OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

ブルー・オーシャンへの航路 (ブルー・オーシャン戦略(W.チャン・キム他))

2006-05-31 00:09:35 | 本と雑誌

Ocean_2  本書は、既存の競争市場(レッド・オーシャン)から脱出し、ブルー・オーシャンに至るための具体的activityについても、それなりに具体的に提示しています。
 たとえば、「4つのアクション」です。

(p50より引用) 買い手に提供する価値を見直して、新しい価値曲線を描くために、筆者たちは四つのアクション(the four actions framework)という手法を編み出した。・・・

  • Q1:業界常識として製品やサービスに備わっている要素のうち、取り除くべきものは何か
  • Q2:業界標準と比べて思いきり減らすべき要素は何か
  • Q3:業界標準と比べて大胆に増やすべき要素は何か
  • Q4:業界でこれまで提供されていない、今後付け加えるべき要素は何か

 このアクションの根底は「差別化戦略」の具体化です。差別化を図る方法として、「バリューのメリハリ」という視点から実用レベルの思考のヒントを示しています。

 ポイントは、減要素(「取り除く」と「減らす」)と増要素(「付け加える」と「増やす」)の二面的着眼です。今あるものをスタートに増減を考える方法は、いきなり全く新たなコンセプトを白地で考え出すよりもずっととっつき易い方法です。
 こうやって既成サービスの特性にメリハリをつけエッジを効かせるのです。「訴求力の高いキャッチフレーズ」が浮ぶかどうかがエッジの効きの試薬となります。

 なお、ここでのメリハリが後工程でも重要になります。
 具体的戦略策定段階では、値付け(pricing)の検討があり、さらにそこから確保すべき利益を差し引くと「目標原価(コスト)」が出てきます。
 当然、この目標水準は非常に厳しいものになりますが、この実現のためには、ブルー・オーシャン戦略のコンセプトである「取り除く」「減らす」というメリハリが物を言います。即ち、この競争要素の取捨選択により、従来のコスト高騰要因が少なくなっているということが前提となるのです。

 さて、ブルー・オーシャン戦略は従来からの市場ではない市場をを目指します。
 そこに至る道筋として提示されているのが「6つのパス」です。

(p72より引用) 市場の境界を引き直す方法には主として六種類のアプローチがあるとわかり、これらを六つのパス(the six paths)と呼ぶことにした。・・・

  • パス1:代替産業に学ぶ
  • パス2:業界内のほかの戦略グループから学ぶ
  • パス3:買い手グループに目を向ける
  • パス4:補完財や補完サービスを見渡す
  • パス5:機能志向と感性志向を切り替える
  • パス6:将来を見通す

 これだけがアプローチ方法かといえばそうとは言い切れないでしょう。しかしながら、上記のそれぞれの切り口は確かに実用的だと思います。
 もちろん、ここで提示された切り口は、従来のマーケティングの考え方でも指摘されていました。(たとえば、マクドナルドの競合は、最初はロッテリアでしたが、今ではコンビニ(おにぎり)になっているとか・・・)
 だからといってこの切り口を否定すべきではありません。異なる視座や視点で広く事象を見渡すことの重要性は普遍だと思います。

 このあたりの考え方については、このBlogでも以前、「2つの関係」「「見る」- 考えるための「はじめの一歩」-」でも触れています。

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ブルー・オーシャン戦略 (W.チャン・キム他)

2006-05-29 01:30:28 | 本と雑誌

Ocean_1_2  ブルー・オーシャン戦略が、従前からの各種マーケティング戦略のスキームと同じものなのか、それとも新しいコンセプトなのかはともかく、考え方のベクトルが、「マーケットセグメンテーションの精緻化」による既存マーケットの細分化ではなく、新たなバリューイノベーションによる新規マーケットの創造・拡大に向いていることは、主張の立ち位置として評価すべきだと思います。

(p135より引用) CEOは・・・、価値やイノベーションを、事業ポートフォリオを管理するための重要なパラメーターと位置づけるべきである。なぜイノベーションを重視すべきかといえば、それが実現できなければ、競合他社との比較でしか上をめざさないという罠に陥ってしまうからだ。(この点は、野中郁次郎氏も著書「イノベーションの本質」で指摘しています)価値という尺度も見落としてはならない。革新的なアイデアであっても、顧客に「対価を支払ってもよい」と思わせるだけの価値がなければ、利益に結びつかないのだから。

