松岡正剛のにっぽんXYZ

セイゴオ先生の「にっぽんXYZ」教室と同時進行。濃~い日本史話が満載!

06 生と死の平安京(Z=東国と西海 その2) 強者となった東の源氏と西の平氏

2004年10月19日 | 06 生と死の平安京
平安中期に、平将門による関東独立という壮大なプランが描かれるほど、武士団の力が地方で伸長していたんですね。将門の後も、都から遠く離れた東国は独立心を無くすわけではなかった。関東の盟主を目指して、桓武平氏の流れを汲む平氏一族の主導権争いが将門の後に繰り広げられていたわけです。

そこでトップを取り、関東制覇を狙ったのが平忠常(たいらのただつね)でした。将門の乱から90年後の1028年、忠常は安房(千葉県)で国守を襲い、国府を占拠します。平忠常の乱ですね。追討しようとする朝廷との戦いは3年あまり続き、将門の乱を超えた大規模な乱となった。これを収めたのが、名将とうたわれた源頼信(みなもとのよりのぶ)でした。

頼信は、清和天皇の子孫である清和源氏の一族なんです。つまり、このときに関東の支配権が源氏に移ったわけですね。源氏の進出により、桓武平氏の主力は東国から拠点を移していきます。それが頼信とともに武名をはせていた平維衡(たいらのこれひら)の一族でした。行った先はどこでしょうか? 今の三重県の伊勢・伊賀です。維衡は伊勢国司となり、その子孫は伊勢を拠点とした貿易で財力を築き上げ、強大な伊勢平氏となっていくんです。

清和源氏は摂津(兵庫)、河内、大和、美濃、尾張を拠点として勢力を広げ、桓武平氏と並ぶ有力武家となります。その源氏の勢力が平氏と東と西を入れ替えた、ということですね。

こうしてパワーの担い手がハッキリとしてきた中、801年の坂上田村麻呂の遠征以来、落ち着きを見せていた東北の地で独立の動きが起こります。1051年、陸奥の豪族で、俘囚をまとめて勢力を蓄えた阿部氏が、独立を目指して反乱ののろしを上げたんです。12年の間、断続的に続くこの乱が「前九年の役」ですね。しかし、東北は馬や鉄の産地であり、さらに金を埋蔵するという資源大国でもあった。ここでさらなる力を求めて源氏が動きます。

鎮守府将軍として多賀城に赴任していた源頼義は、1062年、出羽の俘囚のリーダーである清原武則の助けを借りて反乱を収めることに成功します。このとき初めて戦に参加した源頼義の子が、弱冠19歳の源義家(みなもとのよしいえ)です。号の八幡太郎から八幡太郎義家と呼ばれた。百発百中の弓の腕前で恐れられ、その名前は全国に広まります。

21年後の1083年に、今度は奥州を治めていた清原氏一族に後継者をめぐる争いがおこる。このとき陸奥守として登場したのが名将八幡太郎義家でした。義家は一族の中から藤原清衡(きよひら)を支援し、苦しい戦いを経て乱を平定します。これが「後三年の役」ですね。

ところが義家の奮闘にもかかわらず、源氏の奥州への勢力拡大を怖れた都の白河上皇は、この戦いを義家の私的な戦いとして、まったく恩賞を与えなかった。さらに、この地の支配権を藤原清衡にゆだねるんですね。

軍団を構成する武士たちにとっては、戦を命を懸けて戦い抜き、恩賞をもらうことは、何よりの目的であり、必要なことでした。朝廷は源氏に強烈なけん制の一手を打ったわけです。ところが、奥州から凱旋した義家は、私財を投じて配下の武士に恩賞を与えたんですね。これで朝廷のねらいとは逆に武士の主従の固い絆が結ばれた。

こうして八幡太郎義家の人気はますます高まり、配下だけではなく、全国の武士からも荘園の寄進が相次ぎます。義家の子孫はその荘園を治めるために全国に散らばっていったんです。

