今様を歌い踊った白拍子たちは可憐な男装でした。日本ではこのような男女の取り替えは、神聖な神の出現ともとらえられたんです。神聖な神に奉仕した巫女たちは、また、遊女でもあった。その遊女たちの今様に、時の最高権力者、後白河法皇がぞっこん惚れこんでしまったわけですね。最下層の遊女とトップの法皇が繋がる。これが日本文化のおもしろいところです。
今様を全国的に流行らせたのが、この遊女たちでした。当時、遊女はどこにいたかというと、各地の交通の要所にいたんです。中世は川や海の舟を使った交通が中心だったので、遊女たちは、港や宿場などに集まっていた。舟をねぐらとして西は博多から東は房総半島まで活動していた彼女たちによって、今様は全国に伝わり大ブレイクします。
その交通の要所の一つに、信州と関東への道の分岐点、伊勢湾につながる交通の拠点でもある岐阜県大垣市の青墓(あおはか)があります。この青墓の宿には諸国の芸能者が大勢集まっていた。ここから出た乙前(おとまえ)という遊女の歌と舞いが、都でも大評判をとります。
保元の乱の翌年、後白河法皇はすでに70歳を超えていたこの乙前の今様を聴いて大感動したんですね。なんとそれから10年以上、乙前に今様を習い続けた。そして乙前の死後、後白河法皇は、今様の唄い方と歌詞を残そうとして編集したのが、『梁塵秘抄』だったわけです。
今様を歌う白拍子たちは、覇を競う武家の棟梁たちも夢中になります。『平家物語』には平清盛が愛した、祇王(ぎおう)と仏御前という白拍子の哀感にあふれる話が載っている。平清盛に対抗した源義朝も、白拍子の常盤御前を妻にしました。その子、源義経もまた、静御前という白拍子を愛した。
静御前は、平氏滅亡の後、頼朝に追われて逃亡した義経と離ればなれになった。頼朝に捕らえられた静御前は、義経を思慕した歌を頼朝と北条政子の前で歌ったといいます。それを伝える「静御前の舞」が今でも鎌倉八幡宮で毎年奉納されているんですね。
後白河法皇、清盛、義経と、みんなこの白拍子がみせる新しい動向にほれていった。この「今様」には、大きく分けて3種類のテーマが歌われているんです。神仏への思いを歌った歌、流行を歌う歌、そして庶民の感情を歌う歌ですね。神仏を題材にしたものが一番多い。例えば、こんな歌があります。
「仏法弘(ひろ)むとて 天台麓に跡を 垂れおはします
光を和らげ 塵となし 東の宮とぞ 斎(いわ)れおはします」
これは、琵琶湖に臨んだ日吉大社の功徳を唄っているものです。仏法を広めようと、仏が日本人に親しい神に姿を変えて教えを説く。本来の仏教が光のように見えにくいので、塵になって分かりやすく説いてくださる、と言う意味です。このような仏が日本古来の神になって教えを説くことを「和光同塵」といいます。
2番目は、流行のものをあつかった歌。これがちょっとおもしろい。
「武者の好むもの 紺よ紅 山吹(やまぶき) 濃(こ)き蘇芳(すほう)
茜寄生樹(あかねほや)の摺(すり) 良き弓胡ぐい(やなぐい)
馬鞍(くら)太刀腰刀(こしがたな)
鎧兜に 脇立(わきだて)籠手具(こてぐ)して」
まるで早口言葉みたいですね。これは当時の武者の好みを連ねた歌なんです。貴族が淡い色を好んだのに対して、武者たちは濃い色合い、目にもあざやかな紺や紅などの派手で目立つ色彩が好みだったんですね。
そして3つ目の大事なテーマが、人々の日常を歌ったもの。
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。こういった内容を歌にした歌謡は、今までなかった。流行や人々の気持ちを歌う歌は、今様で初めて現れたわけです。
さあ、このにっぽんXYZでは、これまで古代から中世の始まりまでを見ていく中で、歴史的な事件だけでなく、時代がもつ文化のモード、コードをかなりじっくりと見てきました。いかがでしたか。
平安時代の最初のころでは、漢詩と和歌がまだ並列していました。次に女房たちが現れて物語などをつくり、平仮名が出現し、たいへんに流行しましたね。そして『方丈記』では、日本語というものの記述が変化してきた。
これらを言い直すと、貴族、公家とか、あるいは天皇が担っていた日本の文化が、『山家集』、『方丈記』では、個人の、自分の心の中に映ったものになり、また今様が民衆のものであったように、だいぶ変わってきたということです。平安時代が終わり、鎌倉時代を迎えると、ここから新しい鎌倉の感覚が出てくるのです。それは一言でいうと「リアリズム」というものでした。仏像が表情を持ったリアルな彫刻になり、似絵(にせえ)という写真のような絵画が出てきます。
貴族から武家へ、時代の担い手が変わるとともに、人々の感覚も平安王朝のベールの優美さを脱ぎ捨て、写実の芸術がもたらす迫真の像を求めていくわけです。このように時代の変化は文化のありようと関係している。それも一様ではなく、力を担う階層の変化や国際的な状況など、そのときどきのバイアスが相互に組み合わされているんです。こういった表現と時代の関係を読み解くことは、現代を考えるときにも大きなヒントになっていくんですね。
