頼朝に先んじて京都に入った源義仲でしたが、もともと政治力に欠け、朝廷との折り合いが悪かったんですね。そこに後白河法皇が頼朝に接近を図ったんです。義仲は怒って法皇を幽閉してしまう。これを義仲を討つチャンスとみた頼朝は、即座に行動に出た。1184年1月、弟の源範頼を総大将とした6万の大軍勢が京都に向かいます。その先頭を切ったのが、これも頼朝の弟、源義経でした。
平治の乱の後、清盛に敗れた源義朝の遺児として鞍馬山に送られた牛若丸こと義経は、自分の素性を知ったのち、平泉の奥州藤原氏三代の藤原秀衡(ひでひら)の元に行って保護され、平家打倒の機会を待っていたといいます。1180年の頼朝の挙兵の知らせを聞くと、すぐに奥州から兄の下に駆けつけたんですね。
東国から京都に入る場合、防衛ラインとなるのが宇治川です。橋を落とされた川の対岸で義仲軍に対峙した2万5千騎の義経軍は、凍り付くような真冬の宇治川を馬で渡り切り、勢いに乗って大勝した。義仲は京都から逃れる途中の近江国粟津(大津市)で討たれます。この義仲との戦いが幾多の伝説を残す戦の天才、義経のデビュー戦でした。
西海を抑え、福原まで上ってきていた平氏の軍勢は、東は生田森(いくたのもり)、西は一ノ谷に軍陣を構えて都の奪還を狙っていたんですね。法皇から今度は平氏追討の院宣(いんぜん)を得た範頼・義経軍は、すぐさま福原を攻撃した。有名なひよどり越え、一ノ谷の合戦です。背後を守るとんでもない崖の上から、坂落としで奇襲してきた義経軍に、平氏軍は四国の屋島(高松市)に退却。しかし、ここも今度は陸づたいに襲ってきた義経軍に海上に追い立てられる。すでに制海権を失っていた平氏は、1185年3月、いよいよ壇ノ浦(下関市)、源平合戦最後の戦場に追いつめられていったんです。
平氏が一族の存亡をかけて臨んだ壇ノ浦の合戦でしたが、攻め入る源氏は、潮の流れを味方につけて平氏を圧倒した。平氏は追いつめられ、まだ8歳の幼い安徳天皇は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれて入水(じゅすい)し、この日、一族のほとんどが海に消えていった。平清盛が太政大臣となったわずか18年後に平氏は滅亡したんです。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす」。ご存じ『平家物語』の冒頭ですね。栄華の絶頂にあった平氏がたちまち亡んでしまった。これは日本人に大きなショックを与え、盛んな者は必ず滅びるという無常観が広まっていきます。
『平家物語』は、この平氏の興亡のありさま、政治や社会の成り行きというものを盲目の琵琶法師たちが語り歌いながら、物語として編集していったものです。たいへん悲しい響きの歌ですが、庶民の台頭期である中世の始まりに、この音曲からなる文芸は、貴族や僧りょといった知識層だけでなく、文字を読めない人々からも熱狂的な支持を集めた。いわば初めての国民文学となっていったんですね。
壇ノ浦とともに5年にわたる源平の争乱は終わりましたが、頼朝の全国的な臨戦体制はまだ続いた。なぜでしょうか? 平氏滅亡の後、後白河法皇は一躍ヒーローとなった義経に昇殿を許すなど厚遇し、一族の長である頼朝との間に緊張を生じさせるんです。兄弟を対立させて再び政治の主導権をとることを狙ったわけですね。しかし、結果は意外な方向に進みます。
頼朝は義経謀反を許したことで法皇に強硬な圧力をかけ、反対に義経追討の院宣を出させた。孤立した義経は変装して各地を逃れた末、奥州の藤原秀衡を頼って再び平泉に入ったんですね。優れた統治者であった秀衡は、子の泰衡(やすひら)らと知将の義経が協力することで、鎌倉の時代になっても平泉の独立が続くことを狙っていたのですが、秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に負けて義経を襲い、死なせてしまいます。しかし、結局、頼朝は泰衡も許すことなく攻めて滅ぼしてしまう。1189年のこの奥州征討により、100年続いた奥州藤原氏は途絶え、東北は頼朝の直轄下に入るわけです。
頼朝にとってこの義経の探索は、全国に支配力を広げる格好な口実となった。源義仲を追いつめる見返りに東国の支配権を認めさせたように、頼朝の、あらゆる機会を利用して着実に幕府の基礎固めをする方法は、法皇よりも数段上だった、ともいえます。すでに平氏追討が始まると同時に、有力な家臣を国ごとの軍事指揮官である総追捕使(そうついぶし)として畿内各国に配置していましたが、義経の謀反事件をきっかけに、反乱防止として全国に「守護」と「地頭」を設置することを法皇に認めさせるんです。
