松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

02 仏教世界観 (Z=大仏 その2) 大仏建立は国家プロジェクト

2004年07月20日 | 02 仏教世界観
東大寺には今も、「四聖御影」(ししょうのみえ)という絵が残されています。たいへん有名な絵ですが、ここには大仏建立に携わった4人の中心メンバーが描かれているんですね。その4人とは誰でしょうか? 

それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。

行基は法相(ほっそう)宗の僧です。このXYZの「Y=薬師」のところでも話しましたが、この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのですね。
諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。

ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかりますね。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。

このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するんですね。

そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのですね。
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていくんですね。

同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っていますね。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけですね。

つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。

743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていたんですね。

さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。

では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか? 仏でしょうか? 仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。

初めて人名がキーワードとなる次回のXYZでは、いよいよ日本の進路を左右するダイナミックな政治の動向が明らかになります。登場するのは、二人の天皇と一人の特異な国家マネジャーです。ぜひお楽しみに。

【次回は7月22日(木)、03 「日本」の出現、X=天智天皇の1回目です】


02 仏教世界観 (Z=大仏 その1) 華厳モデルで国づくり

2004年07月15日 | 02 仏教世界観
さあ、古代の日本をつくった3つの仏像、最後のZは奈良・東大寺に鎮座する「大仏」です。いわゆる「奈良の大仏」は通称ですね。本当の名前は知っていますか?

盧舎那仏(るしゃなぶつ)、あるいは、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)といいます。盧舎那とは、サンスクリット語で、ヴィロチャナー、光を放つもの、という意味なんですね。

世界最大級の木造建築、東大寺大仏殿に収められている盧舎那仏は、高さが約15メートル強。この像全体が、3メートルもの高さがある巨大な蓮弁(れんべん=ハスの花びら)の上に座っているんですね。蓮弁に描かれた模様をよく見ると、これがまったく驚きなんです。

そこには、太陽系のような小宇宙が何億も集まり、銀河系のようなものができている様子がデザイン化され、線刻されています。これはまさしく現代にも通じる宇宙観ですよね。世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)さえ、はるか下界の小さな宇宙の一つに描かれている。
この図を「蓮華蔵世界海図」といい、あらわされている広大な大宇宙を三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)といいますが、この宇宙全体が、盧舎那仏の台座に描かれているんですね。

つまり、人間には計り知ることのできないほどの大いなる世界の上に座り、この世界を体現する仏、それが大仏、盧舎那仏なんですね。仏教がつくりあげた、おそらく最大、最高の仏像です。これが華厳(けごん)の仏なんです。

南都六宗のひとつで、最後にさかんになったのが華厳宗だ、と前回、タカハシ君がうんちくを語ってくれましたね。その中心経典は「華厳経」というたいへんに長いお経です。4世紀ごろからインドで編集されていたこの経典が中国に伝わり、740年ころ、新羅の僧、審祥(しんじょう)が日本に伝えて研究が始まりました。それまでの仏教を総合し、世界像を示しているこの華厳経に、盧舎那仏があらわされている。それは宇宙全体を総合する仏、宇宙的な生きた体として描かれているのですね。

さあ、奈良時代に入り、ひとつの国家として動きはじめた日本では、バラバラな豪族とか地域を、具体的な施策で統合して治める必要が出てきます。ではいったい、どのような方法がいいのでしょうか。
そこに出てきたのが、それぞれが似たようなものを照らし合い、お互いにお互いが映り合い、影響し合うネットワーク、そういう仕組みをつくるというアイデアでした。

つまり、ここで日本が取った政策とは、この盧舎那仏をいただいた華厳経の仕組みを使うことだったのです。華厳経には、それぞれの存在が一種の真珠のように磨かれた鏡の球で、盧舎那仏の光を受けて、お互いにお互いが映り合うような宇宙観が描かれています。日本という国をつくるために、この華厳世界をモデルにしたネットワークが、大仏のつくられた東大寺を中心に展開されていくんですね。

