Wind Quest 風の旅

風になり自然や村や街、今や、昔を、不易流行のヒントを求め探訪します。風雅、風土、風韻、風格、風流、風光、風景、風狂・・・

近江・湖南 芭蕉への旅 その四

2008-01-22 21:11:12 | 芭蕉ゆかりの地を訪ねて

 近江・湖南の地誌的環境

 では、近江・湖南とはどんな処・場所(トポス)だったのでしょうか。近江・湖南の地誌的環境を自分なりに概観しておいて見たいと思います。文中朱文字(小文字は管理者所見)は自分の独断と予見・偏見・こじつけ?で、芭蕉に関係あるとおもわれる事象か、この地に特別の愛着を抱いた素因の一つではないか(でないかもしれないが。)と感じた内容です。

1) 琵琶湖とその周辺の自然史的環境

 琵琶湖は世界でも数少ない「古代湖」のひとつである。「古代湖」とは、生物進化が独自に起きるほどの寿命のながい湖のことを呼び、東アフリカの大地溝帯にある「タンガニィカ湖」「マラウィ湖」やロシアの「バイカル湖」、南米の「チチカカ湖」などがある。琵琶湖が今の場所で今の形になったのは約40万年前といわれているが、琵琶湖の原型ができたのは約400万年前 ( もっと前という説もある)で、これはまさに、人類の祖先がアフリカで誕生し進化をを重ねてきた年月に相当しているという。琵琶湖は、バイカル湖、タンガニィカ湖に次いで「琵琶湖は世界で3番目に古い湖」(今後の研究で変わる可能性もあるという)で、我が国最古・最大の湖 だが、しかしこの「琵琶湖の歴史400万年」というなかには、「古琵琶湖」と「その移動」という重要なキーワードがあり、想像力と科学的理解を必要とする。

 約400万年前の初代・古琵琶湖は鈴鹿山地隆起前の伊賀上野の丘陵地において断層によって落ち込んだ一辺2~6㎞のいくつかの窪みから始まった。(芭蕉も伊賀から・・・三つ子の魂百までもでか、太古のDNAの記憶か。何がしか懐かしかったのか?・・・個体発生は系統発生を繰り返す?。:管理者)当時、現在の琵琶湖地域は今と逆に山地であったことが明らかにされている。その後二世代ほど場所と時代を変えた比較的大きい湖(阿山湖、甲賀湖)を経て200~100万年前には古琵琶湖から現琵琶湖への過渡期になる時代があった。そして現琵琶湖へと成長する湖(堅田湖)が100万年前ぐらいに誕生し、先に書いたように琵琶湖が今の場所で今の形になったのは約40万年前といわれているが、琵琶湖周辺に象やワニの化石が認められるのも、琵琶湖の自然の歴史がいかに長いものかを示している。自然の長い歴史を反映して、琵琶湖には、魚類ではフナズシの材料になるニゴロブナ、ホンモロコ、イサザ、ビワコオオナマズ、(陸封のあゆ:コアユ・ひうおは固有種かどうか微妙だが、最近各地の川に放流されるのを遺伝子の乱れの懸念から控える動きもあるという。)貝類ではセタシジミ、ナガタニシ、イケチョウガイや、スジエビなど琵琶湖の独自の環境にあわせて進化してきた固有種がいる。2000年滋賀県版レッドデータブックでは琵琶湖水系固有種動植物は58種であり、琵琶湖に生息する魚類56種のうち、13種が固有種だという。琵琶湖に人が住み着いたのは旧石器時代、せいぜい4~5万年前に過ぎない。(この琵琶湖の根源的・原初的ともいえる歴史の古さと、固有の豊穣さの「類なさ」を鋭い詩的感性の持ち主の芭蕉は本能的。直感的に解っていたのではないか。・・・管理者

