Wind Quest 風の旅

風になり自然や村や街、今や、昔を、不易流行のヒントを求め探訪します。風雅、風土、風韻、風格、風流、風光、風景、風狂・・・

神沢杜口「翁草」への旅

2007-10-31 12:30:45 | まち・むら・さと探訪

 今日は、物理的な旅ではなく、本の旅のレポートです。右の「本の旅」欄にも紹介してありますが、最近、現北里大学名誉教授・医学史の立川昭二先生の書かれた「足るを知る生き方 神沢杜口「翁草」に学ぶを読みました。「足るを知る・知足」ということばは元来は「少欲知足」・・・というお釈迦様の教えからの言葉らしいのですが、以前からあまり好きな言葉ではなく、庶民に封建的・儒教的な忍従を強いる道学者・禅坊主(失礼!)のたぶらかしぐらいに思っていました。立川先生は、かの貝原益軒の「養生訓に学ぶ」という本もかかれていまして、その中で益軒先生も「知足」を言っておられましたが、自分自身まだその言葉が合点がいかなかったのです。

 今回この「足るを知る生き方 神沢杜口「翁草」に学ぶ」を読んで、なにか胸に落ちるものがありました。かの杜口さんにとって「知足」とは決して従来の消極的な忍従の生き方ではなく、どんな時代でも自由に自立的に生き続けるため指針・人生哲学だったのです。詳しくは本書の内容にゆずりますが、彼が女一人旅の俳人菊舎について書いた言葉を引用しておきます。

 人は気を養うを、養生の第一とすると、そが為に菊舎が事をも爰(ココ)に引けり、なべて人喜怒哀楽に執着して気を休むる暇なし、もともと世に交われば、是を離れ得む事はかたし、ただに此着(執着)を離れて、七情の向かふ処に任せたらんには、此煩ひなからまし、物に深く着する故に、もろもろの病ひはた災おこる、ふるき文にも、聖人は物に凝滞せずとこそ見えたれ、穴賢(アナカシコ)はやり出んとする心の駒に、手綱ゆるすべからず、

 この「翁草」は、かの森鴎外の名作「高瀬舟」「興津彌五右衛門の遺書」の素材にもなっており、また京物時代小説を書かれている澤田ふじ子氏の「京都 知の情景」の種本にもなっていて、前から多少は知っておりました。作者の杜口の生きた時代は江戸中期、将軍でいうと六代家宣から十一代家斉まで(1710~1795)で、高度成長期も終わり消費経済の進んだ低成長時代、井原西鶴のいう「詰まりたる世」であり、何か今の日本の社会状況と類似した時代です。杜口は同時代の蕪村や池大雅などとともに「都の美」を愛でる「都会派文人」で、時代の気分は、もう一時代前の芭蕉の様に旅が求道の意味を持っていた時代ではなくなっており、慎ましやかな市井の暮らしのなかの楽しみを、味わい創りだす、立川先生の名付けられたところの「シティ派老人のオシャレな生き方」(自分的には、老人というは気に添いませんが)を貫いた人でした。現代の日本(地球規模かもしれません)、特に、この「Wnd Quest 風の旅」のテーマ:「持続可能な粋な都市生活」には大変参考になると思った次第です。

 神沢杜口(1710~1795):江戸時代中期京都の雑学者、随筆作家、俳諧をよくする。今でいうドキュメンタリーライター・エッセイスト。京都町奉行所の与力を早く40代前半で辞して家督を娘婿に譲り、以来86才で卒っするまで自適の生活を営み、その間に身の周りの世相のあらゆる面の記録を歩き集めた翁草100巻、続翁草100巻、ちりひじ30巻など膨大な著書を編纂した。

足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ 足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2003-12

神沢杜口参考サイト   菊舎について参考サイト:新菊舎慕情


シルクサミット 2007 in 蚕都上田

2007-10-20 22:35:11 | NPOマルベリークラブ中部関連

 以前記事にしましたNPOマルベリークラブ中部の藤沢秀機氏が、この10月11日~10月13日に信州上田で開催された「シルクサミット2007 in蚕都上田」で活動報告をしました。氏の承諾も得て、その報告のレジュメを掲載します。また、シルクサミット関連の参考サイトもご紹介します。また、その折のレセプションで富岡のシルク産業遺産を研究されている佐滝剛弘氏に出会い、氏が最近まとめられた著作「日本のシルクロード・・・」を紹介されたそうです。その著作もあわせてご紹介しておきます。

