詩客 協同企画

短歌俳句自由詩の協同の企画を掲載します。

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俳句自由詩協同企画評 刹那的な、あまりに刹那的な 田中庸介

2015-06-22 14:11:49 | 日記
 きょうはこの「詩客」誌が、満を持して俳人と詩人を対決させるコラボ企画を立ち上げたということなので、以下謹んでおのおのの感想を記すこととする。
 花尻万博さんの「」は、東京の鉄の街の都会的な印象と、季語の自然現象に託された伝統的な民俗観をモダンに取り合わせた作品。「虎落笛」「沈黙」「南北」「水鳴り」「神楽ふ」の五つにそれぞれ「こゑする」とルビが振られているところに、作者の洒脱な工夫のあとをとどめる。最終連に入り「鬼と今し帰り/熱無く蕊」というところは、ややダルく、白っ茶け、去勢されてしまった、おそい朝の描写である。作品はそして、

   花に鬼
  波音や夜は固まれり室(ひと)の花


という姿のよい一句で結ばれるが、鬼が今もって棲む街があるという民俗的な視点への観入をあえて突き放したところから見えてくる現代の街の「」とは、流れに押し流される人々の波から、ふと撥ねて白く固まった能登金剛の《浪の花》のような、そんな流亡の存在である。そんな存在への作者のロマンチックなあこがれが心地よい。
 詩の「悦び」がどういう時間経過を辿るのかということを考えてみたことがある。はじめはつまんないように感じるけれども、だんだん謎を解くにしたがって面白くなってくる詩。そして、読んだ瞬間の印象こそが勝負であり、読み返してもそれが変わらない詩。あるいは、読んだ瞬間も面白いけど、反芻するにしたがってまた違った悦びがこみあげてくる詩。――それでも、このうちのどれがよいのだ、ということは特にないと思う。それぞれのタイプの詩に、それぞれの良さがあり、また、強さがある。だがこの、読んだ瞬間の悦びの立ち上がり。それが早ければ早いほど、鮮烈で峻烈な、朝日のような清々しさが心に残る。そういうタイプの詩を、私は「ポップ詩」と定義した。この花尻さんの作品は、まさにポップ詩だ。現代詩と俳句の接点というところを前衛的につきつめた場合、結果としてそれはポップ詩に逢着する。ここでは俳人が詩人に負けじと連作化する場合、一行一行の長さはなぜか本来の俳句よりもさらに短くなり、よけいに刹那的な印象が強くなるということを大変面白く感じた。
 萩原健次郎さんの無題作品。本作は俳句と詩との境界を追うコンセプチュアルな作品をめざし、作者の俳論をパスティーシュするかのように、自己増殖する詩句が編まれている。萩原さんは言葉を処刑するがごときコピーライターの関係のお仕事に就かれてきた方だときいているが、言葉というものは、いや言葉でなくてもなんでもそうであるが、見つめ続けているとその意味性がゲシュタルト崩壊し、意味があるものがその意味の只中の「穴」にむけて落ち込んでいってしまう。「主体=人間の喩にとらわれることなく、それを暫時、消す」というのは、『綾の鼓』の能曲のごとく、鼓でありながら鳴らないことをもってその本意となすようなパラドキシカルな存在としての詩の極北、すなわち、人間が人間を書きながら、その人間を消したような作品への希求を述べたものであろう。だから、鼓膜が破れちゃったというような現実的な解は置いておくとして、最終行の「みみの あな の あな」という、すなわち「穴に穴があく」ということばの幻想がつとめて現代的に指し示すものには、現実の「裏の裏」、すなわち、初夏の蝉時雨のなかの一瞬の静寂の幻想、卑俗のきわみにおける聖なるもの、というような、朔太郎の「現在(ザイン)しないものへの欲情」という詩の原理の規定にも似た狂おしさがある。その狂おしさはやはり、経済原理と純粋表現との桎梏のはざまに置かれた、アイロニカルな作者の姿と重なるようにも読めてしまう……。だがそのような読みはほんとうのところ、作者の望むところとは違うのかもしれない。
 小津夜景氏の「うきはしをわたる風景」。「うきはし」はもちろん第一義的には「夢の浮橋」という意味であろうけれども、パートナーの車の助手席で軽くボディタッチなんかされながら夢と現実、あるいは彼岸と此岸のあわいをさまよう耽美的な情景描写の詩から、

