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「青い崖の記録」、来たわ。書き下し文でもムズすぎるっっっ(笑。

以前にも一度、挑戦したが
読みきれなかった、『碧眼録』。

今回は、荒川修作読解のためにも
クリアしなくちゃいかん。

が、日本語がムズすぎて
相手になれんw

そーゆーときは、あれよ、
英文よ。

英文の方がぜったい読みやすい。
ということで

「青い崖の記録」というやつを参照して
昨日、一を読んだ。

問いは、
「如何なるか是れ聖諦第一義」で

英訳は、
「What is the highest meaning of the holy truths?」

それに対する達磨和尚の答えは、
「廓然無聖(かくねんむしょう)」

英訳は
Empty, without holiness.と書いてあった。

わかりやすっっっっ。
で、

かっちょえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇw
惚れたっっっっっっ。

なんて爽やかで清々しい教えなんだ。
禅って、そんなことを言ってたのか!

からっぽだし、神々しさもない。
それ、

青空だよょょょょょょょ(笑。

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「よくわからん」→「やっぱり、信じられん」と変化しただけかも3(笑。

しかし、ひょっとして
マルコはずさんだったが、

マタイはもっとしっかりしているかも、と気をとりなおして
マタイを読んでみた。

後半はだいたい同じで、
描写はこちらの方が上手。

かなり、書けるやつらを導入して
チーム制で仕上げた作品である印象を受ける。

しかも「山上の垂訓」だけが別格。
長い、長すぎる。

これを口述筆記できたはずがない。
あるいは、マタイが自動書記で書き上げたかのどちらかになる。

幸いの最初に「心の貧しい人々は幸いである」とあるが
残りの九の人々は

「悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々」と一般的な美徳を備えている人々が
挙げられている。

わざわざイエスが語るべきこととも思えない。
ここは、最初の二つ、

「心の貧しい人々」と「悲しむ人々」だけに
リアリティを感じる。

倫理水準が異なる人々を列記しているところが
怪しい。

「心の貧しい人々は幸いである」を、そのままにとれば
これはそのまま悪人正機説である。

心の豊かな人間が救われるのは当然である、
では、心が貧しくて神の目から見て愛おしく思われる

心の貧しい人間が救われるのはなおさら当然であるということになる。
そうではなく、

もしこれを
「心が貧しい」を「世間をうまく泳いで渡っていこうと思わない、一本気な気質」ととれば

それもありよ、という肯定になり
そのために悲しむことになってもどんまいよ、

神の国ではいいことあるよと諭されることになる。
この二種類の人間についてだけ語ることが

イエスの言説のレベルを満たしているとオレは思う。
残りは、たぶん、指紋と手垢であるか、

チームマタイの勇み足であると思う。
この冗長なチームマタイのレベルは、そのあとの

腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、
施しの注意、祈りの注意、断食の注意などを勇み足していると思う。

修学旅行にいくときの先生の注意じゃないんだから、
そんなにこまごま言いますかね。

ま、結論としては、
これほどに不鮮明な書物に依拠して

信仰できる理性がわたしには理解できないといっておこう。
さらにはっきりといっておくけれども、

キリスト教は信じられないが
わたしは神は信じている。

わたしは、もしわたしが
遍在で、全能で、至福である神とすれば

わたしはどのようであるかを想定して
神の水準を設定しているので

それを満たしていないものは
地球人類による捏造であると判定している。

同様に、
わたしがもしイエス・キリストであるとするならば

わたしは、死者から復活して40日経って
また天国に戻るというような奇跡による教え方はしない。

復活なしで、神を理解してもらう方法をとるだろう。
ということで、

あー、
ひとつ決着ついたわ。

いいGWだった(笑。
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「よくわからん」→「やっぱり、信じられん」と変化しただけかも2(笑。

失敗したので、もう一回w
浄土真宗とキリスト教の話だったんだよ。

で、この両者は類似しているから
信者の獲得競争になるのだが

もうすでに浄土真宗があらかじめ
底辺からの救済派を占めているので

日本では
キリスト教ははやらんだろうというのを言いたかったのよ。

で、
それはそれとして

今回は、ノートをとりながら
「マルコ福音書」というのを読んでみた。

ふむふむ、
ふむふむ、とかいいながら

しかしね、
ユダの裏切りのところから、叙述に無理がある。

もう、お話になっとる。
ユダは祭司長のところへでかけていった。(誰から聞いたの?)

彼らはそれを聞いて喜び、(誰が見たの?)
金を与える約束をした。(え?ユダが言ったの? 自白?)

オレの読みによれば、
この叙述は主語がイエスと

イエスのそばにいる弟子であることを離れることはできないから
主語が、それ以外のものは描写できないはず。

その部分は、語り伝えたものたちの指紋か手垢ということになる。
では、続き。

ペトロは三回、拒絶した。
で、泣いた。(で、どうなったのよ、そこから先?

普通なら、ここでペドロは捕まえられて
イエスとともに尋問されるべきではないだろうか)

では、また続き。
イエスは大声で叫ばれた。

(えっ、そこ、大声?
ふだん、沈黙と瞑想のなかで神と交流しているはずの人が大声?)

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
(いまさら、ここで疑う?

この人よりもむしろ
殉教者たちのほうが神を深く信じて全託してるんじゃないの?)

イエスは大声を出して息を引き取られた。
(え? 直前まで、酸いぶどう酒を飲ませてみようと試されようとしていたのに?)

また、婦人たちも遠くから見守っていた。
(ここよ。こういう描写はだれが、書くことができるの? 物語作者でしょ)

というわけで、
やっと、「マルコの福音書」を読み終わったのだが

「よくわからん」が、
「わかってきたが、手垢にまみれて汚れているからよく読みとれん。

これじゃあ、信じろという方が無理。
親鸞の『歎異抄』のほうが、はるかに一貫しており、

信の無根拠性という一点しか危うげがない論理の方が
ずさんな描写で綴られた福音書よりはるかに頼りになる。

やっぱ、信じられん」に変化しただけかも(笑。






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「よくわからん」→「やっぱり、信じられん」と変化しただけかも1(笑。

70才を過ぎたら取り組むことになっていた
各宗教の書物を、前倒しで読むことになってしまったw

理由のないことではない。
村上春樹の批評を書き直していたら、

これは浄土教でしょ、ということになり
親鸞のものを読んでいたら

これはキリスト教でしょ、となってきた。
親鸞の「悪人」の意識をキリスト教の「原罪」の意識に、

親鸞の無根拠な「阿弥陀による救済」を
キリスト教のパウロによる体験という、他者からは無根拠な「よみがえるキリストによる救済」と

置き換えれば、
両者とも

最底辺からの信による救済となっていく。
しかし、それは

苦難に苛まれた無力な立場にいつづけることを
要請するのではないだろうか。

それが、無信心、
つまり

楽になってきたから
もうわざわざ神や仏に助けてもらわなくても

もう救われとるわ、という態度になるのではないだろうか。
ということで、楽しげに貨幣のプールで水泳を楽しみ

近親者を亡くしたときだけ泣くのである。
泣いてさっぱりしたら、また水泳、というわけで

自分の死についても
保険にはいっとるから、あとは葬式だけ頼むわーという

態度になっていくのだろう。
それはそれでいい気はする。

人類を存続させる機械の歯車としての人生というのも
それはそれでありだろう。

あ、なに書きたかったんだっけ。
これじゃないんだよな(笑。

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