OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

あやしい探検隊 海で笑う (椎名 誠)

2007-01-30 00:49:02 | 本と雑誌

Sango_2  時折拝見しているぶっく1026さんのブログで紹介されていました。

 椎名誠氏の本ははじめてですが、水中写真家の中村征夫氏とのコラボレーションということで興味をそそられて読んでみました。

 内容は、椎名さんとその仲間の皆さん(中村さんもそのうちの一人です)が繰り広げるの遊びのエッセイです。
 想像したとおりの椎名風ユーモアが散りばめられた読みやすい本です。当然、中村さんの写真も(ふんだんとまではいきませんが、)盛り込まれています。

 椎名さんといえば、何となく勝手に「真っ青な夏の海」のイメージが浮びます。
 椎名さん自身もこう語っています。

(p216より引用) 一年の季節の中で、ぼくが文句なしに好きなのは夏だ。それもとびきり暑い夏のさかりの頃が一番いい。子供の頃ずっと海べりで育ったということもあるのだろうが、夏の暑いさかりに朝から夜までずっと海の気配に触れていられれば、それでぼくは果てしなくしあわせなのである。

 この本では、いろいろな海が椎名さんのイベントの舞台になっています。
 その中で、八重山諸島の竹富島が登場していました。

 今から25年ほど前、私が学生のころ夏休みに2年続けて石垣島・竹富島・西表島に行ったことを思い出しました。
 西表島は島の雰囲気自体が結構ワイルドな感じでしたが、竹富島はおとなしいこじんまりとした島でした。
 コンドイビーチの海は、これ以上透明な水はないだろうというほどきれいでした。

 実は、そのときの印象があまりにも強かったので、以来、本土の海に入れなくなりました。芋の子をサンオイルで洗っているような海は・・・ダメです。

 椎名さんのイベントも、さて実際やろうとすると、本には表われないような面倒事もあるんだろうと思いますが、やはり、素直に羨ましいですね。

あやしい探検隊 海で笑う
価格:¥ 1,631(税込)
発売日:1993-10

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奉仕する科学技術 (科学論入門(佐々木 力))

2007-01-28 15:32:43 | 本と雑誌

Neumann  著者は、日本及び西欧の科学史を概観した後、科学技術に関する現在の喫緊の課題について論じています。

 まずは、著者の「20世紀の評価」です。

(p176より引用) 二十世紀が終ろうとしている。省みれば、この世紀は未曾有の残酷な時代であった。ことに第二次世界大戦は、科学がからんだ総力戦であったことが印象的である。・・・周知のように、アウシュヴィッツには医学者の多くがかかわり、ヒロシマとナガサキには物理学者が深く加担したからである。

 ここに、著者としての「現代科学技術に対する大いなる遺憾の念」が表明されています。

(p179より引用) 科学について一般にわきまえておかなければならないのは、それが私たちの日常的知識よりはるかに高いレヴェルの知識を提供してくれるものの、決して無謬でも全能でもないことである。

 特に、科学技術が先走っている昨今の代表的事例として、物理学の流れからは「原子力エネルギー」、医学の流れからは「臓器移植」の問題を取り上げています。

 著者は、「科学」と「技術」とを峻別して論じています。

(p209より引用) 技術には、科学のようには、自由は許されない。もっと適切な言葉を使えば、技術に放縦は許されない。

 たとえば、「原子力」に関してはこういう指摘です。

(p204より引用) 量子力学以降の原子物理学は二十世紀科学の最大の精華と見なされうる。その意味で、それは“科学の勝利”である。だが、それに基づく原子力テクノロジーは不完全、というより欠陥をもつことがますますはっきりしてきている。それが科学が教えてくれている事実なのであり、換言すれば、“勝利”した原子物理学は、明白に原子力技術の“敗北”を示唆しているのである。

 科学のひとつの具現形としての「技術」について、著者はその独断専行は許さずというスタンスです。
 「独断専行」を許さずコントロールする方策の一つとして、著者は「倫理学」による考察に期待します。現実的な社会通念のフィルターにかけるのです。

(p207より引用) 科学技術がいかに遂行されるべきかについての問題で倫理学的考察の出番が多くなっている・・・そういった考察がたんに抽象的な議論に終始することなく、法学や経済学などに関係した、より現実的な社会科学的理論建設まで進まなければならないのが今日の問題状況だろう。

 そして、技術を一般社会に取り込むプロセス(技術の制度化)において、受容者がイニシアティブをとることが必須であると説きます。
 著者が示した受容者の復権ための具体的な方策が「インフォームド・コンセント」の考え方です。すなわち、「技術についての必要にして十分な情報の開示を求め、それが得られたうえで同意を与える」というルールです。

(p211より引用) 技術は提供者から一方的に提供されるべきものではなく、受容者が選択すべきものである。・・・技術者の“無政府主義的”なやみくもな開発は、受容者側の民主主義的な「インフォームド・コンセント」に基づいてコントロールされるべきである。

 著者の「科学技術に求める姿勢」は明確です。
 「人間中心」ということです。

(p173より引用) 科学技術はすべからく人間の苦悩を軽減するように創造され、機能すべきなのである。現代の科学技術は、この原点に帰り、この観点から総点検されなければならない。