  丸雪せよ網代の氷魚煮て出さ   芭蕉

  贈洒堂  湖水の磯を這い出でたる田螺一疋、芦間の蟹の鋏を恐れよ。牛にも馬にも踏まるる事なかれ。(琵琶湖の葦の潟にはヒメタニシという田螺も棲息。

    難波津や田螺の蓋も冬ごもり     芭蕉 

  あまのやは小海老にまじるいとど哉 

    十六夜や海老煎るほどの宵の闇    芭蕉

Dsc_0448_2 参考リンク:びわこ産湖魚佃煮 松田魚伊商店 大津市(旧膳所)西ノ庄10-29

参考記事Ⅰ西日本の主要な淡水域はつながっていた・・・400万年以前、鮮新世(約500~200万年)の時期に原日本列島が大陸と地続きの平原だった頃、その西部には、第二瀬戸内湖沼群が広がっており、今の濃尾平野木曽三川流域、琵琶湖淀川水系、岡山旭川水系、筑後川水系の地域はつながっていたとみられる。この地域は、今でも日本列島の中で淡水魚類の豊富な地域となっている。

参考記事Ⅱ古琵琶湖は一時瀬戸内海と接していた・・・琵琶湖の南端から約20㎞の宇治市や現湖岸から約20㎞の日野付近で、約100万年前のカキの化石が発見されていることなどから、その頃琵琶湖は一時期瀬戸内海に接続いていたものとみられる。また、湖には色々な貝がが生息しているが、そのなかには琵琶湖の歴史を記録している貝がある。セタシジミがその一つであるという。セタシジミ江戸時代膳所藩主が養殖をしたことから湖中に繁殖するようになったが、もともと海水の混じったところにしか棲息しないヤマトシジミの進化したもので(淡水でしか棲息しないマシジミは雌雄同体で、セタシジミはヤマトシジミと同じく雌雄異体である。)、従って琵琶湖が瀬戸内海にじかに接していた時代があったことの一つの証拠になるものだとされている。

参考文献:「琵琶湖から学ぶ 人々のくらしと環境」 滋賀大学教育学部付属環境教育湖沼実習センター編    「内湖からのメッセージ 琵琶湖周辺の湿地再生と生物多様性保全」 西野麻知子・浜端悦治編   「琵琶湖水底の謎」 小江慶雄著   「水辺のくらし環境学」 嘉田由紀子著   他                      

2) 琵琶湖周辺の先史時代

縄文時代琵琶湖周辺(現滋賀県)の先史文化は、前縄文時代の遺跡がほとんど地下に眠っているために、その記述にあたっては縄文時代からが主であるという。縄文時代の遺跡には湖岸に接するものと、山地または扇状地の上に位置するものとの二群があり、この二群はお互いに分布と時代を異にしている。我が国の先史時代で6000~7000年以上の長期間存続した縄文時代は、早期・前期・中期・後期・晩期の五期に大別され、さらに地域ごとに約30の小文化期に細分されるが、琵琶湖地方の縄文遺跡は、その五期全期におよんでいるという。その分布を見ると、湖岸の低湿地遺跡湖南(例:石山貝塚から湖東にかけて分布し早・前両期に属するものが多く、山麓の高地性遺跡湖北を中心に分布し中期に属するものが多い。このほか後・晩期の遺跡数は少ないが、湖北の山麓と湖南の湖岸にそれぞれある。琵琶湖の北と南に縄文遺跡分布の二大中心のあるのは、琵琶湖が日本の西に発達した縄文文化の文化的特徴と相関し、その文化的接点をなしていたことを物語っている。この二面的な縄文文化のひろがりは、琵琶湖が地理的に東西日本の文化的境界をなし、長期間東西文化の緩衝ならびに融合地帯としての役割をになってきたことを示している。またこの頃の琵琶湖岸の湿地帯の周辺はハンやコナラを中心とした豊かな照葉樹林が広がっていたようで、縄文人の生活にとって適した環境だったようである。