サミットNPOマルベリークラブ活動報告レジュメ「07.doc」をダウンロード

サミットリーフレットURL  

日本のシルクロード―富岡製糸場と絹産業遺産群 (中公新書ラクレ 257) 日本のシルクロード―富岡製糸場と絹産業遺産群 (中公新書ラクレ 257)
価格:¥ 819(税込)
発売日:2007-10
付記:桑といえば近江・安土に桑実寺という古刹がありまして、去年の秋、信長ゆかりの・・・という事で、訪ねたのですが、現地で日本の桑の栽培の起源と深い関係があるとの由緒を知りました。興味のある方は訪ねてみてください。いやぁ、長い階段でした。桑実寺情報  

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関連事項サイト:京都太秦蚕の社


名古屋の起点、鎮守、街道、蕉門

2007-10-16 21:08:16 | 愛知・名古屋の地域探索

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 今日は午後から時間ができたので、一度訪ねたかったルートで名古屋の町中を歩きました。市バスを外堀通り(本町)でおり、まず那古野神社です。創建は延喜11年(911)。古くは天王社、亀尾天王社と呼ばれ、慶長の名古屋築城後は城内三之丸の一角に鎮座することになったため、城の総鎮守、城下名古屋の氏神とされたそうで、まず、ご挨拶です。

Dsc_0371 Dsc_0372  そこから、外堀通りの一本南の京町筋と本町通との交差点へ。そこには道標があり、「北おしろ」 「南あつた」 「西みのじ」 「東ぜんこうじみち」 との文字が刻まれており、これまで何度も通った道なのに、今まで全然気に留まらず、目にも入らなかったのには考えさせられました。 

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Dsc_0377  その辻から、いわば城下町名古屋の背骨にあたる本町通りに沿って南に下り、今の桜通りの一本南の伝馬町通本町の交差点,旧「美濃路」が熱田から北上して来て、西に折れ曲がる地点が城下町名古屋の交通の起点「札の辻」という所で、伝馬会所がおかれ、高札場があったそうです。その様子は「尾張名所図絵」にも描かれており、江戸でいえば日本橋ですね。現場には金属製の碑があり「図絵」と説明文が刻んでありましたが、それ以外は往時を偲ぶものはあまりなく、よく見るとわずかにビルの名前などに、「名古屋商品取引所」など商業流通の中心性を感じさせるものがあり、それ以外は錦三の界隈性に飲み込まれた風情でした。             地図情報:札の辻

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Dsc_0389  次は、この「札の辻」を東に真っ直ぐの飯田街道(岡崎街道と言うのが本当らしい)方向へ行き、そのまま久屋大通公園に入っていきますと、テレビ塔のすぐ下に「蕉風発祥の地」の碑文がありました。蕉風(門)発祥の地!・・・その頃(元禄)、名古屋はアバンギャルドの発信地だったんですね。こんな所に、こんなものがあったのかぁ。やっぱり灯台(テレビ塔?)もと暗し、ですね。名古屋の蕉門はレベルが高く、七部集の第一集「冬の日」の歌仙を速攻板本し、其角らを中心とする江戸の蕉門を慌てさせたようです。また水もしたたる眉目秀麗な御園町の米穀商の若旦那「杜国」とも出会い、禁断の書といわれる「笈の小文」が世にでるきっかけにもなったようで、鳴海の知足との交流もあり、芭蕉好きにはたまらなく興味をかき立てられます。その後、尾張の蕉門は四分五裂。芭蕉の前衛性ゆえの資質Dsc_0388_2 によるものか、晩年の芭蕉の「軽み」の境地と尾張名古屋の精神風土の乖離があったのか。そのへん面白いテーマではあります。この碑文の地から真東、やがて東南東に飯田街道(岡崎街道)が延びており、「あぁ、ここをゆけばやがて中馬街道を足助を抜け、信州伊那谷にゆけるのか」と、ある種のコスモロジー的な感慨にふけることができます。

