詩客 協同企画

短歌俳句自由詩の協同の企画を掲載します。

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俳句自由詩協同企画評  おんなのひとと、鎮静剤 小津 夜景

2015-08-23 17:23:56 | 日記
 柴田千晶さんは実にさまざまな女の光景を描く方ですが、なかでも突出した印象を読者に与えるものに「廃墟としての女体」といったアプローチがあります。柴田作品では、女体がしばしば危機にさらされ、断片化され、破壊され、空虚化された状態で危うく突っ立っている。一体どういう了見でこんな姿になっているのかといえば、それは作中の女性たちが暗に「闘争」しているからなんですね。

 彼女たちの「闘争」の相手については、男性中心主義的な世界の枠組みといっても、率直に男といっても、あるいは自分が女であることといってもよさそうですが、とにかくセクシャリティをめぐる視座がその主要な対象物となっている。

 ここでまず押さえておきたいのは、この「セクシャリティをめぐる闘争の果てに廃墟性を帯びる女」なる図式が、ある種の古典的幻想に満ちたロマンティズムの典型である、ということです。私の思うところ、柴田作品に出てくる女性たちは、廃墟としての自己を積極的に志向しています。なぜなら美学的に言って廃墟とは「永遠性」を意味し、またその廃墟を体現した女体とは「崇高」ないし「威厳」ないし「女神」のメタファーへと成り上がるからです。つまり柴田作品の女性たちは「闘争」に勝利にしたゆるぎない証拠としての「廃墟の烙印」を渇望している、と考えられます。

 仮に物事の表層のみを見るならば、こうした構図をもつ柴田作品を、紋切型のロマン主義として批判することは可能でしょう。さらには精神分析の領域から、女性が自らを破壊することによって得るカタルシスは男性至上主義の肯定ならびにそれの補完にすぎない、といった声も聞こえてきそうです。とはいうものの作家の側からすれば、作品とは「ものの見せ方」のことである以上、或る構図をどんな風に変奏するかがむしろ問題なのは分かり切った話。もっと言えば、作家は或る目的のために、あえて通俗的図式を活用することすら珍しくない。 

     黒い十人の
  縊死圧死溺死感電死転落死毒死凍死情死笑死失血死
     家路
  十人の女の肢体に赤い轍の縄痕


 どうですか、この見せ方。市川崑です。大衆路線のブラック&クール。ギラギラしたサスペンス・タッチ。すごく小気味良い。これを見る限り、柴田さんがナイーヴに、ではなく、ノリノリで通俗を狙っているのは間違いありません。

 残念ながら手元に本がないので印象批評にとどまらざるを得ないのですが、今回このエッセイを書くために可能な限り柴田作品について調べたところ、もともと柴田さんにはドキュメントとドラマツルギーとを往復するといった独特の体質があるようです。例えばこのサイト内で連載していた「黒い十人の女」というエッセイ(同じ場所で同じ映画のタイトルを使うなんて、本当にこのテイストが好きなんですね)は、ごくふつうの俳人論と殺人事件ファイルとを交互に語る、といった全くもってふしぎな構成で書かれています。また数年前に出版された『生家へ』という本のつくりも、ドキュメント風の散文詩とドラマツルギーの滴るような俳句、といった二つの柱を往復する格好になっているようです。あるいは今回の作品にしても「黒い十人の」と「家路」の部分がドキュメントにあたり、「縊死圧死溺死感電死転落死毒死凍死情死笑死失血死」と「十人の女の肢体に赤い轍の縄痕」の部分がドラマツルギーにあたるといった見方が出来なくもない。いろんな形式を試す作家というのは世に溢れていますが、ひとつの作品の内部で形式を大きく移動せずにはいられない人というのはたいへん稀であり、これは柴田作品を考察する上でぜひ別稿を立てるべき重要な特徴だと考えられます。

 で、話は戻って今回の柴田さんの作品に対するわたしの感想ですが、市川崑のシネマを借景とした女性をめぐるロマン主義的把握と「縊死圧死溺死感電死転落死毒死凍死情死笑死失血死」の文字並びのド迫力とが、良質の娯楽性を生み出すことに成功している、と感じました。演出過剰な死因についても、舞台美術のビジュアルワークみたいでなかなかオツです。また廃墟と化した女たちの死体現場図が先に示されたあとに「十人の女の肢体に赤い轍の縄痕」という詩が置かれ、死んだはずの女たちがよみがえって家路を辿る、といった時間軸の処理も効いている。演劇的カタストロフの後の世界をなおも生き存えざるをえない女たちの姿は、どこかしら「生き残りとしての現存在」(デリダ)をたたえた哀しみに満ちています。そしてなにより、これらふたつの詩にみなぎる押し出しは、ステレオタイプの価値観を土台にした上でそれを逆手にとるかたちでなければ、確かに実現が難しいだろうと納得させられました。

 今「ステレオタイプ」と書いてふと思い出したのですが、わたしが「黒い十人の女」を知ったきっかけって、元ピチカート・ファイヴの小西康陽がプロデュースしたニュープリント版なんですよね。彼は一時期この系統のアート・ワークを猛烈にリヴァイヴァルさせていましたけど、今でもわたしの記憶に新鮮なのが夏木マリのシリーズ。『9月のマリー』というアルバムには彼女がサングラスをかけて煙草をふかしている写真が載っていて、それが格好良いのか悪いのかまるで分かんないくらい通俗的な決まり方で、思わず大笑いしてしまったことがあるのですが、そのアルバム収録曲の「鎮静剤」というのがこれまた凄い歌詞で、こんなの。

    鎮静剤   マリー・ローランサン(堀口大學訳)

  退屈な女よりもっと哀れなのは、悲しい女です。
  悲しい女よりもっと哀れなのは、不幸な女です。
  不幸な女よりもっと哀れなのは、病気の女です。
  病気の女よりもっと哀れなのは、捨てられた女です。
  捨てられた女よりもっと哀れなのは、よるべない女です。
  寄る辺ない女よりもっと哀れなのは、追われた女です。
  追われた女よりもっと哀れなのは、死んだ女です。
  死んだ女よりもっと哀れなのは、忘れられた女です。


 うーん。凄いですね。ここには惨死や廃墟以上にみじめでドラマティックな女の姿がとてもクールに書かれている。ローランサンって多芸だったんだなあとしみじみしつつ、そうだ、柴田さんは忘れられた女も書くのかな? もし書くとしたらどんな風に? この機会に作品集を読んでみようかな、と思ったりしました。
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