Hippokrates  さらにその姿勢は、歴史を遡り古代ギリシャの医聖に至ります。

(p222より引用) 現代科学技術を論ずる私の基本姿勢は、「科学技術論の医学史モデル」という標語で言い表される。それは科学技術の本来の目的は悩める人を癒し助けることであり、その「癒しの術」のありようは歴史的観点から知ることができるという立場であった。・・・
 西洋医学の父であるヒッポクラテスは、こう言い遺した。「人への愛の存するところには、またいつも学芸(テクネー)への愛がある」

 原子力や臓器移植等、科学技術が無自覚に自己増殖に突き進んでいるという認識の中、本書の結語において、著者の真摯な想いと強い決意が顕かにされています。

(p223より引用) ここに「人への愛」のために奉仕する技芸(アート)の本来の究極の姿がある。
 これが、フォン・ノイマンのような生の軌跡をたどることを忌避して数学者の世界を飛びだし、数学史家に転じ、彼とは対極的な半生を意識的に歩んできた学徒の科学論が到達した、とりあえずの結論である。

科学論入門 科学論入門
価格:¥ 777(税込)
発売日:1996-08

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科学と技術 (科学論入門(佐々木 力))

2007-01-27 13:00:01 | 本と雑誌

Newton  科学史の基礎を勉強しようと思い読んでみました。

 明治期以降の日本での西欧科学受容の動きや、科学革命が西欧で起こり、他の文明共同体たとえばイスラーム世界や中世ラテン世界で起こらなかった理由等についての解説は興味深いものがありました。

 後者に関して、中世西欧における「科学の成立プロセス」について、著者は以下のようにまとめています。

(p58より引用) 近代科学は「高級職人」的技芸の段階にとどまるのではなく、その技芸に学んで独自の仕方で「哲学」した学者たちによって建設されたのである。

 こういう「高級職人」と「哲学者」との出会いが、数学的記述を伴いルネサンス期以降の西欧に起こったと言います。

 これに対して、イスラーム世界や中世ラテン世界の状況については、以下のように説明しています。

(p62より引用) イスラーム世界でも中世ラテン世界でも、たしかに職人層が存在し、高等教育の一定程度社会の中に根づいていた。しかしながら、自然哲学は周辺的学問にとどまり、さほど重視されなかった。それのみならず、それをテクノロジー科学へと飛躍させるのを阻む思想的歯止めが厳として存在していた。それからまたテクノロジー科学を成立させる社会的弾みも存在していなかったのである。

 両世界とも「科学」を飛躍させるために必要なプレーヤは存在していたのですが、政治的・宗教的な専制体制がそれらの融合や拡大を阻害したようです。

 その他、著者は、数学から自然諸科学を介し医学へと至る西洋諸学の方法概念について、「分析」と「総合」という対概念を特徴的なものとして紹介しています。

(p136より引用) 西洋諸学には実は古代ギリシャ以来、その基礎でおおいに働いてきたある種の方法概念が存在する。それは分析と総合という対概念である。とりわけ分析は、古代数学における証明や解の発見法として定式化され、論理学や医学でも探究の導きの糸を表す基本概念として機能した。そして、それは十七世紀の科学革命とともに自然科学一般においても重要な方法概念として再定式化された。・・・
 他方、数学における総合とは、解析で得られた、より根源的なもの(公理などの原理的なもの)から、目指す探究中の命題を証明したり、作図したりする、分析とは逆の手順をいう。数学における総合は、論証、演繹と同一視される場合がある。

 このあたりの解説はとりわけ目新しいものではありませんが、これらの方法概念が自然科学一般に定着したのは、やはり17世紀ごろであったという点は再度押さえておきたいと思います。

 このように中世西欧で花開いた「科学技術」ですが、この科学を礎とした「技術」の有り様について著者はひとつの危惧を提示しています。

(p107より引用) 一般に、技術者にとって自らがかかわっている技術の全体的ヴィジョンを把握することは、その技術にまつわる倫理的・社会的コンテクストの理解のためにはもちろん、当該技術を成功裏に開発するためにもきわめて重要である。「全体的ヴィジョン」は「心眼」とも言いかえられる。科学的工学の教育を受けただけの技術者・・・は、この「心眼」をもたない傾向性が強い。・・・
技術者が当然もつべき「心眼」をもたず、社会的モラルを欠いた科学者が引き起こす問題を、フォン・ノイマンにちなんで、試みに「フォン・ノイマン問題」と名づけておこう。

 「技術の独善」に対する警鐘です。

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朝、会社に行きたくなる技術 (梅森 浩一)

2007-01-25 00:24:41 | 本と雑誌

Water  会社で問題になっているメンタルヘルスやワークライフバランスを考えるために読んでみた1冊です。

 今の私は、この本が想定している読者の「客体」になっているわけです。もちろん、「主体」になる可能性もあります。

 いわゆる会社でのストレス状況について、多くの実例とその対処方法を列挙した内容です。「オフィスの症例」で登場する人物は、だいたい20~30歳代の若手から中堅といった年代です。

 目次の中からいくつかご紹介すると、こんな感じのテーマが並んでいます。

  • 仕事量が多すぎて私生活がボロボロ
  • 「朝令暮改型」上司とのおつき合い作法って?
  • なにをやるにつけ自信がもてない
  • 同時に仕事をすすめられない
  • 失敗すると、いつまでも引きずってしまう
  • 「未来」は変えられると知ろう
  • プレッシャーにホントに弱い......
  • 理由はないけど、やる気が出ない

