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デヴィッド・ギルモア『父と息子のフィルム・クラブ』

2012年08月26日 20時41分48秒 | 文学
デヴィッド・ギルモア『父と息子のフィルム・クラブ』(新潮社)を読んだ。
ノンフィクションということで売られているのだが、これがノンフィクション? という感じ。実話にしては現実離れしている、というわけではなくて、語り口がノンフィクションではないという気にさせる。実生活を題材にした小説といったほうが近いと思う。これがノンフィクションなら大江健三郎の『静かな生活』や『取り替え子』もノンフィクションということになってしまうのではないか。
取り上げられている映画で見たくなったのは『ウディ・アレンの重罪と軽罪』、『真昼の決闘』、『荒野の用心棒』、『アウト・オブ・サイト』、『好奇心』、『背徳の囁き』だった。しかし実際に見るのはひとつくらいかもしれない。
『トゥルー・ロマンス』が大好きで何度か見た記憶があるのだが、この本で結構大きく取り上げられていてうれしかった。
映画の評価そのものは、世間的な評価の高いものは高く、低いものは低く、といった感じで、世間が何と言おうがこれが好き、これが嫌い、みたいなものは感じられなかった。どうせなら、そういう、気骨のようなものを感じたい。
『スクリーム』の何作目かで、映画オタクの登場人物が史上最低の映画としてポール・バーホーベン監督の『ショーガール』を挙げていて、気になって見たのだが、「これのどこが史上最低なんだ? おもしろくはないが、もっとひどいアメリカ映画をいくらでも見たことあるぞ」と思った記憶がある。
今回、この小説でも『ショーガール』がひどいと言われていて思い出した。「史上最低の映画は?」と訊かれて「『ショーガール』!」と答えるのは社交辞令のようなものなのだろう。日本で「好きな映画は?」と訊かれて『七人の侍』と答えるようなものかもしれない。個人の好みを問われているわけではなく、一般常識を問われている。

期待したほど映画は見たくならなかったが、きちんとした映画評論は読んでみたくなった。
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フランクル『それでも人生にイエスと言う』、そして久しぶりに小説を読む

2012年08月25日 23時28分44秒 | 文学
フランクルの『夜と霧』を読んだので、ついでに同じ著者の『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)も読んでみた。
『夜と霧』を読めばこっちは読まなくてもよいかなと思った。タイトルほどは感動しない。

最近まともな小説を読んでいないので、ちょっと読みたくなり、トルストイの『復活』かドストエフスキーの『死の家の記録』か大岡昇平の『俘虜記』かで迷っていたのだが、どれも久しぶりに読むには重すぎるので、何か良い本はないかと思っていたら、たまたま覗いた新潮社のホームページでデヴィッド・ギルモアの『父と息子のフィルム・クラブ』という本を見つけ、読んでいる。
学校を辞めた息子と一緒に父親がただただ映画を見るという小説で、内容も文章も適度に軽くて申し分ない。
トルストイとか大岡昇平とかの名作だと読むのにそれなりにプレッシャーがかかるのだが、全く知らない作家の新刊ということで、「どうでもいい」気分で読める。たまにはこういうものを読まなくてはいけない。
父親が息子に薦める映画がたくさん出てきて、映画評論家でもある父親が講釈をするのだが、見た映画もあり見てない映画もあり、見たけど忘れた映画や見たかどうかを忘れた映画もある。
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』を僕は見たのだろうか。
一時期ウディ・アレンの映画を集中的に見ていた時期があるのだが、忘れてしまった。
最近のウディ・アレンの映画は、次の映画を作るために急いで片づけたような雰囲気があり、その次の映画も結局は似たような雰囲気だ、というのは確かにその通りだと思った。
ビートルズはある世代にとっては特別なものだが、それ以外の世代にとってはなんてことのない存在であるというのもその通りだろうなと思った。
ジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドやヒッチコックに関してもそう。ある世代にとって特別で、それについて勉強することや語ることが特別な意味を持っていた存在も、下の世代にはどうでもよいものとなってしまう。この小説で行われているのは、息子を教育することではなく、逆に父親がそのことを確認する作業なのではないかと思う。
今後も様々な映画について語られるだろうから楽しみだ。
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植森美緒『腹だけ痩せる技術』