時は12世紀、平安も末期に入っています。この日本列島にはこうして源氏、平氏、朝廷とさまざまな動きが右往左往していったんですね。

八幡太郎義家は、石清水八幡宮で元服したので、その名が付きました。義家は八幡大菩薩を旗印にしていたんです。これは仏教とちょっと違います。こういった新しい神を持ち出して新しい時代をつくろうとしたわけですね。その時代、一人の青年が野望をもって虎視眈々と待っていた。それは誰でしょうか? そう、伊勢平氏に生まれ、初めて武家政権をつくることになる平清盛がその人です。

さあ、平安王朝の特徴を「王朝・密教・荘園」「万葉集・古今和歌集・源氏物語」「みやび・浄土・東国と西海」というXYZで見てきました。どうでしたか? 女性たちが目立っていましたね。でも、末法とか浄土思想が出てくると、そのあとはどうやら新しい男性たちが登場してきた。こうして平安時代、暮れなずんでいきます。

夕暮れのことを黄昏(たそがれ)といいますね。それは誰そ彼(たそがれ)なんですね。夕やみの中で「あれはいったい誰だろう? 高貴な人なんだろうか、いや、あやしい人なのかなあ」と思う気持ちを、たそがれと言うんです。

平安時代はこうして夕暮れに終わろうとしていますが、次の時代はいったい誰が彼、「たそがれ」だったのでしょうか? さあ、いよいよ次回からは、日本のトップをめぐる「武者(むさ)の世」へ、激動の中世の始まりです。

【次回は10月23日(土)、07 院政と源平、X=法皇の1回目です】
 

06 生と死の平安京(Z=東国と西海 その1) 東西同時着火した承平・天慶の乱

2004年10月16日 | 06 生と死の平安京
以前、03「日本の出現」の藤原仲麻呂のところでもお話ししたように、日本は一つの中心からなっているわけじゃないですね。東と西、北と南で文化や社会が大きく変わっていました。とくに東日本と西日本では、現在でも大きな違いがあります。

たとえばお正月に食べるお雑煮のお餅。東はのし餅で角切りですが、西は丸餅でお餅屋さんが持ってくる。ほかにも東のそばに、西のうどんなど、いろいろ違いがあります。この時代、とくに東の馬を中心とした人々の動きと、西の船を中心にした人々の動きが、大きく日本列島を揺さぶるんですね。

まずは荒ぶる力にあふれた東国の様子から見ると、関東は広大な平野に恵まれて、開拓して荘園を開く土地が豊富に残っていたんですね。10世紀初頭には、東北征伐で得た俘囚(ふしゅう)を労働力として荘園を拡大した土着の豪族が、騎馬軍団をつくりあげたんです。馬の機動力を背景に運送なども扱っていた彼らは、土地などをめぐって他のグループと力で争い、「■(にんべんに就)馬(しゅうば)之党」と呼ばれて恐れられたんですね。

889年、その荒れた東国を桓武天皇の子孫、平高望(たいらのたかもち)が平定に乗り出します。騎馬集団を統制することに成功した高望は、そのまま関東に落ち着いたんですね。高望を発祥とする一族は、その後、桓武平氏(かんむへいし)と呼ばれるようになります。この平氏の一族が関東に勢力を貯えていく。やがて彼らは荘園を自衛するためにあるグループを形成していくんです。トップが武力を背景に威厳を示し、武者、あるいは「兵(つわもの)」と呼ばれるその集団が、「武士団」なんですね。

貴族の中からこうして武士団という存在が出てきた。力の変化が起こってきたんです。なぜそうなったのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには荘園が変化してきて、地方の土地に合った新しいキャラクターが登場してきたということがあります。

また、薬師と阿弥陀に願っていたように、貴族たちは死ぬことを怖れていましたね。武士団というのはそうはいかない。死を恐れない人々という存在は、まったく新しい時代のヒーローだったのかもしれません。935年から940年、まったく同じ時期に東と西に、一人ずつ、代表的な兵(つわもの)が登場します。東の平将門(たいらのまさかど)、西の藤原純友(ふじわらのすみとも)です。世にいう承平・天慶(しょうへいてんぎょう)の乱ですね。

西では、大陸の動向がきっかけでした。中国で3世紀近く支配した唐王朝が907年に滅亡するんですね。そのあとは五代十国の動乱時代に入ります。朝鮮半島でも7世紀に半島を統一した新羅が衰退し、かわって高麗が興った時期です。この大陸の動乱に連動して、玄界灘、瀬戸内を中心とした西海には、武器、食料などの密貿易によって経済力をつけた海のつわものがあふれ、海賊となって横行するようになったんですね。