Dsc_0391  それから、久屋大通を北に外堀通の一本南手前、先ほどの京町筋の東への延長線上を東へ、鍋屋町商店街を通り国道19号線に当たるまで旧「善光寺街道」をたどりました。名古屋の碁盤目の町割りの何気なDsc_0396 い筋なのに、この「善光寺街道」というパスワードをいれたとたん、通りの店々が饒舌になり、自分の来歴を語り出したような気がしました。以前行った事のある、老舗の料亭、菓子補、釜屋、蕎麦Dsc_0402 屋、寿司屋、油屋、和蝋燭屋などが。その時は、「なぜ、こんな裏道に、こんな老舗が?」と、思ったものでしたが、「裏道」と思ったのは、「無知」のなせる認識で、こちらが表道だったのです。名古屋の町並みは猛烈な空襲にあってますので、名古屋の歴史探訪町歩きには想像力を大いに働かせる必要がありますが。この筋がやがて代官町の現19号線に当たるとこDsc_0398 ろが昔「佐野屋の辻」と言われた辻で、角に道標があり、北面に「京大坂道」 西面に「善光寺道」とあり、善光寺街道はこの角を北に折れ、平田町、赤塚の交差点の一本西をぬって、西大曽根、大曽根、山田、矢田川を渡って、瀬古、庄内川を渡って、勝川へ、遠く大井、中山道、善光寺と続きます。この道筋には名古屋市内にも、興味深い古社・古刹、芭蕉碑、造り酒屋、輪中?の水屋造りなど見所満載ですが、疲れたので、今日はこんなところで。・・・教訓「名古屋では太い碁盤目からちょっと外れた変わった名前の筋や、やや斜めの裏道が面白いことが多い」

参考サイト:古の歴史をたずねて 名古屋再発見   

       名古屋市広報 街道まち歩き

               映像で綴る名古屋の400年

また、名古屋市内の街道・旧鎌倉街道について「まちもよう」さんのサイトが興味深いので、ご紹介します。


いも菓子まつり・名古屋市北区

2007-10-12 22:22:04 | 愛知・名古屋の地域探索

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 私の住んでいる名古屋市北区は名古屋城の北の位置にあり、庄内川、矢田川の合流する場所も区内です。その合流地点の北どなりの味鋺地区に美味しいサツマイモが産するそうで、昔、庄内川は氾濫を繰り返し、味鋺・楠地区は小石混じりの砂地であった。で,熱持ちの良い砂地にできるサツマイモは育ちが早く、お盆を過ぎた頃には収穫できた。若い娘さんの肌のように白く輝いた鰹節のような形の味鋺の早生いもはたいそう人気があったそうな。(味鋺の古老の話ー北・北いもの会資料より)のだそうです。

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Dsc_0378_2   近年、この北区のお菓子屋さんが協力して、この味鋺の早生いもを使って毎年「いも菓子まつり」(主催 名古屋北生菓子組合 北・北いもの会 10月1日~11月15日まで)を開催していまDsc_0357_2 す。今年は全13店の参加があり、左の写真は我が家に一番近い辻町の福寿餅(TEL052-991-1638)さんの鬼まんじゅう鬼あん1981です。味は食材の自然な甘さを生かしたホクホク感のある素朴なものでした。都市化が進むなか、今では数少ない地場の伝統食材を使った地元生菓子屋さんの取り組み、地産地消で、地元の人間としても応援して行きたいものだと思った次第です。下記、いも菓子まつり参加13店の名前、住所、電話番号を記しておきます。なお住所前半は名古屋市北区です。

  • ふじよし 喜惣治一丁目317        901-5826
  • 力餅   楠味鋺三丁目1307     901-9446
  • 喜代雀2店 東味鋺一丁目1402  901-8952                                               901-2225
  • 菊泉   楠味鋺四丁目1202     901-3712
  • 久よ志   川中町13-21           914-2800
  • 福寿餅  辻町4-64              991-1638
  • 松林堂  志賀町4-7             991-0802
  • おくむら 大曽根四丁目6-3       981-3834
  • 若木屋良恭大曽根二丁目8-24 911-3388
  • 伊勢久兵衛東大杉町3-25-4  981-9930
  • ことぶき屋 大杉三丁目10-1     981-5661
  • 長生堂  柳原一丁目27-8     981-5935
  • きた川   大杉三丁目14-7     991-4831

北・北いもの会     味鋺の早生いもの詳細データ

TOPPY NET 記事:名古屋の秋は鬼まんじゅう&味噌カツが和菓子に!?

