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桶狭間5 決戦前日1 今川方

2012-11-07 | 創作
                              大高城想像図

 永禄三年(1560)五月十日から今川軍が出陣した。今川館の正門四脚門前の広場で治部大輔の謁見を受けて意気揚々西へと出発していった。
 先鋒軍大将は遠江井伊谷城主井伊直盛で、後に徳川家康の重臣「徳川四天王」の井伊直正は直盛の養子直親の子孫である。
 この先鋒軍の中に当時十九歳の松平元康後の徳川家康がいた。
 先鋒軍の主力は三河・西遠江の軍である。
 十二日には今川義元みずから譜代の家臣である駿河衆を率いて出達した。
 この時には甲斐の武田と相模の北条とは三国同盟を結んでいて、まさに後顧の憂いのない、安心しきった出陣であった。
 敵対する織田との兵力差は歴然としていて義元は何の不安もなく出陣したと思われる。
 十二日は藤枝に泊まり翌十三日には掛川城に泊まったと思われる。掛川城は今川軍の宿老の一人朝比奈氏の居城です。
 今川仮名目録によれば三浦・朝比奈が定めれば他の者は良きように相はかるべしとされ、両家老と言われる家柄です。
 この時の今川軍の数は小瀬圃庵の「圃庵信長記」では四万五千騎としているが一騎の騎馬武者に五・六人の歩卒がつくので、これでは総勢二十二万以上になり、これはとても信用できない。北条五代記や甲陽軍艦では二万余とされているところが妥当なところと考えます。また石高からの動員数にしても駿河十五万石・遠江二十五万石・三河二十九万石・尾張の三分の一、三十八万石程度で約百万石であり、一万石につき二百五十人であれば、約二万五千人となる。
 ただ二万五千の軍兵のうち侍は一割であると考えられるので、二万五千と言いながらも侍は二千五百程度です。ただしこれは信長軍も同じ事であります。
 五月十八日、義元は掛川城に入り軍議を開いている。
 義元は此度のいくさを今川家武威の発揚の場と考えていた。大原雪斎亡き後も今川家の武威が衰えず、尾張併呑の後は京へ上洛して将軍家の威光を増そうと考えていた。ただし、上洛と言っても今川義元の上洛は、後の信長のように大軍を持って途中の大名を潰して京に旗を揚げるようなものではなく、上杉謙信が行ったような千人ほどで京に上り将軍に拝謁するようなことを考えていたのである。
 信長には抵抗した六角も今川家の上洛には抵抗せずに逆に従っていたかも知れない。
 それは今川家が足利幕府内で代々の守護の家柄であり、名家であると言ったことも関係する。
 大高城への道を封鎖している鷲津・丸根の二砦を攻め落とし、鳴海城の付け城である善照寺・丹下砦攻略が今回の尾張侵攻の目的であり、この砦の攻防に織田信長が後ろ巻に出てきたところを包囲殲滅するのが最終目的であった。
 織田信長を補足できれば直ちに尾張は今川の領地になり、補足できなくとも織田軍を壊滅ないしは撃退できれば、織田信長の尾張での地位はじり貧となるであろう。
東尾張を完全に今川に握られてしまっては、織田信長に今川に対抗する力はなかった。それゆえ、なんとしても砦の後ろ巻に出て、今川軍を撃破して駿河勢を三河に追い返さなければならなかったのです。
 もし今川軍の有力な一隊を壊滅できれば、なおも今川義元が攻撃を継続できるかは疑問です。
後の絶対君主的な信長軍と比較すると、当時の今川軍はまだまだ豪族の集合体で、大きな被害を甘受できるような組織ではなかったのでした。
 掛川城の軍議で大高城に兵糧を運び入れた後、朝比奈泰朝が満潮時に二千の兵で鷲津砦を攻めることに決した。
