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☆フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」読みました

2008年05月30日 01時27分46秒 | 文学
誰のせいでもなく、自分のせいなんだけど、いつの間にか読む本が難しい本”だけ”になっている。
今読んでいるのは、プルーストの「失われた時を求めて」と、フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」と、小林秀雄のベルクソン論「感想」だ。
うーん。どう考えてもやりすぎだ。
いちばん簡単な本がプルーストというのはおかしい。
どんどん純粋なものに向かって最終的に破滅に至る革命家集団のようになっている。これは、いかん。
だいたい三冊も同時に読むってのもどうかと思う。
ちょっと考えよう。
プルーストが終わるまでは長い小説を読まないようにしたいので、司馬遼太郎は読めないし、だったらプルーストだけ読んでればいいじゃんって話だけど、そうもいかない。
昔からなんだけど、長編小説を読んでいると、どうしても「終わり」を感じたくなってなんでもいいから短いものを読んで「ああ、読み終わった」って気分を味わいたくなる。
「箸休め」みたいなものだろうか。
つまり今は「箸休め」にさらに「箸休め」が必要になっている状態だ。

読んでいるのがもう一作品あった。
朝日新聞連載の、島田雅彦の「徒然王子」も読んでいるのでした。すっかり忘れていた。
これはどうなんだろう。全く面白さを感じられないんだけど。どのように読んだらいいのか皆目わからない。
新聞の連載小説を読むのは難しい。これまで読んで面白かったものがない。
長嶋有の、麻雀とか競馬とかサイコロとかを題材にしている、たまにざっと読むと全く不可解なもうひとつの小説のほうにいまでは惹かれてしまう。
次は幕末ものか高校野球ものかクラシック音楽ものをやってくれないかな。絶対読むぞ。

というわけでフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(中公文庫)を読み終えた。
これまでフッサールは「厳密な学としての哲学」と「デカルト的省察」を読んで、三冊目なのだが、どうもなんだかしっくりこない。
全部概説を読んでいるような気分で、なんかガツンとくるものがないんだな。
言っていることはわかるのだが(たぶん)、このわかるってのが微妙で、ベルクソンと竹田青嗣の言っていることから類推して、「ああたぶんこのことを言っているんだろう」と思っているわけです。
ぜんぜんフッサールに説得されてる気がしない。
ただ、「志向性」というのが、ああそうか、だった。何が「ああそうか」なんだかこれではわからないが、とにかく「ああそうか」と思いました。そのうち整理がつけば書きます。
やっぱりフッサールは「イデーン」なんだろうか。
馬鹿高い「イデーン」二冊も大学生の頃に買って家にあるので読んでみようか。今では絶対に買わないくらい高い本だ。
ヘーゲルの「精神現象学」も高いのに買ってる。

今後の計画。
ヘーゲル「精神現象学」(作品社)
フッサール「イデーン」(みすず書房)
ハイデガー「存在と時間」(ちくま学芸文庫)
以上、三冊を小林秀雄が終わった後に、のんびりと読む。

しかし、どっちにしてもやりすぎてるな。
お断りしておきますが、私はごくごく普通のサラリーマンです。誤解無きよう。
普通のサラリーマンがビートルズとかジミヘンとか好きでものすごく詳しかったり、ワイン通だったり、漫画好きだったり、プロ野球選手の名前をたくさん知っていたり、風俗に入れあげていたり、そういうものの一種としての読書とお考えください。
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