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本の「使い方」 1万冊を血肉にした方法 (出口 治明)

2015-03-29 09:50:07 | 本と雑誌

 ライフネット生命の経営者といえば、岩瀬大輔氏の著作は読んだことがありますが、出口治明氏の本は初めてです。
 ちょっと気になっている方なので期待して手にとってみました。

 さて、著者にとって「本」は、新しい知識を俯瞰的・総合的に身につける最大の源でした。他方、毎朝の「新聞」からも有益な情報を得ているとのことですが、著者の説く新聞の役割は「価値の序列づけ」にあります。


(p56より引用) 新聞の優位性はどこにあるかといえば、「文脈」にあると思います。文脈とは、いくつかの出来事に価値の序列を付けて、並べ替えることです。・・・
 新聞社によって価値の序列は違いますから、複数の新聞を読み比べてみると、「こんなにも違うのか」と思うことがあります。これがとても良い学びになります。考えるきっかけを与えてくれるからです。


 今でも著者は、毎朝3紙を1時間かけて目を通すことを習慣として続けているそうです。

 さて、幼いころからの本好きで、驚異的な読書量を誇る出口氏の読書への興味は、「人間への興味」の表れでもありました。ビジネスの世界にどっぷりと浸かっている出口氏ですが、それゆえ、促成的なビジネスのTipsには懐疑的です。


(p138より引用) 私は、ビジネスの気づきを得るためにビジネス書を読むことはまずありません。
 ビジネスは、人間を相手にするものなので、ビジネス書を読むこと以上に、人間社会の本質を知ることのほうが大切だと考えているからです。ビジネスで成功したいのなら、人間と人間がつくる社会を理解することに尽きるのではないでしょうか。


 もちろん、基本的なマーケティングやマネジメントの知識を良質なビジネス書から得ることまで否定しているわけではありません。が、出口氏は、それよりも様々な人間社会の在り様を伝える歴史書や優れた小説の意義を説いているのです。

 確かに、本書で紹介されている本は本当にバラエティに富んでいます。広く、そして深く、これだけの本を「熟読」したというのですから心底驚きです。
 出口氏の読書に対するアドバイスは、「興味を持てる本を読む」ということ。
 私も通勤電車の時間を使ってボチボチと本を読んでいるのですが、やはり手に取っている本には偏りがありますね。絶対的に小説のウェイトはものすごく小さいです・・・。
 せっかく稀代の読書人から説得力のあるアドバイスをいただいたのですから、今後は「興味」を持てる「馴染みのないジャンルの本」にも、意識して手を伸ばしていきましょう。

 

本の「使い方」 1万冊を血肉にした方法 (角川oneテーマ21)
出口 治明
KADOKAWA/角川書店
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通訳日記 ザックジャパン1397日の記録 (矢野 大輔)

2015-03-22 21:59:08 | 本と雑誌

 サッカーは大好きです。とにかく面白いサッカーを見るのが好きです。
 その点、日本代表のスタイルは正直あまり好きではありません。ワクワクしないんですね、日本代表にはズラタン・イブラヒモビッチはいないのです。やはり素材としての選手のタイプから、自ずとそのスタイルは規定されてしまうのでしょう。

 そのあたり、ザッケローニ氏が監督として日本代表をどうプロデュースしていったのか、ああいったスタイルに導いた必然性がこの本で語られているかもしれないと期待して手にとってみました。

 日本代表のサッカーを見ていて、おそらく誰しもが最も不満に思うこと。それは、しばしば中盤で交わされる「意思のない横パス」でしょう。2011年1月9日アジア杯初戦ヨルダンと引き分けた試合後の監督のコメントです。


(p46より引用) 監督が繰り返し話したのは、横パスと無意味なボールポゼッションが多くすぎたこと。


 そして、2013年6月、コンフェデレーションカップの初戦でブラジルに圧倒されたとき、このときも日本の悪い癖が出てしまいました。


(p226より引用) 我々が我々のプレーをしなければ、力を出し尽くさなければ、何が通用して何が通用しないのか分からない。その点でブラジル戦は無駄に終わったと考えている。


 こうザッケローニ監督は話したのですが、素人目には、日本代表が力を出し切れないほど、実力の差があったように思えました。自分たちのサッカーをするためには、自分たちの形でボールを持たなければ始まらないわけですが、日本は、そういう機会をほとんど作らせてもらえませんでした。


(p291より引用) これまでやってきたことが上手くいかなくなって、結果も出なくなると、当然迷いが生じる。監督として、オープンマインドで新しいチョイスを受け入れる姿勢を持たなければいけないが、それはチームとしてのコンセプトをすべて出し切り、それでも埒が明かないようであれば、新たなものを付け加えなければならないと思っている。


 この「すべて出し切る」という見極めがとても難しいのだと思います。早過ぎれば、それは安易な諦めになり、何をやっても中途半端に終わってしまうということになりますし、遅れれば、後手を踏んでさらに泥沼に沈みこんでしまいます。