 満潮時とは午前八時半頃と考えられ、当時は鳴海城近くまで入り江があって、満潮になると鷲津砦の敗残兵はは東海道しか逃げ道が無く、当然後詰めの兵も東海道でしか駆けつけられず、信長の行動が予測しやすい時間帯でした。
 義元本陣はこの鷲津砦へ救援のために東海道を東進してくる信長軍に対抗するため、漆山に本陣を置き迎撃体制を取るという事が軍議で決定された。
「岡部、くれぐれも信長が出てきたら素通りさせた後、東海道を封鎖しろ」
 鳴海城の岡部元信には信長東進の際は妨害せずに、通過後東海道を封鎖して信長を補足しようとしたのである。
 大高城への兵糧入れは敵の前を通って荷駄を運ばなければならなく、大変困難な作戦と考えられ、しかも華々しい合戦と異なり裏方的な仕事のため、誰もがいやがった仕事であった。これを今川軍の言わば下請け的な松平軍にさせることになった。
 当時十七歳の松平元康は治部大輔からの直接の指示に歓喜して受けたが、松平の宿老であった石川数正・酒井忠次は労多くて効少なき作戦を引き受けて落胆したと言う。
「爺、心配するな、大した作戦ではないゆえ心配するな」と言うと丸根砦近くの祐福寺村の長老を呼んで明日の夜明けと共に鷲津・丸根に二砦を攻めると注進させるようにした。
「敵に情報を教えるので、しかも攻めるのは丸根だけで鷲津は入っておりませぬが」
「そうじゃ、明朝攻め込まれると分かって前夜に小荷駄など襲うと思うか。兵を休めるためにも我等に仕掛けてはこないであろう。それに情報には多少の間違いはつきものよ」
 石川と酒井は顔を見合わすのみであった。
 松平元康は日の入りと共に行動したと思われる。翌日は鷲津攻めである。十七歳の元康には気が昂ぶる出来事であったろう。早めに兵糧を入れ終え、義元本陣近くで丸根攻めを見聞したかったのである。
 平岩七之助を先頭にして左右を杉浦・大久保の兵で固め、真ん中に小荷駄入れて粛々と夜道を進めた。
 丸根・鷲津からは兵は出てこないと考えたが、万一のことを考えた酒井・石川の意見を採用して、遊軍を丸根・鷲津の近隣の村に派遣して焼き討ちを行った。
 このため、鷲津・丸根の兵はこの焼き討ち部隊の攻撃にかり出されて兵糧部隊には全く敵の衝撃をうけなかった。
 ゆうゆうと大高城へ兵糧を搬入した元康は、十八日夜より掛川を出発して漆山に陣を進めた義元本陣に兵糧搬入成功の報告に出かけている。義元は夜を徹して、後詰めとして現れる信長軍を補足殲滅するために漆山で迎え撃つための準備をしていた。後の陣城といわれるような本格的な物でなくとも、やはり本陣である以上板塀や柵を作り、侵入を防ぐために先のとがった竹や枝のある木などを鹿の角の形に立て並べた鹿柴という垣根を作り並べていた。
 義元に兵糧搬入の報告を終えて諸将の脇に控えると、なにやら本陣内でもめていた。
 鷲津攻めの朝比奈泰朝より脇の丸根砦に対する対処を要請されていたのであった。
 当初は朝比奈軍独自で対応するはずであったが、実際に鷲津砦を調べると意外に頑強で丸根に兵力をさく余裕がないというのであった。
 本陣内でも今更という雰囲気で、義元眼前での信長との合戦を考えている武将に丸根への備えをしたがる者はいなかった。
「ならば、我等が丸根の備えを引き受けることとしましょう」
 松平元康の言葉に酒井・石川がびっくりした。
 大高城への兵糧入れで、本日の仕事は終えたものと考えていたのだった。
 「なにも」と言う酒井達を「備えるだけで攻めろと言われておらぬ。より近くで朝比奈殿のいくさぶり見せて頂けると思うと良いではないか」と言って取り合わぬ元康であった。

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