 ブルー・オーシャン戦略では、「戦略キャンバス」という分析ツール(フレームワーク)を利用します。
 これは、横軸に「競争要因(価格・品質等)」をとり、縦軸に自社や競合他社等のスコアを取って一覧したチャートです。

 この戦略キャンバスに描かれた「価値曲線」の形を、競合他社のそれと「差異をつける」ことが、ブルー・オーシャン戦略策定の第一歩になります。

(p49より引用) 業界の戦略キャンバスを大胆に塗り替えるためには、手始めとして、同業他社から代替産業へ、顧客から顧客以外へと視点を移すことが求められる。価値を高めながら同時に低コストも追求するためには、既存のフィールドで競合他社と自社を比較して、差別化と低コストのどちらか一つを選ぶという、古びたロジックを捨てなくてはならない。・・・従来のロジックに縛られたままでは、業界各社が共通に認識する課題に対して、他社よりも優れた解決策を見出すだけにとどまる。

 ブルー・オーシャン戦略の各論については、さらにコメントを続けます。
 思いの外、この本は具体的戦術を丁寧に書いています。

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古代への情熱 (シュリーマン)

2006-05-28 00:06:27 | 本と雑誌

Troia_1   シュリーマン(Heinrich Schliemann 1822~90)はドイツの考古学者で トロイアの遺跡を発見したことで有名です。

 彼は父親の影響で、少年のころからホメーロス(Homeros)の物語を愛読し、トロイアが実在することを信じていました。そしていつかそれを発掘したいという夢を抱いていました。

(p14より引用) 私の父は文献学者でも考古学者でもなかったが、古代の歴史に熱烈な興味をいだいていた。父はヘルクラネウムとポンペイの悲劇的な壊滅の話をしばしば夢中になって私に物語ってくれたものだが、その発掘現場を訪れるお金やひまのある人をこのうえなくしあわせな人間と思っているらしかった。また父は、ホメーロスの歌う英雄たちの功業やトロイア戦争における数々のできごとについても、感嘆をまじえながら語ってくれたが、私はきまって、トロイア側の熱心な味方になった。トロイアが破壊されて跡かたもなく地上から消えてしまったことを父から聞かされて、私は悲しい思いをした。・・・結局二人は、私がいつかはトロイアを発掘することになるんだということで合意に達したのである。

 シュリーマンは、ホメーロスの古代ギリシャの叙事詩「イーリアス」に描かれたことがらが真実であるとの前提で行動しました。

(p50より引用) シュリーマンはピナルバシに着いたときのことをこう書いている。「正直なところ、ごく小さな子どものころから夢にまで見たトロイアの広大な平野を眼前に眺めたとき、私はほとんど感動をおさえることができなかった。ただ、・・・ひとめ見たとき、・・・ここを訪れた考古学者のほとんどすべてが主張するように、もしピルナバシがほんとうにこの古代の都の区域内に建設されているとすれば、トロイアが海からへだたりすぎているように思われた」この疑問は、ホメーロスに関する彼の詳細な知識に基づいていた。・・・彼にとってはホメーロスの言葉は福音書であり、彼は堅くそれを信仰していたから、『イリーアス』の詩句にぼんやりと示される地形は、自由に創作する詩人の空想の産物にすぎないのではないかという学者たちの疑念など、てんから問題にしなかった。

Mycenae  彼は、「イーリアス」の記述に基づき、トロイアの遺跡はトルコのヒサルリクの丘にあると確信しました。そして、1871年発掘を始め、紆余曲折を経て遂にトロイアの遺跡を発見しました。その後、彼は、ギリシャ本土でもミュケナイ・ティリュンス・オルコメノスなどの遺跡を次々に発掘、大きな成果をあげたのでした。彼の発掘活動により、トロイアのみならずホメーロスがその叙事詩で描いた文明の多くの部分が虚構ではないということが判明したのです。

 少年のころ抱いた想いを果たすべくトロイアの発掘に取り組んだシュリーマンの情熱は、怒涛のごとく邁進する巨大な土木機械を思わせるものでした。

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右肩上がりの幻想 (不勉強が身にしみる(長山 靖生))