  路通の「芭蕉翁行状記」によれば、芭蕉は膳所・義仲寺に葬られたいとして「ここは東西のちまたさざ波きよき渚なれば生前の契り深かかりし所也」と言い残したとある。

  ハン・コナラ・タブ・樫・などは照葉樹林の構成樹であり、芭蕉が幻住庵に入庵したときの幻住庵の周りは神社の鎮守の杜であったこともあり保存された照葉樹林であった。椎の実は食料となり隠者と縁があるとはいえ、椎の木にたのむ心性のなかに、日本人の縄文の記憶が感じられないであろうか。

  先たのむ椎の木もあり夏木立

参考記事Ⅰ琵琶湖のかたちの変遷・・・古琵琶湖層(かって湖底だった白灰色粘土層と化石を含む)の分布によって、およそ100万年前の古琵琶湖のかたちは、今の琵琶湖の二倍ぐらいの広さをもっていたと推測される。その後は湖底の段丘線から10万年前の湖のかたちが、現在の約二分の一ぐらいに狭まっていたようだ。その後一万年前を中心とする年代に陥没のため湖のひろさは増したが。現在の湖よりやや狭く、さらに1000年前頃(平安延喜の頃)にまた広がり現在は逆に狭小化の現象が見られるという

参考記事Ⅱ:比良山地、琵琶湖北湖の地形・景観は断層運動・地震の所産?・・・1995年1月17日の阪神淡路大震災は、その甚大な被害と、あらためて日本における地震対策・防災のあり方を深刻に提起しました。しかし地質学的時間の中では「起こるべくして起きた」のであって、六甲山地と「大阪湾~瀬戸内海」の地形そのものが、この長い地質学的時間の中での断層運動・造山活動の所産であったという事実をおもい知らされました。実は琵琶湖の北湖の「比良山地~北湖湖盆」も、この「六甲山地と大阪湾~瀬戸内海」とよく似た性格なのだそうです。六甲山地と同じように比良山地も花崗岩でできていて、比良の花崗岩が断層運動によって隆起し、一方琵琶湖側は相対的に沈下しているそうです。(そういえば、堅田あたりから見た比良山系は、須磨・明石あたりから見た六甲山地の姿と何か似ています。⑥・・・管理者)琵琶湖西岸では湖底・湖岸に断層が存在しています。西岸にくらべると比較的緩傾斜の東岸においても、最近湖底断層が見つかっており、古琵琶湖もふくめ琵琶湖の歴史は、全体としてこのような断層運動を中心とする大地の動きによってつくられてきたのです⑦⑧⑨(「琵琶湖から学ぶ 人々のくらしと環境」 滋賀大学教育学部付属環境教育湖沼実習センター編より)

  芭蕉が近江八景を詠じたという句(存疑)のうち、須磨・明石になぞらえたものがある。芭蕉真作か疑義はあるが、その時代、湖南の風光を須磨・明石になぞらえても不自然でなかった文化的な空気があったことが解る。

  近江八景・石山秋月    

    汐やかぬ須磨よこの海秋の月(あさかり)

  近江八景・矢走帰帆

    夕霞明石の浦を帆の表    (あさかり)

  ⑦比良三上雪さしわたせ鷺の橋  芭蕉

  ⑧「洒落堂記」

 山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情を癒す。静・動二つの間にして、すみかを得るもの有り。・・・・そもそもおものの浦は、勢田・唐崎を左右の袖のごとくし、海を抱きて三上山にむかふ。海は琵琶のかたちに似たれば、松のひびき波をしらぶ。日えの山・比良の高根をななめに見て、音羽・石山を肩のあたりになむ置けり。長柄の花を髪にかざして、鏡山は月をよそう。淡粧濃抹の日日にかわれるがごとし。心匠の風雲も亦是に習ふ成るべし。       はせを

