東大寺には今も、「四聖御影」(ししょうのみえ)という絵が残されています。たいへん有名な絵ですが、ここには大仏建立に携わった4人の中心メンバーが描かれているんですね。その4人とは誰でしょうか?
それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。
行基は法相(ほっそう)宗の僧です。このXYZの「Y=薬師」のところでも話しましたが、この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのですね。
諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。
ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかりますね。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。
このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するんですね。
そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのですね。
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていくんですね。
同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っていますね。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけですね。
つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。
743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていたんですね。
さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。
では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか? 仏でしょうか? 仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。
初めて人名がキーワードとなる次回のXYZでは、いよいよ日本の進路を左右するダイナミックな政治の動向が明らかになります。登場するのは、二人の天皇と一人の特異な国家マネジャーです。ぜひお楽しみに。
【次回は7月22日(木)、03 「日本」の出現、X=天智天皇の1回目です】
それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。
行基は法相(ほっそう)宗の僧です。このXYZの「Y=薬師」のところでも話しましたが、この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのですね。
諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。
ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかりますね。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。
このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するんですね。
そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのですね。
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていくんですね。
同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っていますね。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけですね。
つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。
743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていたんですね。
さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。
では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか? 仏でしょうか? 仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。
初めて人名がキーワードとなる次回のXYZでは、いよいよ日本の進路を左右するダイナミックな政治の動向が明らかになります。登場するのは、二人の天皇と一人の特異な国家マネジャーです。ぜひお楽しみに。
【次回は7月22日(木)、03 「日本」の出現、X=天智天皇の1回目です】