 さて、本書の著者は、ザックジャパンの通訳という立場で、ザッケローニ監督が選手たちとコミュニケーションをとる場には必ず立ち会っていました。そこには、普通のマスコミを通しての報道では伺い知ることのできないザッケローニ監督や日本代表の素顔がありました。

 その中で印象的だったのは、ザッケローニ監督が選手たちに寄せている信頼の言葉でした。
 特に、長谷部選手に対する信頼には一方ならぬものがありました。長谷部選手が自分のキャプテンシーに疑問を抱いて、監督に相談した時、ザッケローニ監督はこう返したと言います。


(p177より引用) あらためて言おう。これからのチーム作りに関しての心配事や考えなくてはいけないことが多くある中で、唯一、キャプテンのことは何も心配していないんだよ


 これ以上の賞賛の言葉があるでしょうか。

 が、そういった日本代表選手にまつわるエピソード以外で私が興味を抱いたのは、ザッケローニ監督の人となりを示す数々の言葉でした。
 たとえば、監督就任しての第2戦2010年10月12日韓国戦を前にした移動バスの中で、著者にこう話したそうです。


(p32より引用) 「大輔、覚えていろ。人生でも何でもそうだ。何かをしたいと思ったら、リスクを冒さなければならない。リスクを恐れることが一番よくないんだ


 また、2011年1月9日アジア杯第2戦シリアに2対1で勝利したとき。


(p51より引用) 何とか勝った。嬉しかったけど、監督から「勝ったからといって、相手の目の前で喜び過ぎないように。相手は悔しい思いをしているのだから」とたしなめられる。


 勝ったからといって驕らない、相手をリスペクトした思いやりの心です。
 そして最後、2010年1月のアジア杯で優勝したあと、イタリアに一時帰国するため成田に向かうため車中での監督の言葉はとても印象的です。


(p72より引用) 「成功や結果は約束できないが、努力することは約束できる」


 以前、同じく日本代表監督だったイビチャ・オシム氏を描いた「オシムの言葉」という本を読んで、その人柄に深く感銘を受けたことがあります。
 本書で語られたアルベルト・ザッケローニ氏もまた、そうでした。

 

通訳日記 ザックジャパン1397日の記録 (Sports Graphic Number PLUS)
矢野大輔
文藝春秋
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「自分」の壁 (養老 孟司)

2015-03-15 10:10:20 | 本と雑誌

 久しぶりの養老孟司氏の著作です。
 大ベストセラーだった「バカの壁」から、もう11年も経つんですね。本書でも、歯切れのいい“養老節”は健在です。
 ここでは、その中からちょっと気になった指摘を、覚えとして書き留めておきます。

 まずは「日本のシステムは生きている」という章から、日本における「思想」の位置づけについて語っているくだりです。

(p91より引用) 日本にとって必要な思想は、全部、無意識のほうに入っているのです。・・・
 思想というのは一種の理想であり、現実に関与してはいけない。これが、日本における思想の位置です。現実を動かしているのは無意識のほうにある世間のルールです。

 西洋社会においては、「民主主義」とか「進化論」といったプリミティブな思想が、人々の意識や考え方に通底している、それに対して、日本人にとっての「思想」は、現実生活においては“お題目”のようなものに過ぎないというのが養老氏の捉え方です。

(p92より引用) 日本では、変に思想が突出するとかえって危ないことになります。それが太平洋戦争につながったわけです。日本で思想が先に立って成功した稀有な例は、明治維新くらいでしょう。

 日本人は「思想」の扱いに慣れていないのでしょう。いつもは重きを置かれていなくて意識もしていないものが、あるきっかけで最前面に押し出され自らに迫ってきたとき、その扱いに戸惑い、勢いある圧迫に完全迎合してしまうのです。

 同じような日本人の特質を採り上げているのが「絆には良し悪しがある」という章です。
 先の東日本大震災を契機に“絆”という言葉が人口に膾炙されました。この言葉で改めて認識された「日本的な共同体」ですが、昨今はその人間関係に煩わしさを感じる人が増えていたのが実態ですし、その流れは、震災があったとしても、大きな動きとしては逆流にまでは至っていません。

 この点に関し、養老氏は「信用や不信のコスト」という点から興味深い評価をしています。

(p114より引用) 人を信用するとコストが低く済むのです。・・・相手を信用していないと、何でもいちいちたしかめなくてはいけなくなります。これは手間暇、すなわちコストがかかることです。・・・
 日本人同士がお互いに信頼していた時代には、不信から生じるコストが低かった。そのことは案外、見過ごされやすいのだけれども、日本の成功の要因だったのではないかな、という気もします。

 この指摘は首肯できます。が、これはメリット・デメリットある中での一側面ということでしょう。
 白黒をはっきりつけないで物事を進めていくというやり方は、約束(契約)ごとに限らず、日本の“ものづくりの力”の源泉とも言われていた「すり合わせ文化」にも現れています。この評価についても近年はいろいろな議論があるところです。

 そしてもうひとつ、「あふれる情報に左右されないために」の章で論じられているのが、「メタメッセージ」の弊害です。
 インターネットの普及により情報過多となった今、養老氏が打ち鳴らす警鐘でもあります。