国ごとに置かれた「守護」は、さきの総追捕使をパワーアップしたもので、犯罪者の処罰や京都の警護にあたる。武家による警察の全国ネットワークをつくったんですね。「地頭」は全国の荘園や国司が支配する国衙領ごとに置かれ、土地の管理や年貢の取り立てを行うものです。頼朝はこの守護・地頭を束ねる日本国総追捕使・総地頭となって、東北、関東、西国をすべて支配する実質的な武家の統治システムをつくりあげることに成功します。そして1192年、後白河法皇が没した後、頼朝はついに征夷大将軍に就任。武家政権としての鎌倉幕府が名実ともに成立したんですね。
頼朝を中心にした源氏の棟梁というリーダーのもとに、全国の人民と土地と軍事力が支配された。こういう仕組みのことを「封建」、あるいは「封建制度」といいますね。この封建制度は三つの要素からできています。ひとつは「一所懸命」、「一生懸命頑張る」と言いますが、本来は「一所」から来ています。ひとところに命を懸けること、つまりリーダーに「そこを守りなさい」と言われると、その場所を守り続けることが「一所懸命」なんです。次に「本領安堵(ほんりょうあんど)」。自分が与えられた土地をリーダーが安堵する、ゆるぎないものとして安定させるということ。そして、三つ目が自分が仕えている棟梁の御恩を必ず返すという「御恩奉公」です。これが鎌倉時代の領地の保証をめぐって成立した封建制度の仕組みだったんですね。
中世の始まりとともに、武者(むさ)の世へ向かった日本を「法皇、平清盛、源頼朝」のXYZで見てきました。みやびな時代がむき出しの力の世界へと劇的に変わってきたんですね。しかし、一方、まったく同じ時代に、強者の論理とは正反対の新しい感性が生まれているんです。
では、次のXYZで、まさに日本的といえる美意識やセンスを生んだ、三つの文芸作品の驚くべき影響力をお話ししましょう。
【次回は11月13日(土)、08 歌枕と今様、X=山家集の1回目です】
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「うぐいす鳴くよ(794)平安京」、「いいくに(1192)できた鎌倉幕府」なんて年号の覚え方は昔からありますね。400年に及んだ長い長い平安時代が、いよいよ12世紀とともに終わろうとしています。日本は12世紀末から13世紀で大きく変わる。これはぜひ覚えておいてほしいところですね。法皇、平清盛とみてきた変革期の日本のXYZの最後のZは、もちろん「源頼朝」です。
ご存じのように、頼朝は征夷大将軍とな . . .
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1156年、鳥羽法皇が重態に陥ると、後白河天皇と崇徳上皇の院政の後継をめぐる対立は一気に緊迫します。上皇、天皇の間だけではなく、このときに起こっていた関白の座をめぐる摂関家の争い、藤原忠通と弟の頼長の対立も重なった。朝廷全体が真っ二つに分裂するんですね。両派は有力な武家を味方に引き入れることに必死になった。こうして北面の武士、武家の棟梁として台頭した源氏、平氏それぞれも上皇方、天皇方に分かれたんで . . .
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最初の武家政権をつくった平清盛、みなさん、もちろん知っていますね。清盛については、平家物語の「おごれるものは久しからず」や、「盛者必衰のことわり」など、平家滅亡のシーンがよく記憶されていますが、この平清盛が統治者として実際に考えていたこと、推進したことには、もっと注目したほうがいい。
その一つの大きなポイントは、国際貿易を強力に押し進めていこうとしたことです。海に囲まれた日本で、貿易を中心にする . . .
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みなさんは「田楽」という言葉を聞いたことがありますか? そういう食べ物もありますね。本来は農民が着飾って田植えの時に豊穣を祈り、笛や太鼓とともににぎやかに舞う踊りのことです。10世紀からこの田楽が各地に流行するんですが、そのピークは1096年、ちょうど白河上皇が法皇になったころでした。平安京の近郊に始まった田楽踊りが都になだれ込み、京の庶民や下人はもちろん、貴族や官人まで一緒になって踊り狂うという . . .
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