 ただ、書かれている状況の設定は表層的です。対処法についても感覚的なコメントレベルのものが多くて、私としては今ひとつ十分な納得感は得られませんでした。
 しかし、こういう現実もある、そして、こういう対処で好転することもあるというヒントだと考えると、それなりに意味があります。

 たとえば、「仕事は細かく分けて、人への依頼分と自分の対処分とに振り分ける」とか、(スキル的に)「できない仕事」と、(気持ち的に)「嫌な仕事」とを峻別して対応を考えるといった「要領」は、些細なことで悩んでいる人へのアドバイスになるかもしれません。

 具体的には、こんなアドバイスも書かれていました。「なにをやるにつけ自信がもてない」の章においてです。

(p62より引用) いきなりポジティブになれといっても、これまた難しいでしょうから、簡単にできる「ポジティブレッスン」をご紹介しましょう。
「自分の好みでメニューを選ぶ」、ただそれだけ。・・・
 自信とは、自分を大切に思い、それを主張することでもあります。

 本書のプロローグには、この種の本でよく引かれる「コップ半分の水の感じ方」が紹介されています。
 例の「もう、半分しか残っていない・・・」と思うか、「まだ、半分もある!」と思うかというものごとに対する感じ方・考え方の対比の話です。

 また、エピローグでは、こういうまとめをしています。

(p172より引用) なにもやる気がしない朝の日には、どうか思い出してください。ちょっとした心のもちようひとつで、あなたの人生は大きく変わるのです。

 現在、多くの企業で増加しているメンタルヘルスの問題のかなりのものは、いわゆる「要領」とか「心の持ちよう」とかで対処できるレベルを越えている、もしくは、そういうものとは異質の原因によるものです。
 具体的な行動の工夫や気の持ちようを否定するものではありませんが、その他の要因を掘り下げてひとつひとつ真剣に対応する必要があります。

  「最大の職場環境は上司」ですから、「上司」の責任は極めて重大です。

朝、会社に行きたくなる技術 朝、会社に行きたくなる技術
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2006-10-19

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美しい音楽・美しい国 (ボクの音楽武者修行(小澤征爾))

2007-01-22 23:24:12 | 本と雑誌

Bernstein  「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という想いで小澤青年は渡欧しました。

 本書に書かれている小澤青年は、次々とまた軽々とチャンスを活かしていきます。(というふうに見えます・・・)

 欧米にいた2年半、そうは言ってもいろいろなことがあったはずです。幸運だけでここまで来たはずはありません。
 もちろん周りの方々の大きな支援・応援があったでしょうし、それにも増して小澤青年自身の努力は並々ならぬものだったに違いありません。
 そのあたりの苦労がほとんど感じられない文章です。が、数多くの手紙のやりとり(ほとんどは日本の両親・兄弟とのものだったようですが)の中に、ひとりで夢に向かって頑張っている小澤青年の心持ちが感じられます。

 この本が書かれたのは、ちょうど私が生れたころです。

 そのころ、小澤青年は、ヨーロッパで、そして日本で、様々な経験をし、様々な刺激を受け、様々な想いを抱いていました。

 パリで、ベルリンでの音楽を愛する小澤青年の感性です。

(p103より引用) 芸術を愛する人間の多いヨーロッパで、なぜ戦争なんか起こったのだろうか。西独と東独の国境のあのとげとげしい空気はなんだろうか。戦争はまだ終わっていないし、これからも起こらないとはいえない。どうして、もっとこの世には美しい音楽があり、美しい花があるということを信じないのだろうか。

 そして、バーンスタイン氏率いるニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の一員として日本に戻ったときの想いです。

(p200より引用) 東海道の海辺の古い宿屋に泊まった時、バーンスタインが言ったこと・・・
「セイジ、お前は幸福な奴だ。こんなに美しい国で育ったなんて…。それなのになんでニューヨークなどに住む気になったんだい?」
 ぼくも日本を美しいと思わないわけではない。ただ西洋の音楽を知りたくて飛び出して行ったのだ。その結果、西洋の音楽のよさを知り、また日本の美しさも知るようになった。ぼくはけっして無駄ではなかったと思っている。それどころか、今後も日本の若者がどしどし外国へ行って新しい知識を得、また反省する機会を得てもらいたいと思っている。

 その後小澤氏は、62年にはサンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカでのデビューを、また69年にはザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮しオペラ・デビューを果たします。さらに、73年にボストン交響楽団の音楽監督に就任、ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会でもタクトを振っています。

 日本では、98年冬の長野オリンピックの音楽監督として、開会式、五大陸を結ぶベートーベンの「歓喜の歌」合唱でその指揮をとりました。

ボクの音楽武者修行 ボクの音楽武者修行
価格:¥ 420(税込)
発売日:2000

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若き疾走 (ボクの音楽武者修行(小澤征爾))

2007-01-21 14:39:09 | 本と雑誌

ベスト・アルバム / 小澤征爾  いつも拝見している手文庫さんのブログで紹介されていたので読んでみました。

 私自身は音楽系は全く疎いので、小澤征爾氏についても、名前はともかく「世界的にも有名な指揮者」という程度しか知りませんでした。

 本書は、その小澤氏が世界的指揮者としての道に第一歩を踏み出したころの自伝的エッセイです。

 1959年(昭和34年)、小澤氏24歳のとき、スクーター1台とともに貨物船で単身ヨーロッパに渡りました。その後2年あまりの間に、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、続いてバークシャー音楽センター指揮者コンクールでクーセビツキー賞を受賞と才能を開花させました。その活躍から、バーンスタイン氏に認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任、渡欧から2年半後には日本公演のメンバとして凱旋したのでした。

