平安中期に、平将門による関東独立という壮大なプランが描かれるほど、武士団の力が地方で伸長していたんですね。将門の後も、都から遠く離れた東国は独立心を無くすわけではなかった。関東の盟主を目指して、桓武平氏の流れを汲む平氏一族の主導権争いが将門の後に繰り広げられていたわけです。
そこでトップを取り、関東制覇を狙ったのが平忠常(たいらのただつね)でした。将門の乱から90年後の1028年、忠常は安房(千葉県)で国守を襲い、国府を占拠します。平忠常の乱ですね。追討しようとする朝廷との戦いは3年あまり続き、将門の乱を超えた大規模な乱となった。これを収めたのが、名将とうたわれた源頼信(みなもとのよりのぶ)でした。
頼信は、清和天皇の子孫である清和源氏の一族なんです。つまり、このときに関東の支配権が源氏に移ったわけですね。源氏の進出により、桓武平氏の主力は東国から拠点を移していきます。それが頼信とともに武名をはせていた平維衡(たいらのこれひら)の一族でした。行った先はどこでしょうか? 今の三重県の伊勢・伊賀です。維衡は伊勢国司となり、その子孫は伊勢を拠点とした貿易で財力を築き上げ、強大な伊勢平氏となっていくんです。
清和源氏は摂津(兵庫)、河内、大和、美濃、尾張を拠点として勢力を広げ、桓武平氏と並ぶ有力武家となります。その源氏の勢力が平氏と東と西を入れ替えた、ということですね。
こうしてパワーの担い手がハッキリとしてきた中、801年の坂上田村麻呂の遠征以来、落ち着きを見せていた東北の地で独立の動きが起こります。1051年、陸奥の豪族で、俘囚をまとめて勢力を蓄えた阿部氏が、独立を目指して反乱ののろしを上げたんです。12年の間、断続的に続くこの乱が「前九年の役」ですね。しかし、東北は馬や鉄の産地であり、さらに金を埋蔵するという資源大国でもあった。ここでさらなる力を求めて源氏が動きます。
鎮守府将軍として多賀城に赴任していた源頼義は、1062年、出羽の俘囚のリーダーである清原武則の助けを借りて反乱を収めることに成功します。このとき初めて戦に参加した源頼義の子が、弱冠19歳の源義家(みなもとのよしいえ)です。号の八幡太郎から八幡太郎義家と呼ばれた。百発百中の弓の腕前で恐れられ、その名前は全国に広まります。
21年後の1083年に、今度は奥州を治めていた清原氏一族に後継者をめぐる争いがおこる。このとき陸奥守として登場したのが名将八幡太郎義家でした。義家は一族の中から藤原清衡(きよひら)を支援し、苦しい戦いを経て乱を平定します。これが「後三年の役」ですね。
ところが義家の奮闘にもかかわらず、源氏の奥州への勢力拡大を怖れた都の白河上皇は、この戦いを義家の私的な戦いとして、まったく恩賞を与えなかった。さらに、この地の支配権を藤原清衡にゆだねるんですね。
軍団を構成する武士たちにとっては、戦を命を懸けて戦い抜き、恩賞をもらうことは、何よりの目的であり、必要なことでした。朝廷は源氏に強烈なけん制の一手を打ったわけです。ところが、奥州から凱旋した義家は、私財を投じて配下の武士に恩賞を与えたんですね。これで朝廷のねらいとは逆に武士の主従の固い絆が結ばれた。
こうして八幡太郎義家の人気はますます高まり、配下だけではなく、全国の武士からも荘園の寄進が相次ぎます。義家の子孫はその荘園を治めるために全国に散らばっていったんです。
時は12世紀、平安も末期に入っています。この日本列島にはこうして源氏、平氏、朝廷とさまざまな動きが右往左往していったんですね。
八幡太郎義家は、石清水八幡宮で元服したので、その名が付きました。義家は八幡大菩薩を旗印にしていたんです。これは仏教とちょっと違います。こういった新しい神を持ち出して新しい時代をつくろうとしたわけですね。その時代、一人の青年が野望をもって虎視眈々と待っていた。それは誰でしょうか? そう、伊勢平氏に生まれ、初めて武家政権をつくることになる平清盛がその人です。
さあ、平安王朝の特徴を「王朝・密教・荘園」「万葉集・古今和歌集・源氏物語」「みやび・浄土・東国と西海」というXYZで見てきました。どうでしたか? 女性たちが目立っていましたね。でも、末法とか浄土思想が出てくると、そのあとはどうやら新しい男性たちが登場してきた。こうして平安時代、暮れなずんでいきます。
夕暮れのことを黄昏(たそがれ)といいますね。それは誰そ彼(たそがれ)なんですね。夕やみの中で「あれはいったい誰だろう? 高貴な人なんだろうか、いや、あやしい人なのかなあ」と思う気持ちを、たそがれと言うんです。
平安時代はこうして夕暮れに終わろうとしていますが、次の時代はいったい誰が彼、「たそがれ」だったのでしょうか? さあ、いよいよ次回からは、日本のトップをめぐる「武者(むさ)の世」へ、激動の中世の始まりです。