2006-05-27 00:15:36 | 本と雑誌

 最近の日本は勉強しなくなった・・・確かにそういう感じはしますね。
 私としても、いままでの自分の勉強不足をかなり後悔しています・・・。

(p43より引用) 小・中学校での教育内容を減らしたからといって、人間が一人前になるために学んでおくべきことが減ったわけではない。小・中学校で減らした分は、後でどこかで学ばなければならない。バブル経済崩壊後に、住宅需要を高めようとして、政府は「ゆとり返済」という制度を作ったことがあった。この制度は、最初の数年間はローン返済額を低く抑えるというもので、いわば借金の先送りだった。・・・
 「ゆとり教育」もこれに似ている。
 将来、自主的に勉強したくなるはずだから、小さいうちから無理に詰め込むのはやめにして、個性を磨こうではないか。そうやって好きなものを発見し、それを特化して能力を発揮できるようにする、という思想だ。
 これは人間の学習意欲(向上心)や思想能力の「右肩上がり」を前提にしている。

 この場合、「右肩上がり」の考え方は「先送り」の考え方と同根です。

 何もしないで「右肩上がり」にはなりません。当たり前ですが、何もしないと「右肩下がり」になるのが普通です。世の中は先に先にと進んでいくのですから、何もしなければ置いていかれるのは当たり前です。
 「将来が右肩上がり」というのは全く根拠のないことです。仮にいくら頑張っていたとしても依って立つところが右肩下がり(たとえば、衰退市場であるとか)だと、やはりダメなのです。

 「将来、自主的に勉強したくなるはずだから・・・」という前提も全く根拠がありません。
 「ある年になると、何のきっかけもなくいきなり勉強に目覚める」ということが起こるはずはありません。勉強の必要性を自覚するにも、その基礎となる思考基盤や価値観の確立、それらによる判断力の醸成が不可欠です。
 これらの「自分の頭で考えるための基礎力をつけること」こそ本来の初等教育の目的であるはずです。
 せめて、「放っておいても右肩上がりに良くなる」と根拠もなく考えるようなことはなくさなくてはなりません。

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不勉強が身にしみる (長山 靖生)

2006-05-26 01:09:31 | 本と雑誌

 以前このBlogで新聞記事についてコメントしましたが、同じような話です。

(p130より引用) 「歴史観」は歴史上の事件や人物に対する評価という形を取るとは限らず、年号のような暗記物にまで、深く関わっている。どの出来事を重要視するかという選択自体、歴史観に影響されている。

 歴史の勉強は、ひとつには「史実」を学ぶということですが、もうひとつはその「史実」にまつわる「歴史観」を理解することです。
 「ここでのこの史実の解釈はこういう歴史観によるものだ」といった感じで理解することが大事だと思います。こういう考え方によると「別の歴史観によると同じ史実でも異なる解釈になりうる」ということが当たり前のこととして受け止められるのです。
 「理解する」ことと「信じる」ことは異なります。

(p176より引用) 最新の量子力学などについて「哲学への接近」がいわれるのは、それが一般人の感覚では理解不能な、何やら神秘的な「信じる」領域に見えてしまうからにほかならない。ずばり言ってしまうと、よく分からないから、理性でなく感性で、「信じる」ことでそれを受けとめようとしているのである。
 このようにして「分かる」を諦めて「信じる」に移行するラインが、すべての人間に存在する。誰でもすべてを「分かる」ことができない以上、理解力の限界の先は、他人の説明なり、何らかの世界観なりを「信じて」納得するより仕方ない。

 「信じる」ことは、良い悪いは別にして、ある種の思考停止状態です。「自分の頭で考える」ことではなくなっています。

 「『自分の頭で考える』範囲を拡げること」が勉強することだと思います。「他人の思考」を辿るのは、自分の頭で考えることの手助けとするためです。

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ソクラテスの弁明 (プラトン)

2006-05-25 00:32:24 | 本と雑誌

Platon  ソクラテスは紀元前399年、国家の神々を認めず新しい神を導入したとして訴えられました。
 プラトンの「ソクラテスの弁明」は、この裁判でソクラテスが行なった自己弁護の記録です。
 彼の弁明にも関わらず陪審員たちの票決はわずかの差で有罪でした。そして、当時の裁判の慣行では、有罪の判決が下ると、被告が自ら刑量を逆提案し、告発人の提案(死刑)と被告の提案を陪審員が選択することになっていました。この慣行に基づいたソクラテスの皮肉に富んだ提案も陪審員の反発を買いました。結果、陪審員たちは圧倒的多数でソクラテスの死刑を決定し、彼はその決定に従い死に至りました。