   四方より花吹き入れてにおの海 芭蕉

  行く春を近江の人とをしみける   芭蕉

 去来抄に「先師曰く、尚白が難に、近江を丹波にも、行く春は行く年にもなるべしといへり。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春を惜しむに便りあるべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都にをとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行く年、近江にゑたまはば、いかでか此の感ましまさん。行く春、丹波にゑまさば、もとよりこの情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかなと申す。先師曰く、汝や去来、ともに風雅をかたるべきものなりとことさらによろこびたまひけり」

弥生時代:今から約2300年前、日本列島に大陸からその栽培技術とともに大陸から稲作が伝わってきた。(イネそのものは縄文時代後期には伝わっていて最近は一部栽培の可能性が指摘されてきているが)弥生時代になって人為的にか、琵琶湖周辺の植生が照葉樹林から二次林であるアカマツ林が目立つようになったようだ。この時代度重なる河川の氾濫で、湖岸に水田耕作に適した場所が広がり、湖辺のあちこちに農耕集落が営まれた。守山市の服部遺跡、安土町の大中の湖南遺跡など弥生前・中期の遺跡がある。弥生時代は、日本で最初に稲作文化が定着した時代であると言うのが一般的な理解であるが、稲作をひろげた人々はまた舟を利用し、かなり移動性に富んだ集団だたようで、その証拠に大きな弥生遺跡跡は舟の利用しやすい場所に作られていることが多い。(例:湖南遺跡)こうした弥生遺跡は単なる農村ではなく、物資の交換などを行う地域の交易センターの役割をはたしていたのではないか。特に広域的な交易・水運に便利な琵琶湖周辺のこの地域では、その傾向が顕著で、広域的なネットワーク交流の形跡がかなり認められるという。

 弥生の集落は、稲を作ることと舟を主要な交通手段としていたため、湖や川に近い低湿地に営まれた(低地性集落)。しかし、起源一世紀から三世紀ごろ、弥生中期・後期になると、集団が高いところに住み始める。この時期、社会的に非常に大きな緊張状態(戦乱状態)にあった時代で、そうした集落を「高地性集落」と呼んでいる。弥生時代中期の近江最大の巨大環濠集落跡である下之郷遺跡、中央に方形区画を有する弥生時代後期の伊勢遺跡、24個の銅鐸を出土した大岩山古墳群などの遺跡がある。

参考記事Ⅰ:待たれる湖底遺跡の全面像の解明・・・葛籠尾崎湖底遺跡の謎:大正十三年の暮れも押しせまったころ、湖北・尾上の漁師が葛籠尾崎の約三十尋(一尋は約1.8メートル)あまりの深さの湖底から初めて網で引き上げて以来、多くの土器がここから次々に引き上げられた。不思議なことに、これらは縄文、弥生から奈良まで、まんべんなくわたっており、しかもほとんど完全な姿のまま水中に眠っていた。この不思議な遺跡の成立過程の解明には、考古学のみならず気候学・地理学・民俗学・宗教学・海洋学・湖沼学等などの学際的・総合的な解明を必要としており、また湖北にはこの水域をふくめ多くの興味ある伝承が残され、遺跡と伝承をつなぐ領域の解明には想像力も必要であり、夢とロマンをかき立てられる。・・・その後、この葛籠尾崎湖底遺跡について多くの調査・研究がなされて来たが、いかんせん70メートルもの水深の水の壁に阻まれ、技術的な課題もあり,未だこのたぐいまれな遺跡は解明途中である。琵琶湖水域にはこの葛籠尾崎湖底遺跡のほかにも湖底遺跡は、粟津・膳所本町地先(両現大津市)や近江八幡沖の島周辺・宮ヶ浜、旧新旭町森・針江、深溝の湖底遺跡など八十カ所ほど知られており、近年粟津湖底遺跡、針江浜遺跡など水深の浅いものは解明が進んで、琵琶湖の水辺をめぐる生活・文化・環境史などのトータルな解明が期待され、今後の水中考古学などの学問分野の進展と詳細な調査・研究が待たれる。葛籠尾崎湖底遺跡情報:湖北町尾上公民館  滋賀県文化財学習シート:葛籠尾湖底遺跡  日本の神秘:海底・湖底遺跡集リンク