【次回は10月23日(土)、07 院政と源平、X=法皇の1回目です】
そこでトップを取り、関東制覇を狙ったのが平忠常(たいらのただつね)でした。将門の乱から90年後の1028年、忠常は安房(千葉県)で国守を襲い、国府を占拠します。平忠常の乱ですね。追討しようとする朝廷との戦いは3年あまり続き、将門の乱を超えた大規模な乱となった。これを収めたのが、名将とうたわれた源頼信(みなもとのよりのぶ)でした。
頼信は、清和天皇の子孫である清和源氏の一族なんです。つまり、このときに関東の支配権が源氏に移ったわけですね。源氏の進出により、桓武平氏の主力は東国から拠点を移していきます。それが頼信とともに武名をはせていた平維衡(たいらのこれひら)の一族でした。行った先はどこでしょうか? 今の三重県の伊勢・伊賀です。維衡は伊勢国司となり、その子孫は伊勢を拠点とした貿易で財力を築き上げ、強大な伊勢平氏となっていくんです。
清和源氏は摂津(兵庫)、河内、大和、美濃、尾張を拠点として勢力を広げ、桓武平氏と並ぶ有力武家となります。その源氏の勢力が平氏と東と西を入れ替えた、ということですね。
こうしてパワーの担い手がハッキリとしてきた中、801年の坂上田村麻呂の遠征以来、落ち着きを見せていた東北の地で独立の動きが起こります。1051年、陸奥の豪族で、俘囚をまとめて勢力を蓄えた阿部氏が、独立を目指して反乱ののろしを上げたんです。12年の間、断続的に続くこの乱が「前九年の役」ですね。しかし、東北は馬や鉄の産地であり、さらに金を埋蔵するという資源大国でもあった。ここでさらなる力を求めて源氏が動きます。
鎮守府将軍として多賀城に赴任していた源頼義は、1062年、出羽の俘囚のリーダーである清原武則の助けを借りて反乱を収めることに成功します。このとき初めて戦に参加した源頼義の子が、弱冠19歳の源義家(みなもとのよしいえ)です。号の八幡太郎から八幡太郎義家と呼ばれた。百発百中の弓の腕前で恐れられ、その名前は全国に広まります。
21年後の1083年に、今度は奥州を治めていた清原氏一族に後継者をめぐる争いがおこる。このとき陸奥守として登場したのが名将八幡太郎義家でした。義家は一族の中から藤原清衡(きよひら)を支援し、苦しい戦いを経て乱を平定します。これが「後三年の役」ですね。
ところが義家の奮闘にもかかわらず、源氏の奥州への勢力拡大を怖れた都の白河上皇は、この戦いを義家の私的な戦いとして、まったく恩賞を与えなかった。さらに、この地の支配権を藤原清衡にゆだねるんですね。
軍団を構成する武士たちにとっては、戦を命を懸けて戦い抜き、恩賞をもらうことは、何よりの目的であり、必要なことでした。朝廷は源氏に強烈なけん制の一手を打ったわけです。ところが、奥州から凱旋した義家は、私財を投じて配下の武士に恩賞を与えたんですね。これで朝廷のねらいとは逆に武士の主従の固い絆が結ばれた。
こうして八幡太郎義家の人気はますます高まり、配下だけではなく、全国の武士からも荘園の寄進が相次ぎます。義家の子孫はその荘園を治めるために全国に散らばっていったんです。
時は12世紀、平安も末期に入っています。この日本列島にはこうして源氏、平氏、朝廷とさまざまな動きが右往左往していったんですね。
八幡太郎義家は、石清水八幡宮で元服したので、その名が付きました。義家は八幡大菩薩を旗印にしていたんです。これは仏教とちょっと違います。こういった新しい神を持ち出して新しい時代をつくろうとしたわけですね。その時代、一人の青年が野望をもって虎視眈々と待っていた。それは誰でしょうか? そう、伊勢平氏に生まれ、初めて武家政権をつくることになる平清盛がその人です。
さあ、平安王朝の特徴を「王朝・密教・荘園」「万葉集・古今和歌集・源氏物語」「みやび・浄土・東国と西海」というXYZで見てきました。どうでしたか? 女性たちが目立っていましたね。でも、末法とか浄土思想が出てくると、そのあとはどうやら新しい男性たちが登場してきた。こうして平安時代、暮れなずんでいきます。
夕暮れのことを黄昏(たそがれ)といいますね。それは誰そ彼(たそがれ)なんですね。夕やみの中で「あれはいったい誰だろう? 高貴な人なんだろうか、いや、あやしい人なのかなあ」と思う気持ちを、たそがれと言うんです。
平安時代はこうして夕暮れに終わろうとしていますが、次の時代はいったい誰が彼、「たそがれ」だったのでしょうか? さあ、いよいよ次回からは、日本のトップをめぐる「武者(むさ)の世」へ、激動の中世の始まりです。
【次回は10月23日(土)、07 院政と源平、X=法皇の1回目です】