 死刑を受け入れたソクラテスのひとつの想いは、有名な「悪法もまた法なり」との考えであり、いまひとつは「善く生きる」との信念だったと思います。

 死刑が執行される直前、ソクラテスのもとを訪れた友人クリトンは、彼に脱獄を勧めます。この勧めに対してソクラテスは滔々と諭すようにこれを否定します。これが「悪法もまた法なり」とした論拠の部分でもあります。(ただ、「ソクラテスの弁明」や「クリトン」の日本語訳を見ても「悪法もまた法なり」とのソクラテスの直接的な台詞は見当たりません・・・)
 少々長いのですが、その部分を引用します。

(クリトン:p122より引用) 「それでは、ソクラテス」と法律はおそらく言うだろう。「今君がわれわれにしようと企てることは決して正しいことではないとわれわれが言うなら、それは本当であるかどうか、考えてみてくれ給え。つまりわれわれは君を生み、育てあげ、教育して、われわれの力におよんだすべての立派なものを君にもその他のすべての国民にもわけ与えたのに、それでもアテナイ人のうち一人前の国民になる資格検査をうけて、国における事件やわれわれ法律を見たあとで、もしわれわれに満足しない者があるとすれば、自分の持物を携えて、どこへなりと望むところへ出て行くのを、誰にでも望む者には許すということを、すでに許可を与えた事実によって公告しているのである。そしてもしわれわれと国とに満足しなければ、諸君のうちの誰かが植民地へ出かけて行くのを望むにせよ、またどこか他のところへ行って居留民になるのを望むにせよ、自分の持物をもって彼の望むところへ行くことを、われわれ法律のどれ一つとして妨げもしなければ、禁止もしないのである。しかるにもし諸君のうち誰かがどんなしかたでわれわれが裁判を裁くか、またその他どんなしかたで国を治めるかを見ながら、国にとどまっているとすれば、その人はわれわれが命令することはするということを、事実によってすでにわれわれに同意したのであると主張する・・・」

 この論旨だと、「悪法といえども『法』だから」という短絡的な言い方ではありません。
 「当該国民であることまた当該国法に服することについて、それを拒否(回避)する手段を認めているにもかかわらずその選択肢を行使していないのだから、国法に服することに同意したものと見做す・・・」という大きな前提がつくようです。

 もうひとつ、仮に脱獄して生き永らえたとしてもソクラテスはそのような生き方を決して望まなかったのです。

(クリトン:p114より引用) 最も尊重しなければならぬのは生きることではなくて、善く生きることだという言論も。

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無知の知 (ソクラテスの弁明(プラトン))

2006-05-24 00:33:59 | 本と雑誌

Sokrates  哲学に触れたことがない人でも「ソクラテス」という名前はきっと知っているでしょう。

 ソクラテス(Sokrates 前470~前399)は紀元前5世紀のギリシャの哲学者です。
 彼は一冊の書物も残さなかったといいます。彼の思想は、プラトンら彼の弟子の書物(ソクラテスを主人公にした対話編等)を通して伝わっているのです。

 ソクラテスは、人間として「善く生きること」を追求し、「無知の知」を出発点とする問答法による真理探究をおこなったとされています。
 「無知の知」とは「自分が無知であることを自覚していること」で、ソクラテスが受けたデルフォイの神託における「知」とは、この無知の自覚のことです。
 ソクラテスは、この神託を受けた後、この「無知の知」による問答でソフィストたちを論破していきます。

(ソクラテスの弁明:p61より引用) あたかも「人間どもよ、おまえたちのうちで誰でも、たとえばソクラテスのように、自分が知恵にかけては本当のところは取るに足らぬものだということを知った者こそいちばんの知者である」とおっしゃっているかのように。だからそのために私は今でもなお神様の命令により、歩き回って、この国の人々のうちにせよ、他国の人々のうちにせよ、誰か知者だと思う人があれば、その人を捜して調べているのである。そして私にそうでないと思われるときには、神様のお手伝いをしながら、知者ではないということを示してやるのである。