紀貫之が935年に書いた『土佐日記』には、任地土佐から京に戻る途中の海路で海賊の襲撃を心配する気持ちが記されていますが、国家官僚でさえ怯える姿には、まさにこの時代が映し出されているんです。

強まる海賊の脅威に対して、朝廷は愛媛県伊予の官人だった藤原純友に討伐を命じます。ところがこの純友こそ海賊の首領だったんですね。反乱した純友の軍勢は、瀬戸内海を勢力下におき、九州大宰府まで焼き払ってしまうほどでした。941年に藤原忠文が征西大将軍に任命され、純友を討つことで、この西海の争乱はようやくおさまったんですね。

一方、関東では平高望の孫、平将門が叔父の良兼との領地相続争いを発端として乱を起こします。939年に常陸(ひたち=茨城県)の国府を焼き払った将門は、王朝への反逆者のレッテルを貼られますが、次々と対抗する相手を下して関東を勢力下に収めることに成功するんですね。

その後、将門は、受領を追放し、自らを「新皇(しんのう)」と名乗ります。また、弟や同盟者を国司に任命した。つまり関東に新しく国を興そうとしたわけです。周囲の人望も厚く、戦の実力も兼ね備えていた将門の勢力は、こうして日本に新しい国家を生む勢いだったのですが、この後すぐに起こった平貞盛軍との戦いで、流れ矢があたり、将門はあえなく戦死してしまうんですね。新皇と名乗って数ヶ月後、940年のことでした。

西と東、同時期に起こった兵乱は、貴族を震撼させたんです。この同期性はパワーが新たに起こっていることの象徴でした。平将門は敗北しましたが、その行動は『将門記』などの伝承物語を生み、神田明神など将門を祀る神社が、関東にはいまでもたくさんあります。つまり、関東独立、国を自分でつくろうというまったく新しい力を示した将門は、時代の転換点をつくったまさにヒーローでもあったのですね。

天神となった菅原道真もそうでしたが、負けた人々でも、長く語り継がれていることに、時代の共感と影響の大きさを見ることができる。勝者だけでなく、敗者の残した意味を考えることも、歴史の流れを読み解く大切な視点なんですね。

【次回は10月19日(火)、06 生と死の平安京、Z=東国と西海の2回目です】 

06 生と死の平安京(Y=浄土 その2) 平安京を揺るがす末法思想

2004年10月13日 | 06 生と死の平安京
現実の世界、ときにもっと恐ろしい世界さえも繰り返し生きる輪廻転生の世界、平安京の人々が恐れたのは、なかなか抜け出せない輪廻だけではなかった。そこへもっと怖いウワサがたちます。それが末法(まっぽう)の世、世界の最後が来る、という話ですね。お釈迦さま、仏陀が亡くなって、1500年経った1052年に末法の世を迎えるとされた。

これは平安末期の仏教思想の一つで、末法が始まると1万年もの長い間、そこから抜け出ることはできないという考え方です。もはや、いかなる修行を積んでも仏教が教える悟りが開けなくなり、仏法がもたらす順調な自然、社会の運行も狂いはじめるというのです。キリスト教にもある終末論とおなじですね。ヨーロッパでも900年代の末に世界終末の恐怖が広まりました。

実際にこのころ、列島には疫病や地震・洪水といった災害が相次ぎ、人々の不安は増すばかりだった。また、加えて平安の都には、災害により土地を失った流民があふれ、下層の武士たちが起こす盗難や放火など、都の生活を脅かすことが日常茶飯事だったんですね。

庶民はもちろん、貴族たちにとっても、この世が末法に向かうのが目に見えて感じられた中、人々は浄土に行くことに間に合いたい、往生したいと強く願います。自分の力で悟りを開くことはあきらめて、阿弥陀如来などの慈悲にすがり、その浄土に生まれ変わるよりほかに救われる道はない、と思われたんですね。

そのため、たくさんの阿弥陀如来を本尊とする寺が平安京をはじめとして各地に建てられた。その寺には人々の願う浄土を実感させる、この世のものとは思えない姿が描かれていくのです。