  ……( une jetée flottante )

すなわち「浮き桟橋」というようなフランス語をはさみつつ、圧倒的な四句×八連の三十二句の俳句が続く。そして、馬酔木の花弁に指をいれるというような官能的な詩篇をはさみ、結句の

  わたぼこりこんな時間に旅立つか

へと到る意欲的な断章形式の大作である。この俳句三十三句を貫くものは、なんと「ばびぶべぼ」のバ行の音を必ず各句に含むという面白い仕掛けであり、身体の部位を指し示す「くちびる」「尾びれ」「あばら」などの詩句と響きあって、桟橋の浮きが想像の海水とふれあい、作中にある「万物のあぶく」がごぼこぼ音を出しているような、不思議な空気感をかもし出すことに成功している。
 森川雅美氏の「五つの文字の変容」は、日本語変換ソフトを活用したと思われる「」「」「」「」「」の変容。なかでも特に、

   ぎの変容
  ぎぎりの義理の儀の偽が議の戯画にぎぎぎぎぎと欺の技に擬す


というのが、なにやら社会性をはらんでいて面白かった。
 竹岡一郎氏の「虎の贖罪」は、砂漠の戦争を描く圧巻の百句連作である。

  此のいくさ砂漠をガラス化するだらう
  聴け、聖地へとぐろ巻く屠殺の歌 
  見よ、聖地も瀆神者も 等しく熔く
  差し伸べた手を斬られたが直ぐ生えた
  ふたたび虎は殖え 虎に乗る乙女ら


などの句が、特にSFチックで未来的で良かったと思う。
 柴田千晶さんの作品は以下の二句である。

   黒い十人の
  縊死圧死溺死感電死転落死毒死凍死情死笑死失血死
   家路
  十人の女の肢体に赤い轍の縄痕


 作者は都市の裏側にはびこる非業の死に題材をとった作品で有名だが、今回は黒と赤が印象的な嗜虐趣味の快楽殺人を、このような形で鮮烈にまとめたものだろう。

  *

 花尻さんと小津さんは2013年の第二回摂津幸彦賞の正賞と準賞を分け合った仲で、竹岡さんはその攝津幸彦の戦争詠の評論によって、2014年の第34回現代俳句評論賞を受けた現代俳句の俊英である。その彼らが現代詩を意識して作品を書いた場合に、詩人が食わず嫌いで触れようとしてこなかったテーマ・書法をこんなにもきちんとした雰囲気で書けるのかという驚きと、あるいは、現代詩の中堅どころである萩原・森川・柴田が俳句を意識して書くと、いつもの濃密すぎる文体から肩の力がぬけて、これほど洒脱な一筆書きみたいな作品も書けるのかという驚きの二つが交錯して、なかなか得がたい読書体験をもたらしてくれた。現代詩短歌俳句あるいは川柳と、これらは狭い日本詩歌の世界を共有しているように見えて、なかなかクロスオーバーしたオファーというのは成立しにくい。ことに、それぞれの分野でコアに認められている人ほど、他の分野には進出しにくいというタコツボ的な現象も見受けられる。だが本来はそれでは片手落ちなのであって、ゆとりをもった「遊び」を共有する体験が多ければ多いほど、自分の分野をより豊かにするものであるということが、この企画によって証明されたようなものである。これを契機に、遊び心をもった超分野的なオファーが、ネットだけでなく、それぞれの分野の総合誌相互の間でもさらに多く飛び交うように、心から期待したい。

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