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参考記事Ⅱ:わりスムーズだった?近江の縄文と弥生の交流・・・縄文時代の終わりから弥生時代の最初期の遺跡を調査すると、縄文時代の特徴を持った土器(「突帯文土器」:とったいもんどき)と、弥生時代の特徴を持った土器が混在して出土することがたびたびあります。このようなことから考えると、この近江にやってきた弥生人は、多少の衝突はあったかもしれませんが、比較的スムーズに、もとから住んでいた縄文人のムラと交流を深め(もしかしたら一緒に住んでいたかもしれません)、徐々に溶け込んでいったのかもしれません。(滋賀県埋蔵文化センター:埋もれた文化財の話より)

参考記事Ⅲ:湖畔の弥生集落の祈り、呪的信仰の痕跡?木製彫像・木偶・・・琵琶湖周辺の弥生遺跡、特に方形周溝墓の溝からは、お供物を入れていたとおぼしき土器や、葬祭などの際に使われたと考えられている木偶(もくぐう)などが発見されることがある。これらの木偶は何を物語るのであろう。これらは縄文の呪術性の高い文化を引き継ぐものと同時に、琵琶湖の水位の上下や、度重なる洪水など弥生の土木技術では守りきれない集落の稲作など生産手段・管理の脆弱性に対し、ムラの連帯性や農耕の継続性を精神的に保証していくための儀礼に登場したのであろう。(イコンとしての大津絵の呪術性の伝統また、弥生も後期・後半になると、地域社会の統合が進み、環濠集落の中に首長の台頭や、銅鐸の用途に対する宗教儀礼の変化によって(宗教儀礼の道具から権力の誇示へ?)、野洲町大岩山遺跡のように多数の銅鐸が一カ所に集められたと思われる例もある。滋賀県埋蔵文化センター:埋もれた文化財の話  小江慶雄著「琵琶湖水底の謎」  「滋賀県の歴史」山川出版

参考記事Ⅳ:度重なる地震の痕跡、湖底に沈んだムラ・・・琵琶湖の水位は瀬田川からの湖水の流出量の多少に主に左右されるが、水位と陸地との相対的高低関係は局地的ではあるが、地震による地殻変動にも左右される。1995年1月におきた兵庫県南部地震は、マグニチュード7.2で、それのよる液状化現象により、大きいところで二メートルもの地盤沈下があった。琵琶湖周辺には、記録に残るだけでも古代からマグニチュード七前後の多くの地震が起きていて、寛文二年(1662年、芭蕉19才)、湖の周辺一帯に大被害を与えたマグニチュード7.5前後と推測される大地震など、数え上げればきりがない。そして実際に地震により湖底に沈んだとおもわれるムラが発掘されている。湖北西部、高島市旧新旭町針江の湖岸から沖合に広がる針江浜遺跡がそれで、現湖岸から沖合140~200メートルの地点で噴砂跡が検出された。噴砂跡が見つかったのはその第二遺構面で、この遺構面には大規模な液状化現象による噴砂跡がみいだされ、吹き上げた砂が第二遺構面に広がった状態で認められた。この為、弥生中期前葉にマグニチュード6以上の大地震が起きたことがわかった。この遺構は弥生中期前葉の時点でかなりの地盤沈下を起こしたと思われるが、その後、古墳時代にまた人が住むこととなり、その後の地震でまた沈下、湖底に没した可能性が考えられる。(滋賀県の歴史」山川出版より)