 このようにソクラテスは、自らは無知を告白して相手に質問をあびせ、巧みに議論をリードし、最後には相手の知識があやふやなことを公衆の面前で暴露してしまうのです。このためアテネ市民の人気を集めると同時に、彼に反感を持つ者も現れました。これがソクラテス裁判の遠因のひとつにもなりました。

 「無知の知」の問答は、「敬虔とは」というテーマで「エウチュプロン」で具体的に示されています。そこでのやり取りについては、巻末の解説でも丁寧に説明されています。
 本書は、巻末の解説が充実していますから、私のように哲学の基本知識の乏しい読者は、解説を読んでから本文を読むと理解が進むと思います。

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ゲーテの「わかる」ということ (ゲーテ格言集(高橋 健二))

2006-05-23 01:13:52 | 本と雑誌

 以前、このBlogでも「わかる」ということについて話題にしました。

 ゲーテの格言集にも、「わかる」「知る」「理解する」といった点についてのアフォリズムが結構見られます。そのうちのいくつかを紹介します。

(p63より引用) 感覚は欺かない。判断が欺くのだ。

(p130より引用) 人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るものです。

 特に後者の箴言は、まさに「わかる」と「わかったつもり」でのissueと全く同じです。「少ししか知らぬ場合」が「わかったつもり」の状態です。

(p170より引用) 経験したことは理解したと思いこんでいる人がたくさんいる。

(p176より引用) 人はみな、わかることだけ聞いている。

 このあたりの警句は、「わかる」という状態が「自分の認識の範囲内」にとどまっていることを戒めています。この状態は、「従来から自分がもっているステレオタイプのスキーマに(単純に)あてはめ」てわかったつもりになっているに過ぎないのです。

 さらに、単に知っているだけでは意味がないことを告げます。

(p179より引用) 博学はまだ判断ではない。

 最後に、今までの論旨とは無関係ですが、この格言集の中で最も納得感があった警句をご紹介しましょう。

(p146より引用) 革命以前にはすべてが努力であった。革命後にはすべてが要求に変わった。

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ゲーテ格言集 (高橋 健二)

2006-05-22 00:06:36 | 本と雑誌

Goethe  「文豪」ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749~1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学者)の作品は、私はまだ一冊も読んだことがありませんでした。今回は、格言集という少々安直なものでゲーテの作品の一端に触れてみることにしました。

 日常の感性として共感をいだくことばもあれば、今までの自分の関心事に共鳴することばもありました。

 前者の例でいくつかご紹介します。

(p116より引用) 喜んで事をなし、なされた事を喜ぶ人は、幸福である。

(p130より引用) 願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。

(p154より引用) 人間は努めている間は迷うものだ。

 また、ゲーテの「自己を重視する姿勢」を強く感じさせる箴言も多く見られます。

(p62より引用) なすことは興味をひくが、なされたものは興味をひかない。

(p122より引用) 人間の持つものの中で、自分自身に基礎をおかぬ力ほど不安定で、はかないものはない。

(p159より引用) 先祖から相続したものをわがものにするためには、改めて獲得せよ。利用しないものは重荷だ。その時々に作ったものでなければ、その時々の役にたたない。

 学問に取り組むうえで、もっと現実的には、会社で業務を進めるうえで参考になりそうなアドバイスもあります。(いきなり高尚な世界からは離れてしまいますが・・・)

(p49より引用) 仮説は、建築する前に設けられ、建物ができ上ると取り払われる足場である。足場は作業する人になくてはならない。たゞ作業する人は足場を建物だと思ってはならない。

 前向きの行動を賞賛し、

(p83より引用) 前進する行動においては、個々の何が賞賛に値するか、非難に値するか、重大であるか、微小であるか、は問題でない。全体においてどんな方向を取ったか、それから結局個人自身にとって、身ぢかな同時代にとって、どんな結果が生じたか、そのため未来にとって何が望めるかが、問題である。

 前向きの意欲を求めます。

(p156より引用) 結局、自己の内に何かを持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、というのはみな愚問だ。要は、大きな意欲を持ち、それを成就するだけの技能と根気を持つことだ。そのほかのことはどうでもいいのだ。

