図書館で借りた橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」を読み終わる。
読み終わってみれば至極まっとうな結論に着地していた。
固定的な「私たち」を作って同じ立場から同じ発言、同じ主張を繰り返すのではなく、一時的な瞬間的な「私たち」になり、ある場合にはこっちのひとと、ある場合にはあっちの他人と「私たち」を作る、そして「私」でもある、そのような行ったり来たりの柔軟さが必要なのではないか、というところに。
結論だけ書いてしまうと、「あっ、そう、それで?」ではあるが(橋本治的語法)、橋本治の面白さはうだうだだらだら行ったり来たりのらりくらりの論理だと思う。日本の歌謡界で喩えるとさだまさしの歌のようなものか。
疲れるが、また読んでみようかなという気にさせる。
(比喩でさだまさしの歌といったが、僕は彼が歌い始めると即座にチャンネルを変えるので彼の歌を最初から最後まできちんと聞いた記憶がない。なんとなく退屈そうで。だから残念ながらさだまさしの歌を「また聴いてみようかなという気」になったことは一度もない。橋本治と似ていると思ったのは単なるイメージです。実際はどうだか知りません。)
橋本治の本は、「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」と「窯変源氏物語」がうちにあるが、どっちも読んでいない。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」については、単行本が発売されたときに立ち読みし面白いと思い、文庫になるのを待って買ったが、読む前に三島由紀夫の「豊饒の海」を読んでおいたほうが良いのではないかと思ったのが間違いで、「豊饒の海」4冊を読んだときには身も心もぼろぼろになってしまい、三島なんか二度と読むものかと人生で幾度目かの決心をし、橋本治の本も読んでいない。
いい機会だから読んでみようか。
読み終わってみれば至極まっとうな結論に着地していた。
固定的な「私たち」を作って同じ立場から同じ発言、同じ主張を繰り返すのではなく、一時的な瞬間的な「私たち」になり、ある場合にはこっちのひとと、ある場合にはあっちの他人と「私たち」を作る、そして「私」でもある、そのような行ったり来たりの柔軟さが必要なのではないか、というところに。
結論だけ書いてしまうと、「あっ、そう、それで?」ではあるが(橋本治的語法)、橋本治の面白さはうだうだだらだら行ったり来たりのらりくらりの論理だと思う。日本の歌謡界で喩えるとさだまさしの歌のようなものか。
疲れるが、また読んでみようかなという気にさせる。
(比喩でさだまさしの歌といったが、僕は彼が歌い始めると即座にチャンネルを変えるので彼の歌を最初から最後まできちんと聞いた記憶がない。なんとなく退屈そうで。だから残念ながらさだまさしの歌を「また聴いてみようかなという気」になったことは一度もない。橋本治と似ていると思ったのは単なるイメージです。実際はどうだか知りません。)
橋本治の本は、「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」と「窯変源氏物語」がうちにあるが、どっちも読んでいない。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」については、単行本が発売されたときに立ち読みし面白いと思い、文庫になるのを待って買ったが、読む前に三島由紀夫の「豊饒の海」を読んでおいたほうが良いのではないかと思ったのが間違いで、「豊饒の海」4冊を読んだときには身も心もぼろぼろになってしまい、三島なんか二度と読むものかと人生で幾度目かの決心をし、橋本治の本も読んでいない。
いい機会だから読んでみようか。