参考記事Ⅴ:弥生中期頃、安曇川河口の湖畔には朝鮮半島の青銅器文化の影響の色濃い弥生集団(有樋式鉄剣の出土など)が定着していたようである。事実、この地は海洋民族の安曇族の一群が移住・定着した土地だといわれている。その頃、湖の北部には、安曇の他に物部・息長・和邇の集団が形成されたようである。安曇族は古代栄えた有力な海人族で、綿津見の三神(海神)を祖とし博多湾を擁する筑紫国の糟屋郡安曇郷(魏志倭人伝の奴国にあたる)を本拠地とし、安曇は渥美・安積とも表記されるが、もともと同一祖先から分かれた海人の居住地を表しているという。この安曇族がいつごろ、どのような経路で湖西に定着したのか明らかでないが、「万葉集」の「志賀」の枕詞「神楽声波:ササナミ④⑩⑪はもともと博多湾の志賀島の枕詞で、それが近淡海にかかるようになったのは、安曇の首長に率いられた志賀の海人族の移動によるものだとされている。小江慶雄著「琵琶湖水底の謎」より)

  近江蚊屋汗やさざ波夜の床  芭蕉

  さざ波や風の薫の相拍子    芭蕉

古墳時代:古墳時代の約300年を言い表す場合、前期・中期・後期と三期に分け、ほぼ四世紀・五世紀・六世紀をあてている。その前後の時期を発生期、終末期と呼んでいる。滋賀県の前期古墳時代を代表するのは、弥生の湖南遺跡の近くの安土瓢箪山古墳(全長160メートル)で大津の皇子山一号噴もこの期のものである。中期では、膳所茶臼山古墳があるが、この時期、全国的な古墳の巨大化の時期にもかかわらず、京都・滋賀では、どういう訳か巨大化しておらず、全長122メートルである。後期の古墳としては、高島市の鴨稲荷古墳がある。金製の耳飾りや金製の冠、金でつくった沓など、朝鮮的な副葬品がセットで埋葬されており、新羅(近くには白髭神社という新羅との関係の深さをおもわせる神社がある)の支配者の政治的な儀式のスタイルを踏襲しており、前記・参考記事Ⅴの安曇族の移住・定着と共に半島との交流の歴史をうかがわせて、注目に値する。滋賀県の西部から(三尾君氏か・・・東部坂田郡の息長氏・坂田氏との関係もあったという説あり)越前にかけての地域を政治的な基盤として登場する継体天皇を生み出した勢力で、継体帝より一代前ぐらい前の世代のものである可能性がある。近江の古墳時代は、中小豪族が盤踞し、近江全体を束ねる大豪族は存在しなかった。中小豪族はそれぞれの支配地域で奥津城としての古墳群を残している。(「滋賀県の歴史」山川出版他より)

参考記事Ⅰ:近江には渡来人の足跡を示す伝承やが縦断し、「記紀」「正倉院文書」他など文献資料や、木簡資料からも域内各地で渡来人の活躍を示す資料や、遺跡にもそうした痕跡が認められる。滋賀郡の現在の坂本・穴太・滋賀里・南滋賀・錦織の一帯は、古代において大友郷・錦部郷と称され、「志賀漢人」と総称される渡来人達が本拠地としていた。坂本から錦織まで現在800基前後の後期古墳が確認されており、その大半が渡来系集団(一部はその集団を包摂した在来氏族のものか)の墓と考えられている。県下で、この他渡来系墳墓と見られる主なものに「和田古墳群」(栗太郡)「三ッ山古墳群」「天狗前古墳」「竜石山古墳群」(以上、蒲生郡)、「金剛寺野古墳群」(愛知郡)、北落古墳群・塚原古墳群(犬上郡)、などがある。それら墳墓の近傍には渡来系集団の集落跡と見られる遺跡例も確認されている。こうした渡来人がこの時期どのような活躍をしたか具体的な状況は明らかではないが、大陸・半島の種々の先進技術の伝承や、七世紀後半には大津京(大津宮?)の造営などに大きくにかかわっていったとみられる。(「滋賀県の歴史」山川出版他より)

参考サイト:志賀県立琵琶湖博物館 常設展示 仮想見学ツアー

 