 格言集・箴言集の類では、以前、「自省録(マルクス・アウレリウス)」「菜根譚(洪自誠)」も読んでみたのですが、「自省録」は「思索的・経験的」、「菜根譚」は「実務的・現実的」な印象に対し、カントの格言は、至極当たり前ですが「感性的・人間的」な感じがしました。

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キャッチフレーズアプローチ (会社を変える戦略(山本 真司))

2006-05-21 00:51:26 | 本と雑誌

 「顧客第一」とか「株主価値重視」といった「キャッチフレーズ」は、関係者への意識付けや刷り込みとしては有効かもしれませんが、その「キャッチフレーズ」だけが呪文のように一人歩きし、それそのものが絶対的目標であるように扱われるようになってしまうのは良い傾向ではありません。
 「キャッチフレーズ」を唱えることにより、折角の思考が停止したり、議論を拙速に結論づけたりすることが時折見られます。

 「キャッチフレーズ」は看板です。「キャッチフレーズ」で象徴的に表わそうとしたことの具体的な中味が重要なのです。
 したがって、「キャッチフレーズ」を掲げる前には、それでシンボライズしている「具体的な目標」と「具体的な施策・行動」をキチンと言葉で説明しなくてはなりません。

 著者は、本書で、典型的な「キャッチフレーズアプローチ」としての「株主一本槍経営」にアンチテーゼを提示しています。
 しかしながら、それは「株主軽視」ではありません。

  • 経営者として株主への最低責任を明確にし、
  • それを越える経営成果については、顧客・従業員・社会という企業に係るステークホルダーに最適還元するのが経営であり、
  • そのためには中長期的視点とバランスが重要だ

と主張しています。

 目指すものは、こういった「原理原則」に基づく経営です。

 そういう問題意識から、本書の中には、以下のようなまっとうな指摘が豊富に示されています。

(p190より引用) 「手法は手法としてだけ使う。手法を使って達成したい目的は、決して世間に吹聴されている目的や他社の成功例に引きずられない。あくまで独自の目的を見失わない。手法と目的を峻別する態度を可能にするのは、手法を正しく理解すること。

 この本が書かれたのは、時期的にはエンロン・ワールドコム事件の直後です。時価総額経営偏重への警鐘は、正統派経営への回帰でもあります。

 本書は、現在の経営書に登場するファイナンシャル関係・マーケティング関係・マネジメント関係・IT関係等種々のジャンルのキーワードを広くカバーし、それをストーリーの中にうまく盛り込んでいます。少々詰め込みすぎのきらいはありますが、それぞれのエッセンスを掴むには手ごろなボリュームだと思います。

 蛇足ですが、「超MBA流改革トレーニング」というサブタイトルは、いかにもという感じでかえって逆効果です。
 思いのほか内容はしっかりしていたので、少々もったいない気がしました。(少々、ストーリーに登場する戦略コンサルタントはかっこよすぎますが・・・)

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三文字英語革命の勘所 (会社を変える戦略(山本 真司))

2006-05-20 09:00:39 | 本と雑誌

 SCM(Supply Chain Management)BPR(Business Process Re-engineering)CRM(Customer Relationship Management)と三文字英語のオンパレードです。
 これら三文字英語革命の楽観の典型的なくだりは、以下のような言い様です。

(p23より引用) IT技術の発達で、・・・こうした「三文字英語革命」が可能になろうとしている。要するに、優秀な中小企業経営者や現場の人間が当たり前のようにやっていることが組織的にできるようになったんです。これでわが国の生産性、それもホワイトカラーの生産性は格段に向上すると思います。それも業界を問わず、投資の体力のある会社であれば誰でもがこの生産性向上の恩恵に浴することが可能になります。

 とまず話をふっておいてから、その後の章で以下のように切り返しています。

(p34より引用) SCM、BPR、CRMは、この産業の構造変化で生き残るための必要条件、と認識することです。必要条件ですから、これだけでは差別化できない。おまじないを唱えていても無意味です。・・・良い分析手法はいずれまたみんなに共有される。それがIT時代の本質です。分析技法は容易に模倣されるのです。

 まさにそのとおりで、この話の結論は「したがって差別化のポイントは“人”」だというお決まりのパターンです。

 が、ここで止まってしまうと、実際上は何のアドバイスにもなりません。「人」がポイントということは誰しも分かっています。
 そういう「人」にどうやったらなれるのか、そういう「人」をどうやったら生み出せるのか、どうやったら育成できるのか・・・そもそもその「人」に具体的にはどういう能力が必要なのか・・・、とこのあたりのことで悩んでいるのです。