【「にっぽんXYZ」は今回で、ひとまずお休みをいただきます。ご愛読をいただき、ありがとうございました。】
今様を全国的に流行らせたのが、この遊女たちでした。当時、遊女はどこにいたかというと、各地の交通の要所にいたんです。中世は川や海の舟を使った交通が中心だったので、遊女たちは、港や宿場などに集まっていた。舟をねぐらとして西は博多から東は房総半島まで活動していた彼女たちによって、今様は全国に伝わり大ブレイクします。
その交通の要所の一つに、信州と関東への道の分岐点、伊勢湾につながる交通の拠点でもある岐阜県大垣市の青墓(あおはか)があります。この青墓の宿には諸国の芸能者が大勢集まっていた。ここから出た乙前(おとまえ)という遊女の歌と舞いが、都でも大評判をとります。
保元の乱の翌年、後白河法皇はすでに70歳を超えていたこの乙前の今様を聴いて大感動したんですね。なんとそれから10年以上、乙前に今様を習い続けた。そして乙前の死後、後白河法皇は、今様の唄い方と歌詞を残そうとして編集したのが、『梁塵秘抄』だったわけです。
今様を歌う白拍子たちは、覇を競う武家の棟梁たちも夢中になります。『平家物語』には平清盛が愛した、祇王(ぎおう)と仏御前という白拍子の哀感にあふれる話が載っている。平清盛に対抗した源義朝も、白拍子の常盤御前を妻にしました。その子、源義経もまた、静御前という白拍子を愛した。
静御前は、平氏滅亡の後、頼朝に追われて逃亡した義経と離ればなれになった。頼朝に捕らえられた静御前は、義経を思慕した歌を頼朝と北条政子の前で歌ったといいます。それを伝える「静御前の舞」が今でも鎌倉八幡宮で毎年奉納されているんですね。
後白河法皇、清盛、義経と、みんなこの白拍子がみせる新しい動向にほれていった。この「今様」には、大きく分けて3種類のテーマが歌われているんです。神仏への思いを歌った歌、流行を歌う歌、そして庶民の感情を歌う歌ですね。神仏を題材にしたものが一番多い。例えば、こんな歌があります。
「仏法弘(ひろ)むとて 天台麓に跡を 垂れおはします
光を和らげ 塵となし 東の宮とぞ 斎(いわ)れおはします」
これは、琵琶湖に臨んだ日吉大社の功徳を唄っているものです。仏法を広めようと、仏が日本人に親しい神に姿を変えて教えを説く。本来の仏教が光のように見えにくいので、塵になって分かりやすく説いてくださる、と言う意味です。このような仏が日本古来の神になって教えを説くことを「和光同塵」といいます。
2番目は、流行のものをあつかった歌。これがちょっとおもしろい。
「武者の好むもの 紺よ紅 山吹(やまぶき) 濃(こ)き蘇芳(すほう)
茜寄生樹(あかねほや)の摺(すり) 良き弓胡ぐい(やなぐい)
馬鞍(くら)太刀腰刀(こしがたな)
鎧兜に 脇立(わきだて)籠手具(こてぐ)して」
まるで早口言葉みたいですね。これは当時の武者の好みを連ねた歌なんです。貴族が淡い色を好んだのに対して、武者たちは濃い色合い、目にもあざやかな紺や紅などの派手で目立つ色彩が好みだったんですね。
そして3つ目の大事なテーマが、人々の日常を歌ったもの。
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。こういった内容を歌にした歌謡は、今までなかった。流行や人々の気持ちを歌う歌は、今様で初めて現れたわけです。
さあ、このにっぽんXYZでは、これまで古代から中世の始まりまでを見ていく中で、歴史的な事件だけでなく、時代がもつ文化のモード、コードをかなりじっくりと見てきました。いかがでしたか。
平安時代の最初のころでは、漢詩と和歌がまだ並列していました。次に女房たちが現れて物語などをつくり、平仮名が出現し、たいへんに流行しましたね。そして『方丈記』では、日本語というものの記述が変化してきた。
これらを言い直すと、貴族、公家とか、あるいは天皇が担っていた日本の文化が、『山家集』、『方丈記』では、個人の、自分の心の中に映ったものになり、また今様が民衆のものであったように、だいぶ変わってきたということです。平安時代が終わり、鎌倉時代を迎えると、ここから新しい鎌倉の感覚が出てくるのです。それは一言でいうと「リアリズム」というものでした。仏像が表情を持ったリアルな彫刻になり、似絵(にせえ)という写真のような絵画が出てきます。
貴族から武家へ、時代の担い手が変わるとともに、人々の感覚も平安王朝のベールの優美さを脱ぎ捨て、写実の芸術がもたらす迫真の像を求めていくわけです。このように時代の変化は文化のありようと関係している。それも一様ではなく、力を担う階層の変化や国際的な状況など、そのときどきのバイアスが相互に組み合わされているんです。こういった表現と時代の関係を読み解くことは、現代を考えるときにも大きなヒントになっていくんですね。
【「にっぽんXYZ」は今回で、ひとまずお休みをいただきます。ご愛読をいただき、ありがとうございました。】