2012年08月19日 01時17分59秒 | 文学
植森美緒『腹だけ痩せる技術』(メディアファクトリー新書)を読んだ。
義理の妹の結婚式がもうじきあり、礼服を着てみたらお腹が苦しいので、まさしく腹だけ痩せたいと思い購入する。
たいしたことは書いていなくて、姿勢をよくして腹を凹ませていたら筋肉がその形を維持する、というような内容だった。こういう本は英語の勉強法の本と同じで、誰でも簡単にタダでできる、というようふうに読者に思わせるものなんだな。
しばらくやってみる。
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フランクル『夜と霧 新版』

2012年08月17日 22時21分33秒 | 文学
NHKの番組「100分 de 名著」で取り上げられているのを見て、以前から読もうと思いつつ読んでいなかった、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)を読んだ。
収容所生活のような、未来の見えない生活では目的をもって生きることができない。そのような生活は非本来的なものだと思って心を閉ざして生きているような人間に成長は望めない。というようなことを語っているところがあり、とても興味深く読んだ。
フランクルの言う収容所生活はほんとうのナチスの強制収容所で、比喩ではないのだが、わたしたちの生活の比喩として読むことができた。いまの自分の生活は非本来的で暫定的なものだと思っていると、目の前の問題にきちんと向き合わず、成長しないというのはその通りだろうと思う。
暫定的な生活を送っていると(自分で思っていると)、未来が見えず目的が持てないというのもその通りだと思う。
未来が見えない、ということでいうと、会社生活を何年も続けていると明日も今日と同じ生活がずっと続き、来週も来年も同じ、という気持ちになることがわりとある。たぶん、子供が生まれたせいで、来年はこのくらいになっている、十年後は、というわりとわかりやすい未来が見えるようになり、以前ほどはそんなことを思わなくなっているように思う。
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テニスと育児

2012年08月16日 00時08分20秒 | 育児
お盆休みはレンタルビデオを見たり本を読んだりテニスをしたり育児をしたりして過ごす。
娘のお食い初め(だいたい生後百日にするものらしい)や珍しく出張があったりして二週間分テニススクールに行けていなかったので、火曜日と水曜日にテニスに行く。お盆休みなので出席者が少ない。いつも通っているクラスはまあまあ多い(15人くらい)のだが、今回は5、6人だった。いつもよりも多く練習できるし、いつもとは違うコーチなのでふだん言われないような観点での指摘を受ける。毎回同じコーチだと、コーチのほうも見慣れるというか、「何度言っても直らないし」みたいなこともあるのかもしれない。最近ちょっとテニス熱が冷め気味だったのだがちょうど良い刺激になる。
コーチだけではなく、一緒のクラスのひともいつもとは違うので新鮮だった。僕は、周りがうまいよりも、周りのなかで自分が少しだけうまいくらいのほうが気持ちよくレッスンが受けられる。こう書いてしまうと嫌なヤツのようだがほんとうだから仕方がない。

話は前後するが、出張から帰ってきた土曜日に娘が寝返りをうてるようになった。
一度できたら何度でもやりだす。
もうすぐ四ヶ月という時期なので少し早いほうかもしれない。少し早いくらいでうれしい気持ちになるので子育ては相当に気を付けないと平常心を保てない。一喜一憂してしまう。泣き止まないと感情をかき乱されてイライラするし、笑うとすごく可愛くてうれしい。

テニスと育児で腕が痛い。
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『ダークナイト』と『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