そういった絵の中で、今に伝わる代表的な絵画に、奈良の当麻(たいま)寺に伝わる当麻曼荼羅というものがあります。そこには浄土がまさに目を奪うよう壮麗な金色の光景が描かれている。このように、浄土とは目を奪う景色に音楽が鳴り、すばらしい香りがする世界と人々が信じていたことが伝わってきます。

しかし、絵ばかりではないんですね。このような浄土の姿は、そのまま建築にも写されていく。宇治の平等院がそうですね。

末法の世が到来するとされた1052年のその年、藤原道長の子・頼道は、道長から譲られた宇治の別荘を寺院とし、この世に阿弥陀の浄土をうつした平等院を建立したんです。これが貴族たちの大評判を呼んだ。平等院鳳凰堂は、「まことの極楽いぶかしくば、宇治の御堂(みどう)をうやまえ」とまで歌われます。

こうして藤原氏を中心に、貴族たちは、続々と阿弥陀を信仰しはじめたんです。平安京の周辺には、それまで中心だった密教寺院に代わって、貴族たちが一族のための寺をたくさんつくり、また、自分の邸宅の中にも阿弥陀堂を建て始めた。ちなみにこのような私設の寺は従来の寺に対して、院と言います。「寺院」という言葉はここから来たんですね。

3人の皇后の父親となり、摂関家の絶頂を迎えた藤原道長の臨終には、貴族たちの思いを表す大変有名な話が伝わります。1027年に62歳で世を去るとき、あの栄華を極めた道長でさえ、地獄に落ちるのを恐れて、自邸に建立した阿弥陀堂で九体仏から蓮の糸を引いて手で握り、念仏を唱えながら息を引き取ったというんです。

このように末法の世を迎えた平安王朝は、実際にも王朝の力が中心から微妙にスライドを始めていくことになります。歴史をみるときの大事な視点は、パワー、時の権力が生まれ、中心となったあとに、どのような形で中心外に新たな力が出現してくるか、対抗してくるのかということを見ることにあります。

平安京のパワーが衰えた時代、新たなパワーが起こったのは、地方でした。みやびなパワーに対抗したやり方は、東国と西海の荒ぶる力の行使にあったのです。

【次回は10月16日(土)、06 生と死の平安京、Z=東国と西海の1回目です】


06 生と死の平安京(Y=浄土 その1) 空也と源信がひろめた念仏

2004年10月09日 | 06 生と死の平安京
「お彼岸(ひがん)」をみなさんは知っていますね。秋のお彼岸とか、春のお彼岸って言いますね。彼岸とは、何でしょうか? もとは、サンスクリットのパーラムpram、川の向こう岸という意味です。つまり、あちらの世界、あの世を指している。彼岸とは、あちら側にある宗教的な理想の地、悟りの地の「浄土」なんですね。

私たちは現実社会の中では、ヒア(here)、「ここ」にいます。でも、いつかはゼア(there)、すなわち、あの世、浄土に行くことになります。もちろん、行いによってはダメな人もいるかもしれない。ちょっとドキドキですね。平安人たちはまさにその渦中にいました。

京都のはずれ、加茂町には、浄瑠璃寺というお寺があります。11世紀半ばに最初のお堂が建てられましたが、寺内の西に本堂が建てられ、中には九体の阿弥陀仏が東を向いてずらっと並んで座している。寺の中心には池があって、東側から池を挟んで、西の本堂を拝む形になります。すなわち浄瑠璃寺の配置は、西は彼岸、東は此岸(しがん=この世)ですね。まさにヒアとゼアの、この世とあの世を間に池をはさんで構造化したものなんです。

王朝の栄華が進む一方、都は「不安時代」の様相が濃くなってくる。平安京は朱雀大路を軸として、右京、左京に区分けされた都市でしたが、疫病、盗賊が跋扈(ばっこ)する平安中期には、桂川に近く、低湿だった右京が荒れ果て、人も住まなくなってしまう。朱雀大路の南の端、羅城門では鬼が出て、陰陽師が調伏しようとしても、なかなか収まらない。まさに黒沢明監督の名作「羅生門」で描かれた平安末期の荒廃した世界が始まっていたんです。