では、その方法は、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。次回には、そこをお話ししましょう。

【次回は7月20日(火)、02 仏教世界観、Z=大仏の2回目です】

02 仏教世界観 (Y=薬師 その2) 三蔵が伝えたインドの様式

2004年07月12日 | 02 仏教世界観
医療と福祉の象徴、薬師如来を本尊とした奈良の薬師寺。いわば「いやし」のセンターでした。その中に近年、7世紀の中国の高僧、玄奘(げんじょう)を祀る、玄奘三蔵院が造られました。

玄奘三蔵。孫悟空が活躍する『西遊記』の三蔵法師ですね。なぜ薬師寺に祀られているのでしょうか。薬師寺は、南都六宗(なんとりくしゅう)という、8世紀に奈良にあった6つの仏教学派の一つ、法相宗(ほっそうしゅう)の大本山です。法相宗の始まりとなったのがこの玄奘三蔵だったのですね。


629年、玄奘三蔵は、仏教の原典を求めてインドに向かいます。当時、中国は唐が建国したばかりで、国外への旅行を禁止していたため、国禁を犯す、まさに決死のインド行でした。16年かけた旅で膨大な経典を持ち帰った玄奘は、インドの思想や文化、西域の地理をはじめて中国に伝える一方、多くの経典を中国語に訳します。

その中に、これまで中国に伝わっていなかった「心とは何かを考える経典」があったんですね。それが「唯識(ゆいしき)」というものでした。ちょっとむずかしい言葉ですが、この仏教の心を考える学問、唯識論を中心に仏教をまとめたのが法相宗なんですね。
その玄奘三蔵のもとに、日本から渡って学んでいた道昭(どうしょう)という僧りょがいます。道昭は唯識論を日本に伝え、日本の法相宗のはじまりをつくりました。

前回触れたように、当時の日本は国際戦争や内戦で荒れ果てていました。薬師如来をシンボルとする僧りょたちは、こうした戦争や内乱による傷病者をいやし、荒れた国土の回復のために、社会的な活動を開始していた。これは日本のボランティア活動の始まりでもあるんですね。道昭はその中心人物の一人として復興につくしました。薬師寺が建立されたときも、その活動の一環として道昭らが支えたんです。薬師寺は天皇が建てた寺院ですが、一般の庶民のネットワークが支える寺でもあったわけですね。


こうして玄奘から伝わった仏教は、仏の姿をがらりと変えていきます。聖徳太子の時代、飛鳥の法隆寺の釈迦三尊像は、厚い服を着て、細い顔でアンズの種のような目、ギリシャ風のアルカイックスマイルをたたえた北魏(ほくぎ)様式です。

しかし、薬師寺金堂に鎮座する薬師如来像の様子はだいぶ違います。インド風に肩をむき出しにした、納衣(のうえ)という薄い衣をまとい、ふくよかな丸い顔をしている。玄奘が伝えたインド・グプタ朝の新しい様式なんですね。

さらに、薬師如来の台座には、中国の文様のほか、ギリシアの香りを伝える葡萄のデザインや、ペルシアに起源をもつ宝石をかたどった装飾がちりばめられている。インド人の姿もある。つまり、インド文化をはじめユーラシア大陸全域の文化が、日本に入ってきたことがわかるんですね。


現在の法相宗のもう一つの大本山が、奈良の興福寺です。この興福寺にある三面六臂(ろっぴ=3つの顔に6本のひじ)の阿修羅(あしゅら)像や、鳥の頭をした迦楼羅(かるら)像は、大変有名で、みんな一度は目にしたことがあるはずですね。

でも、これらの像は、もともと仏教の仏ではないのです。実は、仏教が成立する前からあるインドのヒンドゥー教の神々なんですね。インドではこれらの神々が仏に帰依し、仏法を守護する神となったとして、人々に信仰されるようになったのです。

7世紀半ばの白鳳時代から8世紀の天平時代にかけての日本には、インド、中国、アジアの各地域からやってきた神々への信仰と、お釈迦様、すなわちブッダからはじまった仏教の仏たちが、一緒になってやってきていた。当時は全体としてそれが仏教となっていたのですね。


もう一つ、大事なことがあります。興福寺は、奈良時代から平安時代を通して大きな勢力を持った藤原氏の氏寺(うじでら)なんですね。氏寺ってなんでしょうか? 氏族の長が建立し、一族の繁栄を祈願する寺院のことなんです。