2012年08月13日 22時21分04秒 | 映画
お盆休みなので久しぶりにレンタルして映画を見る。『ダークナイト』と『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を借りた。
クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』は、いま『ダークナイトライジング』が公開中で、それについて調べていたら前作のほうが評判が良いので見てみることにした。さらに前作(つまり三部作の最初)の『バットマン ビギンズ』は見た記憶はあるのだが、どんな内容だったか思い出せないくらいつまらなかった記憶がある。
『ダークナイト』については、ヒーローは戦うけれども正義に則って戦わねばならず、たとえ悪人でも残酷に卑怯に殺してはならない、という暗黙のルールにとらわれたヒーローがそこを攻められたときにどのようにすればよいのかを考えさせる映画だった。”考えさせる映画”と書いたが、たぶんそのように見るように作られた映画なのだろうと思っただけで、私自身がつよく考えさせられたわけではない。
マイケル・サンデルの本を読んでも感じたが、アメリカというのは正義が何かということを、きちんと、論理的に考えずにはいられないのだなと思った。
クリストファー・ノーランの映画はいつも見る前はとても興味を惹かれるのだが、実際に見ると私には少しだけ長すぎて、少しだけ合わない。
スティーブン・ダルドリー監督『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は、泣ける映画という評判を聞いていたので用意していたのだが、泣かなかった。
用意していたせいかもしれない。泣きというのは不意に訪れないといけない。
9.11で父親を亡くした少年が、父親の部屋で見つけた鍵に合う鍵穴を、口のきけない老人といっしょに探すという物語で、村上春樹の『海辺のカフカ』ってこんな感じのお話じゃなかったかなと思いながら見ていた。展開も村上春樹的で、結末に大きな解決があるわけではなく、謎は単に物語を前に進めるための一応の建前でしかない。
こういうのはあんまり続くとわくわくもしなくなって、「どうせまたあれでしょ、はぐらかすんでしょ」という気持ちになってしまう。
しかしもしかすると、ほんとうに自分に主人公と同じような経験があって、ずっとわだかまりが残っている場合にこの映画を見ると、癒されるということがあるのかもしれない。
私はそんなふうな感じにはならなかった。
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マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

2012年08月11日 21時15分20秒 | 文学
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読んだ。
新聞のオリンピックの記事なんかに「おめでとう」とかそれに類する言葉が出ていると、なんだかこれはよくないのではないかと思うようなことがある。新聞のような場所に勝った負けたの試合の勝った方を、自分に近いからというだけの理由で嬉しがるというのはなんか良くないんじゃないかという気がする。
これはよく感じることで、外国で事故があったときに「なお日本人の犠牲者はいません」とか言うのを聞くと、同じようなことを感じる。いや、いまはあまりそんなことも感じなくなったので正確には、感じていたことがあった。
プロ野球が好きではないのも、テレビ中継でどちらかを贔屓にしていることが露骨に出ていることが多く、「解説者じゃなくて応援団じゃないか」と感じることがあったからかもしれない。
何が言いたいかというと、正義というのは中立を守ることであると、私が長く感じてきたということが言いたい。
『これからの「正義」の話をしよう』では、正義が中立を守ることであるということに疑問を呈していてとも興味深く読んだ。
宗教から距離を置いて考えることが正しいとされ、どんな考えも自由とされ、判断は中立的なほうが良いとされるが、果たしてそれで出てきた結論は正義なのだろうか、ということが語られる。
おもしろかった。
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サンデル再読

2012年08月02日 22時39分20秒 | 文学
マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の文庫を古本屋で買って読んでいるがとてもおもしろい。この本が話題になり始めたときに図書館で借りて読んだのだが難しくて、最後まで読み切ることができなかった。いまはとてもおもしろい。
なんでこんなにわかりやすいと思える本を、難しいと感じて読めなかったのか理解ができない。それくらいに政治に興味が持てなかったのだろう。
ちょうどつい最近読んだジョン・スチュアート・ミルの『自由論』が登場したのも興味が持てた理由の一つだろう。
いまではリバタリアニズムの話にも功利主義の話にも耳を傾けることができる。
これが正義だと考えるときに、人々がどれだけ自由であるかという観点から考えることをリバタリアニズム、人々に対する効果の総量ではどうするのが最も多いかと考えるのが功利主義だ。
いまはカントの考えについて語っている。
昔、サンデルの出ている講義番組に最初に興味を持ったのはカントについて話しているのを見たときだった。
しかしやはり、カントの言うことはちょっと難しい。今度、『道徳形而上学の基礎づけ』を読んでみようと思う。
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