 本書は、この間のさまざまなエピソードを、著者の当時の気概を映したようなすがすがしい筆致で著したものです。

 先ずは、南仏に到着してからスクーターひとり旅のくだりです。

(p41より引用) スクーターで地べたに這いつくばるような恰好でのんびり走っていると、地面には親しみが出る。見慣れぬ景色も食物も、酒も空気も、なんの抵抗もなく素直に入って来る。・・・音楽に対してもそうだ。自然の中での、人間全体の中での、また長い歴史の中での音楽が素直に見られるようになった。

 小澤青年の伸びやかな若い感性が感じられます。
 が、そうは言ってもこの渡欧、かなり無鉄砲な行動でもあります。

(p44より引用) そのころは、この先どうやって勉強しようかとか、どのくらいヨーロッパにいられるだろうかなどという計画は皆無だった。どの先生に指揮を習うかということも考えていなかった。・・・後でいろいろな人に聞くと、音楽志望でヨーロッパに来ると、土地の生活に慣れるまでは自信を喪失する人もいるらしい。しかし、ぼくは自然に音楽に親しむことができた。

 そういう小澤青年にとっての大きなチャンスがブザンソン国際指揮者コンクールでした。この成功を皮切りに、小澤青年は欧米の音楽の世界を疾走します。

 その中でのバーンスタイン氏との交流です。
 小沢青年は、心からバーンスタイン氏が好きだったようです。また、バーンスタイン氏は、巨匠にはの似つかない?気さくで温かい人柄でした。

 バーンスタイン氏率いるニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団が日本に到着したときの空港での風景です。

(p197より引用) 突然バーンスタインが、ぼくの首っ玉にとびついて来た。ぼくは危うく倒れるところだった。
「セイジ!セイジ!よかったな、よかったな!」
首が抜けるくらいぼくを抱きしめて、そう言ってくれた。ぼくは言葉が出なかった。

 読んでいるこちらまでホントに嬉しくなるシーンです。

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フィロロギー (孔子(和辻 哲郎))

2007-01-20 14:31:02 | 本と雑誌

Koushi  本書の「論語」についての論考部分は、ヨーロッパの古典フィロロギーの方法に基づいたものです。
 巻末の解説によると、フィロロギーとは、通常「文献学」と訳されるようですが、具体的には「古典文明の史的研究・古文書(原典)の批判研究」等のことだそうです。

 本書において和辻氏は、フィロロギーの分析手法により、「論語」を読み解き、その構成や成立過程を明らかにします。
 原典を明らかにするということは、後年の作為をあらわにすることでもあります。
 作為とは「悪意」とは限りません。もちろん、後年の世情による変遷、後人の説への誘導も有り得ますが、先に述べた「理想化」の過程でもあります。

 著者は、「論語」の記録は「格言めいた命題」だと言います。
 そして、それらは、「独立の命題」として記されたものと「弟子との問答」の形式で記されたものに分類されます。

 後者の「弟子との問答」についての記述です。

(p139より引用) 問答の方は孔子の説き方と密接に結合したものである。それは言葉によって一義的にある思想を表現するのではなく、孔子と弟子との人格的な交渉を背景として生きた対話関係を現わしているのである。従ってそこには弟子たちの人物や性格、その問答の行なわれた境遇などが、ともに把握せられている。それが言葉の意味の裏打ちとなり、命題に深い含蓄を与えることになる。

 問答と言えば、ソクラテスの「問答法」が浮かびます。論理を積み重ねて矛盾を明らかにし、相手に悟らせるという方法です。

(p139より引用) が、この対話は、ソクラテスの対話におけるがごとく、問題を理論的に発展させるというやり方ではない。弟子が問い師が答えるということで完結する対話、すなわち一合にして勝負のきまってしまう立ち合いである。従って問答はただ急所だけをねらって行われる。

 論語の場合は、「問答」は孔子の教えを明確にする効果的な表現方法だということでしょう。その場合、問答の相手となる弟子の性格・思想・持味等の違いは、孔子の教えの普遍性と適応性を示す具体的な証になるのだと思います。

 そうして孔子は、宗教色のない「人を中心とした教え」を説いたのでした。

(p131より引用) 人倫の道に絶対的な意義を認めたことが孔子の教説の最も著しい特徴であろう。

孔子
価格:¥ 525(税込)
発売日:1988-12

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教師の純化 (孔子(和辻 哲郎))

2007-01-19 22:18:00 | 本と雑誌

Watsuji  著者の和辻哲郎氏(1889~1960)は、大正~昭和期の哲学者です。
 和辻氏といえば「古寺巡礼」で有名ですが、その和辻氏の「孔子論」ということで手にとって見ました。

 ただ、内容は想像していたものとはちょっと違いました。
 論語の教えの和辻氏流の解釈・解説が記されているのかと思ったのですが、メインは、フィロロギーという手法による「論語」の原典探究でした。