つまり、有力な氏族たちは、先端的な技術や思想を持つ仏教を自分たちで導入しようとしていたのですね。つまり、仏教といえども一族ごとに少しずつ違っていたのです。しかも当時の中国は唐帝国になっていましたが、唐にもいろいろな宗派ができていた。どうも統一感がない。いったい日本はどのようにしたら、この仏教によって、国を現実的につくれるのでしょうか。


聖徳太子の理想だけではなくて、もっと救済力を持って、社会の矛盾を乗り越えるための仏教。また、氏族ごとのばらばらな信仰ではなく、全体がまとまるための仏教。そういう仏教をもとにした国をつくるために出てきたのが、ご存じ、奈良の大仏なんですね。

さあ、大仏はいったい何を象徴したのでしょうか。次回をおたのしみに。

【次回は7月15日(木)、02 仏教世界観、Z=大仏の1回目です】

02 仏教世界観 (Y=薬師 その1) 薬師如来は医療・福祉政策

2004年07月07日 | 02 仏教世界観
聖徳太子が信仰したのは「考える仏」、弥勒菩薩でしたね。これに対して2番目の「Y」の仏像は「薬師」、つまり薬師如来です。薬師如来とは、いったいどんな仏像でしょうか。左手に薬壷(やっこ、といいます)をもっている姿が特徴ですね。

薬師如来は、古代インドのサンスクリット語ではバイシャジュヤグル、医師の中の医師という意味です。薬師如来はかつて12の誓願(せいがん=ほとけの願いです)をたて、その実現のために活動し、薬師浄瑠璃浄土という浄土を築いたとされています。その誓願とは、生きとし生けるものの心と身体の病をなくすという願いでした。

古代の人々にとって、病気は人間の力では直せない、どうしようもないものでした。ときには天然痘などの伝染病がまん延し、多くの人々がなすすべもなく次々に倒れる時代だったのです。そこに、薬師如来が大きな力を持つものとして伝わります。仏像とともに『薬師功徳経』などの経典も入ってくる。これらの経典を唱えると、薬師が救いにきてくれるとされたんですね。

薬師信仰が盛んになるのは7世紀末以降。とくに天皇や貴族は、病気になると薬師に祈願するのが通例になっていました。
しかし、薬師如来が広まったということは、ただ経典を唱えるということだけではないんです。その経典に描かれた薬師の願いを受けつぎ、それを実現するために活動しようとする僧りょたちの集団が出現した、ということが大事なんですね。

時代は飛鳥から藤原京、そして8世紀の平城京の奈良時代に移っていきます。この間、仏教は興隆の一途をたどります。
このあとのXYZでまた話すので、今は省略しますが、7世紀はじめに中国に唐帝国が成立したあと、倭国は、百済、高句麗、新羅、唐が入り交じって戦うという国際戦争に巻き込まれていきます。国交の深かった百済も滅亡する。倭国国内も大きな内乱を迎えます。それらがようやくおさまった8世紀、唐との国交が回復すると、唐の先進の文化情報とともに多くの医薬品も入ってきました。

平和な時代を迎えて、国を治めるには福祉政策が必要となっていたのですね。
そこで国家による医療活動や薬の配布などが始まります。その中心になったのが、奈良にある薬師寺でした。本尊は薬師三尊、裳階(もこし)がついて六重に見える美しい三重塔はみんな知っていますよね。天武天皇が皇后の病気が直るようにと願って創建した寺です。最初は藤原京に建てられましたが、平城京への遷都とともに、現在の地に移されました。

この仏像のXYZの最初でもお話ししましたが、仏教寺院は祈りの場でもあり、また、大陸伝来のさまざまな知識を伝える研究開発センターのような場でもあったのですね。先端の知識を持ち、薬師の請願を実現するためのプロジェクトを推進したのは、こうした仏教の僧りょたちでした。
薬師寺の完成後2年して、日本の各国から病気の流行が伝えられれば、薬を馬で送るというシステムが動き始めます。毎年のように、都から各地に薬、医者が送られるようになった。薬師如来はその象徴として全国に広まっていきます。