そこで、都大路の人々は浄瑠璃寺の阿弥陀仏が表している「西方阿弥陀浄土(さいほうあみだじょうど)」に、貴賤を問わず強いあこがれをもちはじめたんですね。寺院の中では、仏を念ずる念仏が唱えられていましたが、いよいよ念仏もお寺、あるいは修行する山中で唱えているだけにはいかなくなった。10世紀ごろには都大路で人々に聞こえる形で直接念仏を唱える人が出てきます。その代表的な僧が、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也(くうや)上人ですね。

京都・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)では、今も空也踊躍(くうやゆやく)念仏が続けられています。しみじみした鉦(かね)の音に合わせて踊りながら念仏を唱える姿は、空也上人が、人が集まる平安京の東市や西市の門に立って、念仏の功徳を広めるために、念仏を唱えながら踊り、人々に念仏と浄土信仰を勧めた姿を写したものなんです。

市に現れ、念仏を説く空也の姿は、人々にとって衝撃的なものでした。草鞋を履き、すねを出した粗末な短い衣を着て、胸に下げた鉦を撞木(しゅもく)で鳴らしながら、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える上人は、圧倒的に人々に尊敬されたんですね。鎌倉時代の仏師康勝(こうしょう)の有名な空也像は、その口から出た「南無阿弥陀仏」の一音一音が6つの仏となったといわれる空也上人の伝説の姿をそのまま彫刻にした印象的な作品です。

空也は若いときから諸国を遊行し、とくに当時の辺境である東北で仏教を広めていったことが、今も語り継がれています。空也がもつ強い影響力は、仏教を口で伝えるだけでなく、当時あふれていた道ばたの死者を供養して墓を立て、険しい道を平らにし、橋を架けたり井戸を掘るという、民衆の救済事業を念仏を広めるとともに展開していったことにあるんですね。こういった踊り念仏とともに社会の人々を救済する遊行僧の姿は、鎌倉時代の一遍上人と時衆(じしゅう)の人々に受け継がれていくんです。

もう一人、念仏をより普及させたキーパーソンがいます。天台宗の源信(恵心僧都=えしんそうず)がその人です。985年、学問僧であった源信は、往生の手引書ともいえる『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した。そこに書かれたこの短い言葉が貴族の間で大流行します。「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」ですね。

この世は汚れた穢土(えど)、苦悩や矛盾に満ちた世界で、人間はその中を輪廻(りんね)している。これを厭(いと)い、念仏を唱えることによって、阿弥陀仏が永遠の極楽浄土へ導いてくれることが説かれているんです。これが浄土教の基盤となっていきます。

こういった現世を否定的にみる当時の仏教の観念が、絵画としてわかりやすく描かれて残されています。それが「六道絵(ろくどうえ)」ですね。仏教では、この人間世界は三界六道(さんがいりくどう)にあり、人間は生きているときに果たした善悪により、死後に六つの世界のどれかに輪廻転生(てんしょう)すると考えられたのです。

その六つの世界とは、一番上に学問、善行を施した者の「天道」、続いて「人道」があります。ここまでが善を行ったものが行くところで、以下、悪行を重ねるにしたがってランクが下がり、いつも戦い合う「修羅道」、獣の道の「畜生道」、飢えに苦しむ「餓鬼道」、そして最後が「地獄」に落ちていく。

人間の生きる世界とは、六道輪廻の世界で、繰り返し繰り返し続き、なかなか抜け出せない世界なんですね。でも、そこを脱出できる方法があった。それが念仏でした。阿弥陀仏を信仰することにより、これらの輪廻転生を超越した永遠の極楽に迎えられると考えられたのです。源信の『往生要集』は、のちに中国の天台山国清寺にもたらされて、宋の時代の中国仏教界にも大きな影響を与えたといわれてるんですね。

【次回は10月12日(火)、06 生と死の平安京、Y=浄土の2回目です】

06 生と死の平安京(X=みやび その2) 「かさね」「あわせ」という日本的美意識

2004年10月04日 | 06 生と死の平安京
京のみやびな空間には、日本的な自然、叙情的な風景がさまざまな調度品に写し込まれていったんですね。そういった調度品には、硯箱や文台といった身の周りもの、さらに箏(そう)などの楽器もありました。平安時代の華麗な蒔絵(まきえ)には、そんな和風の代表的な飾り付けがうかがえるんですね。