 孔子に係る論述もありますが、それは、釈迦・ソクラテス・イエスとの比較の中でなされています。このあたりの論考は、非常に興味深いものがあります。

 特に首肯できる論として、聖人の「理想化」というプロセスがありました。

(p31より引用) 人類の教師が人類の教師と成るのは、一つの大きい文化的運動である、・・・それは他の言葉で言えば、一つの高い文化が一人の教師の姿において結晶して来るということなのである。この結晶の過程のうちには・・・弟子たちの感激や孫弟子たちの尊崇や、さらにその後の時代の共鳴・理解・尊敬などが、限りなく加わっている。これらは教師の感化が真正であったからこそ時の訓練に堪えて増大して来たのであるが、しかしまた感化を受けた弟子たちが常にその教師の優れた点、感ずべき点に注意を集中し、そうしてそれらの点をより深く理解しようと努力したことにももとづくのである。これは通例「理想化」と呼ばれている過程である・・・

 この過程により、弟子たちに受け継がれ時代を経るにつれ「教え」が磨かれ「人間像」が純化されるとの考えです。

(p32より引用) そうしてみれば人類の教師は、長期間にわたって、無数の人々の抱く理想によって作り上げられて来た「理想人」の姿にほかならぬとも言い得られよう。

孔子
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世にもおもしろい狂言 (茂山 千三郎)

2007-01-18 00:23:11 | 本と雑誌

Kyogen  たまたま書架で目にはいったので読んでみました。
 古典芸能について素養があるわけでもなく、強い興味があったわけでもないのですが・・・。

 本書は、京都の大蔵流狂言師茂山千三郎氏による狂言入門書です。
 現役の狂言師自ら、軽妙な語り口で、狂言の楽しみ方や歴史・登場人物のキャラクタ等を分りやすく説明してくれます。

 狂言は能と同じ舞台で交互に演じられることが多く、幽玄な能とコミカルな狂言という異なる芸質の対比が相乗効果を生み出してきたようです。

 このあたりの能との対比について、著者は以下のように説明しています。

(p76より引用) 五番立プログラムの中で、能にはさまれ、能と同じ舞台で演じられてきた狂言は喜劇です。ただおもしろおかしく滑稽なだけでなく、皮肉や風刺がきいています。能の登場人物が観る人の憧れや夢を体現しているのに対し、狂言では登場人物を観客に近い存在として描きたいと考えたのでしょう。ですから狂言ではほとんどの人物が「この辺りに住まい致す者でござる」と名乗ります。いわば〈隣のおっさん〉を主要な登場人物とすることで、能との対比が生まれたわけです。

 狂言の興りは室町時代。以来、650年を経て今に伝えられています。
 狂言が脈々と人々の支持を受け続けた礎として、狂言のもつ懐の広さを感じました。狂言は、演じる側の自由度も、また観る側の自由度も広げたのでした。

(p78より引用) 狂言の世界では、有名人が起用されなくなったと同じように、名前というものが排除されていきます。それはおそらく、固有名詞をつけることによって、その名前がすでにもっているイメージに役がつきまとってしまうからです。
 ・・・その邪魔な感覚をさけるために「太郎冠者」「主人」「大名」など、ただ立場を教えるだけにとどめようとしたのです。
 それによって演じる側の可能性をふくらませ、もういっぽうでは観る側の可能性も広げました。役に普遍性をもたせるという発想のおかげで、狂言は広い世界を獲得したのです。

 狂言が支持を受け続けたもうひとつの理由は、ストーリーの底に流れる「人間肯定」の姿勢でした。
 庶民に根付いた芸能として、ありとあらゆる庶民生活の営みを基本的な世界観としてもつことは極々自然のことでした。

(p153より引用) 狂言は、人間の描き方に余裕があるんです。「まあ、それもええやろ」と人間の欠点や弱点を認めています。観客が舞台上の登場人物に共感できるのは、つねに狂言に「人間を肯定しよう」という姿勢があるから。だから僕は、狂言は人間肯定劇だと思っています。

 他方、伝統芸能としての重み・深みも「型」として脈々と伝えられています。

(p125より引用) 狂言では、「型」を広い意味でとらえています。狂言がただの喜劇でも、ただの芝居でもなく、狂言として存在できるのは型があるから。型こそ狂言の命です。
 型とはなんなのかといえば、時代を経てくり返し演じられる中で、洗練され形づくられていった演技の様式です。

 「型」は、650年の歴史が削ぎ落とし磨きこんだ表現形式ということです。そして、「型」の研磨という営みはいまでも現在進行形なのです。

 ともかく、私は、狂言については何も知らなかったので、本書に書かれていることはすべて新しい情報でした。
 その中でも「へぇ~」というのが「すっぱ抜く」の語源についてです。「すっぱ」は狂言の役名でもあります。

(p95より引用) すっぱは、詐欺師、騙りの者です。・・・
 ちなみに「政治家のスキャンダルを新聞がすっぱ抜いた」などと使う、「人の秘密を暴いて公にする」という意味の「すっぱ抜く」は、このすっぱからきています。

 もうひとつ、難易度の高い狂言の楽しみ方が紹介されていました。

(p160より引用) 本当に笑われているのは誰なのか。この視点が、『萩大名』にかぎらず、狂言の見方の幅を広げます。

 狂言における「視座の転換」です。

世にもおもしろい狂言 世にもおもしろい狂言
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悪意の欺瞞 (悪意なき欺瞞(J.K.ガルブレイス))