 ちなみに私は、この手の話をする場合、よく「料理」を例にします。
 すなわち、おいしい料理は、「新鮮な材料」「使い込んだ道具」「腕のいい料理人」の3つが揃わなくてはなりません。
 ITは道具です。いくら切れる包丁があっても、材料(システムの中のデータ)が揃っていなかったり、鮮度が悪かったりすると料理は台無しですし、そもそも料理人(分析し判断し行動する人)が素人だと月並みなものしかできません。

 新鮮な材料を手に入れたり、一流の料理人を捕まえるのが大変なのです。

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教養の再生のために (加藤 周一他)

2006-05-19 00:18:19 | 本と雑誌

 (この場合は、いわゆる「一般教養」のイメージを思い浮かべて)「教養」とは何か、「教養」は何の役に立つのかを加藤周一氏・ノーマ フィールド氏・徐 京植氏で論じ合ったものです。

 加藤氏は「教養」について、教養主義とテクノロジーとを対比させた形で以下のように説明しています。

(p39より引用) 一つはテクノロジーの文化であり、もう一つは、教養主義の文化です。テクノロジーはたとえば旅をするときの手段に関係している。自動車はや飛行機や高速鉄道。教養は、どこへ行くか、何を見るのか、旅の目的は何かということで目的に関係している。

 同様の趣旨のことをこういった例示でも示しています。

(p135より引用) 加藤さんは、よく教養というものを自動車に喩えられるんですね。・・・
 自動車をつくる技術、操縦する技術ということと、その自動車でどこへ行くかということとはまったく違うことです。自分がどこへ行くかを自分自身が決めるためには、教養が必要だということなのです。

 また、このような「教養」の意味づけを踏まえ、「専門知識」との関わりを考えたとき、加藤氏は両者の関係を補完関係にあると捉えています。

(p112より引用) テクノロジーはどうしても必然的に専門化を要請します。・・・教養というものは、専門領域の間を動くときに、つまり境界をクロスオーバーするときに、自由で柔軟な運動、精神の運動を可能にします。専門化が進めば進むほど、専門の領域を越えて動くことのできる精神の能力が大事になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養なのです。だからこそ科学的な知識と技術・教育が進めば進むほど、教養が必要になってくるわけです。
 ですから教養とテクノロジーは対立するものではなく、いま言ったような関係はむしろ、両方が重なって補完的になるべきものだと思います。

 さらに、徐京植氏がいままでの議論を総括した俯瞰した立場から「教養」の意味づけを以下のように整理しています。

(p166より引用) 「人間は徳と知を求める存在である」・・・そのために必要な教養とは、自分のいる場所を世界のなかで広くとらえる、歴史のなかでとらえることができる、内側と外側から見ることができる、ということです。

 「教養」とは、ものごとの位置づけ・意義づけ・意味づけを考えるにあたって、思考の基盤・価値観の軸をつくるための「基礎機材」だということでしょう。
 「教養」は「専門」である必要はないのです。「教養」は専門的な目的がない方が、(教養としての)目的に合致しているともいえるのだと思います。

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将・兵・民 (孫子(浅野 裕一))

2006-05-18 00:02:09 | 本と雑誌

 「孫子」は、そもそも「王」のための書ではなく、「将」のための書だと思います。

 「将」に対しては、厳しくも気高い気概を求めています。「非天之災、将之過也」という言葉もそうです。

(p182より引用) 敗北は決して天災ではなく、あくまでも人為の失敗だ、と突き放す孫子の言葉は、神秘的なものに敗戦の責任を転嫁しようとする甘えを許さない、冷徹な響きを持っている。

 これに対し、「天の我を滅ぼすにして、戦いの罪には非ず」と叫んだのは項羽でした。項羽は、自らの敗北を自らの責に帰そうとはしなかったのです。
 古代中国では、このように軍事的勝敗の原因を天の巡り合わせといった人知を超えたものに求める考え方(陰陽流兵学)が流行していたということです。が、「孫子」は、そういった非合理的な考えを一蹴したのです。

