし〉がある(タイトルは「うきはしをわたる風景」ですから、いろんな〈風景〉がみえる。〈風景〉は角度によって無数に微分化されていく、示差的な視覚印象です)。

 わたしたちは、この「うきはしをわたる風景」を読むなかで、無数の〈うきはし〉をわたることに、なる。あるときは〈時間〉に手をひかれ、あるときは〈形式〉に手をひかれ、あるときは語り手の〈ぼんやり/はっきり〉に手をひかれて。その分節や境界をそれとなく架橋され、ふっと移行する。わたる。

 そうして、わたしたちが、時のうきはしを(手をひかれて)渡り終え、たどりつくのは、あらたなる〈時間〉の始まりです。

 わたしたちは〈俳句=詩〉というそのプロセスの〈おわり〉において、こんなにもはっきりとしたもうひとつの〈はじまり〉にたどりつくのです。わたぼこり、ふきあげながら。

わたぼこりこんな時間に旅立つか
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