2007-01-17 00:07:19 | 本と雑誌

Missile  本書で、ガルブレイス氏が「欺瞞」だと指摘している真の対象は、新古典(保守派)経済学の「強者の倫理と論理」であると思います。

 ガルブレイズ氏は、「強者の倫理と論理」に基づいた経済政策の欺瞞の例として「減税による景気回復策」を挙げています。

(p122より引用) 近時、景気回復のために必要だからとして実施される減税が、景気回復の特効薬だというのは寓話以外の何ものでもない。・・・減税による所得の増分は必ずしも消費に回されないから、減税の景気浮揚効果は総じて乏しいのである。
 それだけではない。景気後退の確実な治療法の一つは、個人消費支出の堅実な伸びを誘うことである。言い換えれば、個人消費支出の低迷こそが、景気後退の元凶なのである。

 減税は、強者(富裕層)の可処分所得を増やす効果に止まるとの主張です。

(p123より引用) 使い道のない富裕層にお金を与えて、貧困層に生活苦を押しつける。その結果、景気は後退するけれども、政府は何ら有効な対策を講じない。・・・
 何か積極的な提言をしたいものである。しかし、経済学の世界には、確固たる信念のようなものがあって、それが、ときには逆効果を生む経済政策を支持し、ときには効果的な経済政策を支持する。
 景気が後退しているときには、購買力の確実な増加がなくてはならない。そのためには、所得の増加を確実に消費に回す貧者の可処分所得の増加こそが求められるのである。こうした対策が有効なことは否定すべくもないのに、無益な弱者救済策だとして一蹴されてしまう。

 米国における最大の強者は、大企業でありペンタゴン(軍)です。
 ここでいう大企業は何らかの形で軍需に関わる産業です。

 この図式で以下のガルブレイス氏の指摘を解すると、公的セクターはペンタゴン、私的セクターは軍需産業と当てはめられます。

(p72より引用) 他の諸国でも程度の差こそあれそうなのだが、とくに米国では、公と私の二セクターの役割分担をめぐって、侃々諤々の論争が繰り広げられてきた。・・・
 よく考えてみれば、公的セクターと私的セクターを区別すること自体が、無意味なことのように思えてくる。なぜなら、いわゆる公的セクターの仕事の大部分、その根幹となる部分、そして拡張しつつある部分は、私的セクターを潤すことのみを、そのねらいとしているからである。

 ガルブレイス氏は、本書の最後に、現在の最大の問題について付言します。

(p126より引用) 文明は、数世紀間にわたる科学、医療、あえて付け加えれば、経済的繁栄の賜物である。その反面、文明は、兵器の増強と周辺諸国への軍事的脅威、そして戦争をも是認してきた。文明を普遍化させるためには、大量殺戮さえもが避けて通れぬ道だとして正当化されるようになった。・・・
 戦争にまつわる経済社会的諸問題は、飢えや貧困と同じく、人類の英知と行動によって解決するしか他に手立てはない。解決へ向けての動きはすでに始まっていると見てよい。いまもって戦争は人類の犯す失敗の最たるものなのである。

 軍産複合体の問題については、米国でも古くから指摘され警鐘が鳴らされていますが、まさに今、再び三度、顕在化しているのです。

 この問題が解決されることなく、昨年ガルブレイス氏は亡くなりました。
 残念です。

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景気調整の欺瞞 (悪意なき欺瞞(J.K.ガルブレイス))

2007-01-15 00:22:22 | 本と雑誌

Renpo_jyunbi_seido  ガルブレイズ氏は、極め付きの欺瞞として「連邦準備制度(中央銀行)」を挙げています。

 長年にわたり、米国では、失業と景気後退、インフレリスクの歯止め対策として、連邦準備制度による強権的措置すなわち公定歩合の調整が最善の経済政策であるとされていました。

(p93より引用) 景気が過熱気味となり、インフレの脅威が顕在化すれば、今度は、連邦準備制度理事会が貸し出し金利引き上げの先鞭をつける。・・・その結果、企業の設備投資と消費者の借財は抑制され、過度の楽観主義は戒められ、物価上昇は抑え込まれ、インフレ懸念は払拭される-。・・・

 この考え方は、まさに教科書的であり、ある種の経済合理的?前提にたつと成り立ちうる考えではあります。
 しかしながら、ガルブレイス氏は以下のように喝破します。

(p94より引用) このシナリオは、うわべでは説得力のある理論に基づいているのだが、現実や実務経験を通じて編み出されたものではない。民間企業は、儲けが生み出される可能性を見込めるときに銀行から融資を受けるのであって、金利が安いからというだけの理由で借財するわけではないのだ。

 もちろん金利の下落は設備投資の誘因にはなります。
 しかしながら、投資が企業経営上必要だと判断されると、そのための資金調達は、借入金や国内外の市場での社債等の発行といった種々の手段のうち、そのときのまた将来の金融市場の動向を勘案して最も有利な方法を選んで行われます。
 金利が高いからといって必要な設備投資を行わないというのは現実的にはありえません。
 企業経営の立場からみると至極当然のことです。

(p101より引用) 民間企業の行動は、売上高の増減に反応して決まる。要するに、連邦準備制度理事会の役割はなきに等しいのである。消費者や企業の支出を理事会がコントロールできるというのは、単なる幻想でしかない。

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大企業の欺瞞 (悪意なき欺瞞(J.K.ガルブレイス))

2007-01-14 01:17:10 | 本と雑誌

Wall_street  企業(株式会社)の所有者は株主であることは、制度上事実ですが、実際上は企業官僚体制における「企業経営者」の手に委ねられているとの指摘です。