蒔絵とは、その字が表すように、漆を接着剤代わりに塗り、金や銀、錫(すず)などの金属粉や顔料の粉(色粉)でその上に蒔(ま)いて文様を描く技法です。奈良時代に始まり、やはりもともとは中国風にシンメトリーで整然とした文様を描いていましたが、平安時代中期から川の流れや雲、飛び交う鳥、しめやかに咲く草花といった、うつろいやすい自然の姿が好んで描かれるようになったんです。

それらのデザインとして、たいへんに有名なものがあります。国宝の「片輪車(かたわぐるま)螺鈿蒔絵(らでんまきえ)手箱」などにみられる文様で、水の流れと牛車(ぎっしゃ)の車輪をデザインした「片輪車」と呼ばれるものです。これは車輪のそりを直したり、乾いて割れたりするのを防ぐために、車輪を加茂川に浸した光景をデザインしたものなんですね。

しかし、ただの情景描写だけでもなかった。水に動かされて車が回るシーンには、仏教が説く時の巡り、無常の思想も重ねられているわけですね。こういった研ぎ澄まされたみやびな感覚は衣装にも見ることができます。宮廷の女官たちの十二単(じゅうにひとえ)と呼ばれる衣装を知ってますね? 肌着の単(ひとえ)の上に5着とか12着の衣を重ねたもので、その1枚1枚色とりどりの組み合わせが、袖口や裾に見えている。

まことにあでやかな世界ですが、この色の重ね方はけっしてランダムなものではなかった。これは、実はちゃんと意味と呼称をもった「襲(かさね)の色目」とよばれるものなんです。

たとえば白に紫が重なった色の組み合わせを「桜」、萌葱(もえぎ)に紅梅を重ね合わせた組み合わせを「杜若(かきつばた)」といいます。染織はもちろん古代からありましたが、その布の色の名前は紅、紫、藍(あい)、茜(あかね)といった染料の名称が多かった。みやびな空間の中では、色を重ねて装うときにも四季の草花をイメージした名前がつけられていたんですね。そして草花を示す色が季節に合わせた微妙な衣の色づかいとなって、時候に合わせた衣装の儀礼や生活の中のおしゃれとなっていったのです。

このように、色で言えば重ねる、合わせる、比べるといったことを、多くの人が行っていく。つまり、こういう組み合わせが、日本の新しい伝統文化、伝統の美意識になっていったということですね。中でも「合わせ」ということは、非常にポピュラーになった。歌合もありましたね。ほかにも、さまざまなモノが合わせられます。

古い例では、季節の草を採集して草の根を合わせて比べる根合(ねあわせ)、女房たちが描いた絵を合わせる絵合など、いろいろなモノが美を基準に合わせられます。貝合というものもあります。一対で合う貝に片方ずつ対の絵を描いて、たくさんの貝にまぜ、ぴったりと合う図柄を選ぶというすばらしい遊びです。王朝人たちはこういった遊びを美の表現として発見していったのですね。

「みやび」という言葉は、京(みやこ)ぶる、宮(みや)ぶるという言葉から来ています。つまり都市感覚、アーバンなおしゃれみたいなもんですね。でも、いつの世でもおしゃれの向こう側には、もっと生々しい存在がある。逃れられない人間の苦しみとか病とか、あるいは都市自体の疲弊がある。火事や疫病、暗躍する盗賊など、平安京は非常に多くの災害や犯罪に見舞われた都市でもあったのです。

「うつろい」やすさにはまた、「はかなさ」とか「むなしさ」を引き連れている。王朝人たちは、苦しい世の中を「地獄」に例え、同時にその向こうに「浄土」というものを考えていくようになります。

いよいよここから平安後期の突入です。不安時代であった平安王朝の大きな本質がここに出てくることで、次の時代への準備に本格的に入っていくわけですね。では、次回、平安人の心を奪った「浄土」の世界をお楽しみに。

【次回は10月9日(土)、06 生と死の平安京、Y=浄土の1回目です】