名古屋市北区まち歩き参考サイト:TOPPY NET>名古屋を歩こう>北区

名古屋市北区史跡散策路参考サイト


近江・日野商人の経営哲学

2007-10-04 17:00:41 | 私の京都・奈良・近江

 10月になり涼しくなったので、以前から一度たどりたかったルートで近江を訪ねました。名古屋から、JR関西線で亀山・柘植まで行き、そこから同じくJR草津線で貴生川、そこで近江鉄道で彦根、帰りはJR東海道線で名古屋まで(大垣と桑名を近鉄養老線を使えば、このルートの完成度はもっと増すかも知れません)、すべて普通料金(快速はあります)でした。愛知、三重、滋賀、岐阜を鈴鹿山塊の周りを一周する形の鈍行の旅で、一般にはあまりポピュラーではないコースでしたが、意外に味わい深く、安くて快適な旅でした。JR東海、JR西日本、近鉄、近江鉄道など提携して企画キャンペーンなど張ると、案外ブレークするかも知れません。人間、既存の境界に縛られがちですが、こんなマージナル(周縁的)な、あるいは境界侵犯的?な(おおげさ・・)コースを訪ねる旅から、何か新しい発見があるかも知れませんね。

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 JR草津線で柘植をでると次の駅は「あぶらひ」(油日)です。ここには甲賀の総鎮守の油日神社がありました。白洲正子が「かくれ里」に書いていたので、この機会に訪ねて見ました。境内には人っ子一人いませんでしたが、美しい静謐な空間の社殿で、地域の人々の時代を超えたしずかな信仰の力を感じました。本来は大和の三輪山と同じく油日岳を神南備山とする自然信仰だったようで、確かに油日岳はピラミッド型の秀麗な姿で、地域のランドマークになっていました。またこの社は、油の神様でも有名だそうで、全国の油関係の仕事の方が奉納された一斗缶が一杯境内にあったのには驚きました。白洲正子氏によれば、この神社所蔵の神事の祭具、「福太夫面」や「ずずい子」なども、大変興味深いものでしたが、これにお目にかかるのは、次のお楽しみとする事にしました。

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 次は、貴生川で近江鉄道に乗り換え、水口へ行きました。ここにある水口城(碧水城)は、二条城丹波篠山城など並んで、城の形式としては大変完成されたものだそうで、三代将軍家光の上洛の折の宿舎になった小堀遠州の作になる大変立派な本丸御殿があったそうDsc_0339 です。また町中には曳山を入れた蔵や、近江兄弟社で有名なヴォーリスの設計した図書館や教会などもよく保存され「民度」の高さを、伺い知る事ができました。

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 次はまた近江鉄道で日野です。。ここは近江八幡、五個荘などと並んで、近江商人発祥の地として有名です。駅前でレンタ・サイクルを借りて、爽やかな秋の日のサイクリングを楽しみました。最初に、今回の旅のメインテーマの近江商人をたずねて近江日野商人館(中山兵右衛門邸)に行きました。ガイドの方が、付きっきりマンツーマンで説明して下さり、楽しい一時でした。ここでこの記事のタイトルの、Dsc_0341k 現代にも通じる日野商人の経営哲学・山中兵右衛門家の家憲を見る事ができました。10項目の簡潔なものですが、昨今のいろいろな企業人の不始末を思うにつけ、身につまされることの多い金言集でした。いただいたリーフレットから現代語訳の部分をご紹介します。

  1. 「役職を利用して私生活で威張るような人間にはならない」という慎みの心を、日常の心がけとせよ。社会に役立つことを密かに実行せよ。
  2. 先祖様のお陰だという慎み深い気持ちを忘れるな。
  3. 不誠実なことは慎め。
  4. 最も良い商品を選び、お客様に売れ。不正な商品、粗末な商品を売るな。多く儲けることは慎め。
  5. お客様への商品は、真心を第一とせよ。
  6. 小さなお客様こそ、かえって大切にせよ。
  7. 見栄をはるような派手な商いをするな。商いはこつこつとやれ。
  8. 決して投機的な相場に手をだすな。
  9. 商売替えをするな。
  10. 従業員をかわいがれ。がんばっている者は必ず誉めてやれ。