(p59より引用) 企業経営に関する幻想は、最も手の込んだ、そして近年では最も際立った欺瞞である。「資本主義」という悪名を追放しようとするのなら、それに代わる適切な名称は「企業官僚主義」のはずである。・・・オーナー経営者や株主という言葉は日常的に、また好意的な意味合いを込めて使われるけれども、実際問題として、株主が企業経営において何の役割も果たしていないことは、火を見るよりも明らかである。

 この点は、日本はもとより、株主が強い力を持っているといわれている米国ですらそうだということです。

 この状況の証左が、ここ数年の間に顕在化した大企業の「粉飾決算」です。

(p106より引用) もっとも重要なのは次の点である。実効性のある規制のおかげで企業の行動が改善されれば、国民全体に大いなる利益がもたらされる。経営者による横領は国民全体に不利益をもたらす。このことは誇張でも脅しでもなく、正真正銘の事実なのである。取締役や株主による監視機能が十分だと思ってはならない。不正を防止する力を持つのは、司法当局だけなのである。

 その他、大企業をとりまく欺瞞として、「エコノミストによる経済予測」を取り上げています。

 まず、ガルブレイス氏は、そもそもの経済予測の確度について疑問を呈します。

(p82より引用) 未知なるものの寄せ集めを知ることはできない。このことは、経済全体についえ真であるばかりか、特定の産業や企業についても、同じく真である。経済の将来予測は、これまで当たったためしがないし、今後とも経済予測が当たることはあり得ない。
 にもかかわらず、経済、とりわけ金融の世界では、未知なるもの、そして知り得ないはずのことを予測する営みが、必要不可欠であり、高収入にありつきやすい職業のひとつとされている。

 にもかかわらず、エコノミストはしたり顔で予測を開陳します。政策の転換期・企業の決算期等々、折々に百花繚乱という感じで経済予測や企業の業績予測が登場します。

(p88より引用) ウォール街でコンサルタント役を引き受けるエコノミストは、・・・研究委託先の儲けが最も大きくなるような予測をする。また彼らは、自分の予測が周知されることを望む。なぜなら彼らは、自分の保有している株式の株価を押し上げる効果のある予測をしているのだから。
 要するに、自らの利益に供し、みずからの損失を防ぐことが、ウォール街を闊歩するエコノミストたちの予測の目的なのである。

 穿った見方ではありますが、首肯できる指摘です。

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当たり前の欺瞞 (悪意なき欺瞞(J.K.ガルブレイス))

2007-01-13 00:06:48 | 本と雑誌

Galbraith_1  J.K.ガルブレイス氏(John Kenneth Galbraith 1908~2006)は、ご存知のとおりアメリカの20世紀を代表する経済学者です。
 ハーバード大学・プリンストン大学で経済学の教鞭をとりましたが、その間に、国防諮問委員会・物価管理委員会・その他いくつかの連邦政府の関連機関に従事しました。また、雑誌「フォーチュン」の編集委員やケネディ政権下でインド大使をつとめるなど、幅広い分野で活動しました。

 ガルブレイス氏は、生涯、経済学に関する多くの著作を著しましたが、「不確実性の時代」(1977)に代表されるそれらの著作は、いわゆる学会よりもむしろ広く一般大衆に大きな影響を与えました。それだけ実社会を踏まえかつ時流にマッチした視点を提示したのでしょう。

 本書は、そういうリベラル派経済学の巨人ガルブレイス氏が、今日の経済学の通説と現実との溝を明晰に示した興味深い著作です。

 ここでいう「今日の経済学」とは、「市場を万能視する新古典派経済学」です。この「市場万能視の経済学」に基づく現実社会とのギャップをガルブレイス氏は「欺瞞」として露にしていきます。

 まずは、「消費者主権という欺瞞」です。

(p38より引用) 市場経済では消費者が主権を持っていると信じるのは、最も広く行きわたった欺瞞である。消費者をうまく管理し誘導しないかぎり、誰も財やサービスを売ることはできないのである。

 このあたりは、氏に指摘されるまでもなく、多くの企業で認識しているところです。
 マーケットイン、プロダクトアウトについては、どちらか一方のみでよいということではありませんし、プロモーションの影響力もそれだけが万能というわけではありません。
 王道ですが、「敵を知り己れを知らば、百戦して危うからず」ということだと思います。

 そのほかにも、たとえば「GDPという欺瞞」にも言及しています。

(p41より引用) 今日なお、人間社会の成熟度を測る物差しとなるのは、お金ではなく、文化、芸術、教育、科学など経済から「隔離」された領域における成果なのである。
 そもそも、この世に絶対的なものはあり得ない。私たちは、芸術、科学を振興し、それらが社会に貢献すること、そして人生の多様な価値と享楽に寄与することを、声を大にして喧伝すべきである。生産者が随意に決める生産額の集計であるGDPのみで社会の進歩を測ること-これもまた小さな欺瞞の一つである。

 こちらは、ガルブレイス氏自身も「小さな」欺瞞と記しているように、GDPだけで社会全体が評価できるとは誰も考えていません。
 が、そういう素地が新古典派経済学者の論調に見え隠れすることを指摘しているのでしょう。

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ちょっとした勉強のコツ (外山 滋比古)

2007-01-11 00:07:52 | 本と雑誌

 教育関係の専門家である外山氏のエッセイ風の読み物です。

 本書が書かれた当時(2000年)は、いわゆる「ゆとり教育」が流行りのころだったようです。
 まず著者は、「ゆとり教育」の誤った側面、教育の放棄とも言うべき風潮を指弾します。