 また、「孫子」が対象としていた「兵」は一般民衆からの徴兵でした。
 それ以前は職業兵(身分兵士)だったので、個の技量を前提にした戦術が可能でした。しかしながら、一般民衆徴兵の場合は個々の技量に頼ることはできません。そこで軍事専門家による軍略の重要性がクローズアップされたわけです。
 そこでは、兵は将が動かすべき「対象物」となります。(個人的には、最も忌むべき考え方ですが、孫子の兵法においては愚民主義なのです。)

(p221より引用) 之れを犯うるに事を以てし、告ぐるに言を以てする勿れ。・・・之れを死地に陥れて、然る後に生く。夫れ衆は害に陥りて、然る後に能く敗を為す。

 その「孫子」の中で、「一般民衆」はどういうふうに考えられているのでしょう。
 将の倫理を説いた「進不求名、退不避罪、唯民是保、而利合於主、國之寶也」 すなわち、

(p189より引用) 名誉や功績を欲せず、汚名や誅殺を恐れず、ただひたすら民衆の生命を無駄に失わせぬよう計りながら、君主や国家に利益をもたらそうとするのは、将軍がすでに己を全く無にしていてこそ、はじめて可能な行為である。

の論旨からみると、当時の民衆はやはり「守るべきもの」ではあったようです。
 最低限の救いです。

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己を知る困難 (孫子(浅野 裕一))

2006-05-17 00:19:48 | 本と雑誌

 「知彼知己、百戦不殆」。先の岩波文庫版の「孫子」でも取り上げた有名なフレーズです。

 これは、彼我を知ることの重要性を説いたものですが、実は「知彼」と同じく「知己」も難しいのです。敵を知るのとはまた違った観点で気をつけるべき点が存在します。

(p56より引用) 自軍の実情認識は、秘密でも何でもないないわがことであるから、把握がいとも容易であるかに思える。ところが実は、ここにこそ自己弁護・自己正当化といった、深い落とし穴が存在する。・・・最も知りやすいはずの自己の欠点・弱点に故意に目を覆い、いつの間にか自己の願望が客観的事実にすりかわったりして、過信や独善に陥りやすいのである。

 この点は、自分自身という「個体」においてもそうですし、自軍といった「組織」においても言えます。

 したがって、将たる者の重要な資質としては、自軍の真の事実(姿)を把握・認識する「真摯な謙虚さ」と、その事実をもとにした「冷静な判断能力」が求められるのです。

(p56より引用) 思い込みの強い者、反省心のない者は決して勝てない。敵と自己との実情を徹底的に思い知り、一切の甘美な幻想を切り捨て、最悪の事態にこそ備えんとする精神的苦痛に耐えられぬ者は、そもそも敵と勝敗を争ったりすべきではない。

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軽挙妄動 (孫子(浅野 裕一))

2006-05-16 00:50:32 | 本と雑誌

 「孫子」は2冊目です。先の岩波文庫版に比べて、こちらの本は訳者による節ごとの解説が充実しています。

 岩波文庫版の「孫子」の項において「『孫子』は決して好戦の書ではありません。」と記しました。
 孫子で示されている「戦争の本質」は、たとえば「不戦而屈人之兵、善之善者也」というフレーズに表れています。

(p42より引用) 敵国の意図を挫く点にこそ戦争の本質があることを深く認識するならば、戦わずして勝つべきことを強調する孫子の言葉が、実は空想でも観念論でもなく、まさしく戦争の真理を喝破した教えであることに気づくであろう。

 そもそも戦争は、軍事力の発動それ自体が目的ではなく、何らかの政治上の目的(たとえば、敵の企てを挫く)を達成するためのあるひとつの方法にすぎないのです。同じ目的を達成する方法には、たとえば他の外交手段を駆使する方法もあるわけです。
 したがって、国家間で何らかの問題が発生した際、その解決にあたって戦争という手段に訴えるかどうかが「指導者の最大の判断」となるのです。

(p258より引用) 怒りは復た喜ぶ可く、慍りは復た悦ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之れを慎しみ、良将は之れを警む。此れ国を安んじ軍を全うするの道なり。

 戦争による損害・損失はとてつもなく大きなものです。生活を乱し国を滅ぼし、何よりも尊い多くの命を奪うことになります。
 それらに勝る意味があるのか。「孫子」はその締めくくりの章で、国王・将軍に対し開戦による愚を訴え、軽挙妄動を強く戒めているのです。

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