「近江・湖南 芭蕉への旅 その五」につづく


2007年我家のエコ・エコの旅

2008-01-16 11:18:56 | エコエコ・活粋の旅

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 2007年の我家のエネルギーデータ(電気、ガス、上下水道)を集計しました。また、そのCO2の排出量も試算してみました。自家用車の維持・管理(ガソリンは今現在月に約30リットル程度、必要以外はなるべく乗らない。エコドライブの遵守。長期コーティング処理で石鹸洗車はやめ水洗いのみとする。買い換え期間を延ばす。)、飲食料(フードマイレージ、廃棄物の低減を意識した買い物をする。)、廃棄物(ゴミの減量・分別、エコクッキング、レジ袋の不使用などに努める。)などは数値化していませんが、今後の課題です。これを活かして、これからも少しずつ我が家のエコロジーエコノミー健康・快適・安全・安心・美を追求しながらコスト管理、環境負荷の低減、特にCO2排出節減。)を進めて行こうと思っています。(グラフ画像はクリックすると大きくなります。)

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 結果として、データを取った分野では、コストで93%、CO2排出量で88%、昨年より削減できました。これは

  • 夏の遣り水・打ち水に風呂水・雨水を利用したこと。
  • 外部に日よけ(植物、ルーバー、すだれ等)を工夫したこと。
  • 暖房補助(我が家では空気熱ソーラー設備:OMソーラーシステムを設置しています。)に熱効率の悪い電熱型温風ヒーターをやめ省エネ型ヒートポンプエアコンにし、冬期、熱交換効率の良い外部気温の上がった時間に稼働したこと。
  • 窓ガラスに部分的に断熱シートを貼ったこと、カーテンをできるだけ遮熱性の高い物に変えたこと。
  • 照明・電球をこまめに消灯、省エネ型(蛍光電球、LED電球、タイマー自動点滅。)に変えたこと。

等の効果によるものだと思われます。ちなみに、この光熱分野のみでの我が家の2007年のCO2排出量は約5.1トンでした。NEDOのデータによる各家庭の全国平均はこの分野で約7.4トンらしいですから、全国平均からすると約68%ですが、全国平均には北海道・東北など寒冷地も含まれており、満足できる数字ではありません。再度ちなみに、電力会社関連のエコキュートの営業の方の話によると管轄の電力会社のこの地域での標準4人家族の平均の電気料金は約1万2千円(我が家は約2万円)、都市ガス料金は約7千円(同じく我が家は約8千円)だそうで、趣味・仕事場である書斎兼アトリエ・オフィスを併設しているとはいえ、まだまだ努力不足です。今後もできることからコツコツと、無理せず楽しんで工夫を重ねて行こうと思います。

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 我が家のエコ・エコ次の一手は?

参考情報: 鍋帽子.  OMソーラー自立型(太陽光発電利用)ハンドリングボックス他  (リフォーム用ペアガラス)日本板硝子 旭硝子     壁面緑化

参考情報:NHK ご近所の底力 CO2削減チェッカー  OSHARECO(オシャレエコ)栄2Rマップ   環境省チーム・マイナス6%


大津・京の年末プチ旅の楽しみ方

2008-01-02 14:03:42 | 愛知・名古屋の地域探索

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 比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋   芭蕉