(p55より引用) このごろは、個性をのばすというのが教育のモットーのようになっている。学校が詰め込みをするのはよろしくない。教え込むのは誤っている、という。まるで、教えるのがいけないとことのようにきこえる。なにもしないで、ほっておけば個性が育つとでも考えているのであろうか。なにもしないでいて自然にできるのは、わるい習慣、クセであって、個性とは似ても似つかないものである。個性は教えることを通じて、おのずから生まれる個人的特質でなくてはならない。教えなくては、動物にも劣るのである。

 本書で薦めている「勉強のコツ」は特段目新しいものはありません。むしろ、昨今軽んじられている「基本的な姿勢」の大切さを繰り返し説いているようです。

 勉強するときは「姿勢をよくする」とか「短時間で集中する」とか、はたまた「繰り返し練習して体で覚える」といった至極当然のことです。

 こういった当たり前の指摘以外にも、1・2、気になった点をご紹介します。

 まずは、「セレンディピティ(偶然の発見)」についてです。

 ここでのコメントは、以前このBlogでも「必然の「ひらめき」(数学的思考法(芳沢光雄))」というタイトルで書いた内容に通じるところがあります。

(p131より引用) なにもしないで、ぼんやり天井をにらんでいたら、どこからともなくすばらしい考えがまいおりてくる、というのではない。・・・
 とにかく、何かを求めて一心に努力している必要がある。精神が緊張状態にあるときに、中心の問題ではなく、周辺の、あるいは予想外のところの事実、アイディアが、視野の中に飛びこんでくる。そういう意味でのインスピレーションであり、偶然の発見である。

 一生懸命考え抜いているからこそ、偶然に気づくことができるのです。

 あと、もうひとつは「プラシーボ効果」です。

(p171より引用) 偽薬がおこす効果、変化のことをプラシーボ効果と呼ぶ。クスリだといわれ、効くと聞かされて飲めば、小麦粉のようなものでも、いくらかはクスリのような効き目がある。昔の人も言った。信じるものは幸いなり。

 これは、教育の王道である「ほめる」ことの薦めにつながります。

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発売日:2000-09

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偉人会社 (俺の考え(本田 宗一郎))

2007-01-10 00:04:07 | 本と雑誌

Honda_jet  本田氏はメーカーとしてのプライドを強く抱いていました。
 「経営の好調さは『ブーム』に乗った故だ」という言われ方には納得しませんでした。

(p19より引用) ブームというのはすでに需要があるところに、だれかがつくる、そういう意味だと思う。私たちがやる仕事はそこに需要があるからつくるのではない。
 私たちが需要をつくり出したのである。これが企業というものでなくてはならんと思う。
 われわれはあくまでもブームをつくる人間であるべきだと思う。・・・自分の個性によってブームをつくったというところに非常に誇りを持っているわけだ。

 需要を創造する企業としての誇りをもつHONDAは、「技術最優先」の会社というイメージを抱きがちです。しかしながら、本田氏の考えはそうではありませんでした。

(p61より引用) 私たちの会社が一番大事にしているのは技術ではない。技術よりまず第一に大事にしなければならないのは、人間の思想だと思う。金とか技術とかいうものは、あくまでも人間に奉仕する一つの手段なのである。
 ・・・人間を根底としない技術は何も意味をなさない。

 本田氏は「ひと」を大切にします。ひとりひとりの個性・自由な考えを尊重するのです。

(p68より引用) 現代の偉人は大衆の偉人であるべきだ。昔のように人の犠牲によってなり立った偉人は断固として排撃すべきである。ナポレオンしかり。豊臣秀吉しかり。人の犠牲によってなり立っている偉人を崇拝するという思想は非常にこわい。
 それは会社経営においてもこわいと思う。一人一人の思想が違うように、それぞれ持味、得意が違うのだから、その得意をみんなして出し合って一つの法人という偉人をつくりたい。

 こういった本田氏の考え方は、「経営哲学」といった範疇のものではなく、もっともっと根源的な氏の「人間観」そのものだと思います。

(p69より引用) 紙くずがあるなら拾ってやるとか、おばあさんが車道を横断できなければ手をひっぱってやるとか、心あたたまるような行為、これも偉人だと思う。・・・偉人というものは自分の周辺にいくらでもあるものだ、ということをわれわれが悟らなければならない。それが会社を発展させる基本であると思う。

 ひとを大切にする姿勢は、ひとの喜びを求めます。
 本田氏の喜びは、一人ひとりが自分自身の「夢」を抱くこと、そして自由な精神でその「夢」に向かって突き進むことでした。

(p177より引用) 正直にいって私の会社の組織なども、他の大企業に比較すると、足もとにも及ばない。・・・そんな私にも、ただ一つ誇りたいことがある。
 それは若い人たちである。その若い人たちに対して、本当の気持をくみとり、みんなにふるい立って働いてもらったということが、今日の繁栄をもたらしている、と思う。
 若い人はいいものだ。過去を持たないからいつも前向きの姿勢でいる。将来へ一歩一歩前進しながら、現実をありのままに受けとめて、新鮮な心でこれを吸収する。そして、正しく時代を反映する。
 いい経営とは、そうした若い人に夢をもたせることだ。・・・
 私の社の「社是」の第一条はこうだ。
「常に夢と若さを保つこと」

俺の考え 俺の考え
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