Dsc_0345  以上です。よくいわれる近江商人の三方よし(売手よし、買手よし、世間よし)プラスアロファですが、どうでしょうか。昨今の勝ち組への道を急ぐあまり道を踏み外したり、製品偽装や製品欠陥への対応などで顧客の信頼を失った企業人には、耳の痛い言葉が多いですね。永く持続する企業、商売には、しっかりした経営哲学、人間観があるのだということが、よくわかります。またこの町は、戦国の武将蒲生氏郷の出身地で、氏郷はここから伊勢松阪、会津に出世転封され大大名になっていDsc_0344 ます。伊勢商人会津塗もルーツをたどれば、この日野だそうで、そこに戦国の沸き立つようなエネルギーを感じました。町中には、利休七哲に数えられるような茶人でもあった氏郷も汲んだという若草清水という泉などあって、この日野は、また来たい( 特に日野菜漬けが旨い頃に )町になりました。

 旅の最後は、彦根でした。彦根では今年の春からこの秋にかけて彦根城築城400年を記念する行事が開催されており、また世界遺産への登Dsc_0348 録の活動も頑張っているようです。姫路城は城本体、鎌倉は武家の都(運動中)。ここ彦根は、城を含めた城下町全体(城下町の全体構成をよくとどめている。)が登録対象だそうで、なるほど、町中には職人町、足軽組屋敷町、仏壇や各職式の集まった界隈など、城下町の構成要素がよく残っていました。あいにく、見たかった佐和山城一夜城は九月前半だったので見られませんでしたが、Dsc_0352 夜市内の河原町(袋町とも言うらしい。船橋聖一の花の生涯に出てくる)のバーで地元の方々と面白い議論をすることができました。明くる日朝、家への土産の琵琶湖の魚介の加工品などを買い、築城400年のマスコット「ひこにゃん」のフィギアーを記念に一つ買って家路につきました。

 参考サイト:ぐるっと滋賀 東近江スタンプラリー


愛知の名前のルーツ?

2007-10-01 11:15:55 | 愛知・名古屋の地域探索

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 まだ残暑の厳しい9月の末、一度見ておきたかった「あゆちの水」の史跡を訪ねました。愛知の語源は「我湯市」「年魚市」「阿由知」などとされ、「あゆ」は鮎・年魚でもあり、昔は「川の中で湧いてくるように」いたようで、「あゆ」は総じてものの湧き出すことを意味するそうです。で、この場所で湧き出ていたものは、田畑を潤し豊かな産物をもたらしてくれるいい水らしく、また私見では、「あゆ」は饗(あえ)に通じ神に捧げる食物の産する所、また「あえの風」とは、春に吹く幸いをもたらす東風、などやはり豊かな土地を表している言葉のようです。

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 件の史跡の場所は、名古屋市の瑞穂区、瑞穂競技場の東にありました。今は、もう泉も枯れているようで、都市化の波にさらされ、地下鉄もすぐ近くを通って、地下水位もかなり下がり、かっての豊かな水脈も痩せ細ってしまったようです。地下・地上とも都市の水系の見直しは、防災、地域の環境・アイデンティティーの醸成には大事な視点ではないかと思いました。                    地図情報:あゆちの水(伝承地)

 この史跡の近くをかって塩付街道」という古道が通っていたそうです。南の星崎あたりは室町時代から江戸時代、塩田があって、そこで産した塩を名古屋北部へ、東西に走る各街道を縦貫する感じでこの街道は遠く古出来町の北まで通じていたそうです。(図は、池田誠一著、「なごやの古道・街道を歩く」所収。画像をクリックすると拡大できます。)

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Dsc_0331k  この「塩付街道」は自然発生的な道らしく、歩いてみるとなるほど、沿道には「汐路町」「塩付通り」など塩にまつわる地名が散見され、尾張名所図絵に出てくる御器所大根の沢庵漬けもこの塩を使っていたのではないかと推察されます。また街道筋には「古社、馬頭観音、地蔵菩薩、古民Dsc_0333 家(豪農のものか)が、そこここにあり近代都市名古屋のレイヤーの下に、もう一つの名古屋があることを実感しました。

 この街道を歩いてみて、近代的な名古屋の碁盤目の町割りの中を、斜めに、時には途切れ、時には角々に縫って今も残る街道の記憶は、大変新鮮に感じました。ともすれば歴史的な情緒に欠けると言われる名古屋の町を「重層的な歴史の資産」として見直していける一つの手がかりになるのではと、思った次第です。