 近江・湖南 芭蕉への旅 もちょっと疲れがでてきたので、年末でもあり、ここらで少し肩の力を抜いて、一休み。家族で年の瀬、大津・京の気軽なプチ旅行としました。大津で件のJR膳所駅近くの義仲寺をお詣りしてから、旧東海道筋を西へ、古民家に移転した魚忠( ここで昼食の手Dsc_0442 も )を見て、札の辻地図情報:大津宿・札の辻)を越えてすぐの鮒寿司で名高い坂本屋で湖魚の加工品、中町通りのアーケードの平井商店のにごり酒など確保しながら(尾花川の漬け物の丸長まで行って、あの沢庵のルーツと言われる比叡山里坊秘伝の定心坊沢庵を手に入れたかったのですが、今回は断念。大根を稲わらで漬けた一品でかなり香りがきついが味わい深い。稲わらの乳酸菌・納豆菌?の効果かなあ。スローフードマニアは是非一度はご賞味を。)大津の老Img_0770 舗ホテルの琵琶湖ホテル(昭和 9年大津の官民が結集して創業。外国人観光客の誘致を目的とした。ヘレン.ケラー、ジョン.ウエインなども宿泊している。旧琵琶湖ホテルは岡田信一郎設計、現琵琶湖ホテルが1998年浜大津に移転した後、大津市K488900v が取得、2002年にびわ湖大津館としてレストラン、ウエディング、ショップとしてリニューアルオープン。現琵琶湖ホテルはアメリカの建築家・シーザー.ペリの設計、京阪電鉄系の経営となっている。)にチェックイン可の2時過ぎ、即宿を取り、天然温泉にゆったり。・・・ちなみに、この新琵琶湖ホテルのある浜大津から膳所までの湖岸は、昭和初期からの埋め立てですっかり様子が変わってしまっています。湖岸に近い所に高層ホテルやマンションが立ち並び、町からの琵琶湖の眺望はすっかりなくなっています。このほうが開発しやすかったのでしょうが、なにか町中の景観が閉じられていて、せっかく歴史上の多くの人々が愛でてきた(芭蕉も)街の共有の財産である湖岸の風景が何かすごくもったいないような気がしました。例えば、湖岸に向かう道筋や川筋の眺望を少しでもオープンにしていく工夫(昔の旅人が大津八丁を抜けて急に開ける琵琶湖の眺望に感動したように)をして、町のそこここからでも琵琶湖を感じられるようにしていったらどうでしょうか。それはまた夏の風の道ともなって町中に涼風をもたらしてくれるかもしれません。旅の者のささやかな提案です。愚句一句。

 路地・小川 湖岸に向かう 風の道

 夕方暗くなった頃、すぐ近くの京阪浜大津から京阪三条まで市電のような電車に乗り約20分(近い!)。以前から一度行きたかった植竹隆政シェフのリストランテ カノビアーノ京都にいきました。朝取りの京野菜をシェフ自ら厳選して仕入れ、にんにく、唐辛子、バター、生クリームなど一切使わないという京野菜イタリアンのニューウエーブのお店で、野菜本来の自然な甘みや香り、歯触り、舌触り、優しさなどを堪能しました。特に印象に強く残ったのは、鷹峯ねぎ(九条ねぎの二年物のことだそうです)とトマトのパスタです。白葱の甘みと香辛料・乳製品を使わないトマトソースが、今までのイタリアンにはないほっこりした優しい味わいをだしていて、伝統を感じさせながらも新しい、底冷えの京都の冬に気持ちも温まる新感覚のレシピ(うーん。京マンマ・京都おふくろの味のパスタ?)の誕生を感じさせました。また、いわゆる京風・安直でムード的な京ブランドの安売り的・大衆迎合的な売りに頼らない、その土地固有の本物の味を追求しているところも、大変好感を持ちました。Img_0756 Img_0751 Img_0754 

(画像は左、店夜景外観、中央「クモコのポアレ 聖護院大根ソース」と右「鹿のグリル 京野菜添え」です。)  食後は年の瀬でにぎわう先斗町、祇園界隈を散策、白川をすこしさかのぼり、人影もまばらな行者橋付近の風情をめで、千日回峰行の行者の修行を想いながら、京阪三条東山から大Img_0766_2 津のホテルに帰りました。翌朝は朝湯にのんびり浸かった後、我が家の正月準備も兼ねて、大津・滋賀のお菓子、買いそびれた魚介加工品、農産品、大津絵、漬け物、地酒など、しっかり買い込んで家路に着きました。

 年末の京・大津。民家の軒ぎりぎりに一生懸命走る京阪電鉄の町場的 ヒューマンスケールを愛おしんで、愚句また一句。

   年の瀬や 軒先かすめ 京・大津