ちなみに、このころの寺は今とは違い、豪族たちが自分の費用で造ったもの以外は、ほとんどが官寺(かんじ)です。国の費用で建てられ、維持される、国立寺院なんです。まさに仏教は国家プロジェクトとなっていったんですね。

【次回は7月12日(月)、02 仏教世界観、Y=薬師の2回目です】

02 仏教世界観 (X=弥勒 その2) 「日いずる処の天子」に込めた想い

2004年07月05日 | 02 仏教世界観
さあ、聖徳太子の理想の国づくりは、どんなものだったのでしょうか。まず、604年の「十七条憲法」。知っていますね、17条からなる日本で最初の成文法です。
ちょっと見てみましょう。

「一に曰く、和を以て貴しとなし、忤(さか)うること無きを宗(むね)とせよ。…
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬まへ。三宝とは仏法僧なり。…
三に曰く、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。…」

どうでしょうか。憲法といっても、現在の国の根本的な法律を定める憲法とは、だいぶ違いますね。天皇を中心とした国の秩序をつくるために、豪族間の争いをやめ、それぞれがまもるべき心得を説いています。

もう一つ、太子の行った政策の柱が「冠位十二階」の制定です。大和朝廷は、豪族の血縁によって朝廷の位を与える氏姓制度をとっていました。つまり世襲制度ですね。太子はまずそこを変えた。
冠位十二階とは、儒教からきた徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳のように、大小をつけて十二の位をつくり、それを冠の色で区別したものなんですね。この位を能力や功績に応じて与えた。いわば世襲政治から能力主義への移行です。政治を行うのに必要な有能な人材を広く集めようというわけですね。

この「十七条憲法」と「冠位十二階」が聖徳太子の二本の政策の柱とされる。これによってそれまでは豪族、首長がそれぞれバラバラにつくっていたルールを、統一された共通のルールやシステムとして、組み立てようとしたのです。

もうひとつ、理想主義を貫こうとする太子の眼は国外にも向けられます。これまでの倭国の外交は、中国の王朝に貢ぎ物をして認めてもらう、いわゆる「朝貢外交」でした。これでは中国の臣下の立場です。使者を送った卑弥呼や、タカハシ君の話にもあった(前々回)倭の五王がいろいろな位をもらったという例もそうですね。太子は数世紀続いていたこの関係を変えて、中国と対等な関係をのぞんだんですね。

607年に聖徳太子は、中国を統一した隋(ずい)へ小野妹子(おののいもこ)を派遣します。このとき太子が隋の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てた国書の書き出しが有名な、

「日いずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」。

これを読んだ煬帝が激怒したといいますが、対等につき合いたいという太子の思いが込められているんですね。

法隆寺、広隆寺、中宮寺、橘寺など、聖徳太子によってつくられた寺はたくさんあります。難波(現在の大阪市天王寺区)に壮大な伽藍をほこる四天王寺もその1つです。今は海がありませんが、難波の地はかつて、入り江に面した高台でした。
この寺は外国の使節をもてなす迎賓館でもあった。中国や朝鮮から訪れた人々に、中国に負けない独立国家を強くアピールするため、この壮大な規模の寺を建設したわけです。

さあ、仏教を国造りの中心におき、中国と対等な関係を結ぼうとした聖徳太子。こうして理想の国をつくろうとしたのですが、残念ながら、太子の生きている間には、つくれませんでした。

しかし、太子の「篤く三宝を敬え」の三宝、すなわち「仏」、「法」、「僧」というものが、国をつくる人々の理想をささえるという意識は、このあとの日本に伝えられていきます。

太子が最後に残した言葉、「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」。ただ仏しかない、あとは世間は空しい、という意味ですね。太子にとって仏教とは、目の前にある世間、実際の世界に生かすことだけが、すべてではなかった。その気持ちは、実は理想的な仏の世界に向いていたのです。

太子が帰依した弥勒菩薩、考える仏ですね。太子の求めたのは、考えた先、イデア、理想を求めた先の心の世界でもあった。しかし、現実の日本はそれとはまた別のかたちで、仏教を国家に取り入れていくことになります。では、次回からの仏像では、そこもお話ししましょう。

【次回は7月7日(水)、02 仏教世界観、Y=薬師の1回目です】