(p183より引用) メタメッセージとは、そのメッセージ自体が直接示してはいないけれども、結果的に受け手に伝わってしまうメッセージのことを指します。

 たとえば、マスメディアで喧伝されるイシューは、繰り返し繰り返し見聞きされることにより、受け手は「それ以外に重要なことはない」と思い込んでしまうのです。

(p184より引用) 問題は、メタメッセージというものは、受け取る側が自分の頭でつくってしまうという点です。自分の頭の中でつくったものですから、「これは俺の意見だ」と思ってしまう。無意識のうちにすりかわってしまうのです。これが、とても危ない。

 今はネット社会です。以前の比ではないような無数のメタメッセージが生れているのでしょう。だとすると、その弊害は計り知れません。

(p190より引用) 情報過多になり、知らず知らずのうちにメタメッセージを受け取り続けていると、本当に何が大事なのか、そのバランスが崩れてしまうように思えます。

 もちろん情報が豊富になると物事をより深く知ることができるようになります。ただ、これも必ずしも諸手を挙げて歓迎すべきことではありません。養老氏はこう続けます。

(p200より引用) ものが詳細に見えるということは、それ以外の世界がぼけることにつながる。・・・特定のことがきちんとわかったということは、それ以外の部分はわかっていないこともまたわかった、ということでもあるのです。

 この指摘はとても面白いですね。多くの人々は、あることが分かるとその周りのことも解明されたのだと誤解をしてしまうというのが養老氏の指摘です。

(p201より引用) 細部を調べれば調べるほど、全体は大きくなってしまうので、全体像からかえって離れてしまう

 だからこそ、まず細部を議論する前に、まずはざっくとした「全体像」をイメージすることが重要になるのです。
 この全体像は、時間軸・空間軸の広がりを意識したものでなくてはならないでしょう。こういった全体像が頭に入っていれば、様々な個々個別の断片情報がインプットされたとしてもこの全体像の中での位置づけ・意味づけを考えることによって、大きな方向性において判断を誤るリスクは激減します。そして、こういった全体像を多くの人々が共有することができれば・・・。

 「ビッグピクチャを描けない」、これが、養老氏が指摘する日本人の大きな弱点なのです。

 

「自分」の壁 (新潮新書)
養老 孟司
新潮社
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秋風秋雨人を愁殺す: 秋瑾女士伝 (武田 泰淳)

2015-03-08 09:52:38 | 本と雑誌

 新聞の書評で目にとまったので読んでみました。

 主人公の秋瑾は清朝末期の革命運動における中心人物。
 本書はその秋瑾の激烈な生涯をその思想や人間像ととも多彩に描いた評伝だと紹介されています。

 作品の舞台になった辛亥革命の初期、興中会・華興会・光復会といった地方組織がその実行部隊として活動しました。後に、孫文が日本でそれらの各団体を団結させる「中国同盟会」を立ち上げ、革命を指導していくことになります。


(p115より引用) 漢民族を中心とする共和国を建設するための、孫文の方針はたしかにまちがってはいなかった。だが、その正しい方針が、血と涙にまみれた闘争ののちに実現されるためには、孫文路線にしたがわないで、あるいは孫文計画を無視して、めいめいの衝動と信念と実行にひたすら忠実な異端者が、次から次へ死んでいくことが必要だったのである。


 この異端者たちのことを、著者はこうも表現しています。


(p115より引用) ぐずぐずしているのが何よりきらいな彼らは、ちらばった砂の如くに舞いあがって消えて行かねばならなかった。砂たちの情熱は、幼稚であり性急であった。だが、そのようなあまりにも幼稚なモノ、無謀なモノを無数にふみ台にしないでは、成功者の巧智、後から来る者の立派な計画は立証できないのである。


 本書の主人公秋瑾もまた、この「砂の一粒」でした。

 この評伝の中には、秋瑾と志を同じくした革命同志徐錫麟が登場します。
 彼は、1907年、諸般の事情から秋瑾らと呼応した武装蜂起の日時に先立ち安慶で蜂起しましたが、たちまち鎮圧・捕縛されてしまいます。そして、即刻処刑されるに至るのですが、処刑前の彼の供述は、自身の厳然とした信念の吐露に続き、今回の行動を自己の責任に収斂させることにより同志らへの断罪の波及を押し止めようするものでした。


(p200より引用) 「・・・君たちがわが輩を殺し、生きぎもを取り、両手両足を切断し、全身をこなごなに打ちくだこうと、それは一向にさしつかえない。ただし無実の罪で学生たちを殺してはならぬ。・・・革命党の人数はおびただしいが、安慶に在る者は我一人である。・・・他の者に累を及ぼしてはならぬ。わが輩の宗旨は孫文と異なっており、彼がわが輩に暗殺を命じたのではない」


 さて、本書を読み通しての感想ですが、正直なところ「秋瑾の評伝」という感じはほとんどしなかったですね。もちろん秋瑾は登場しますが、彼女自身にスポットを当てた記述というよりも、革命当時、様々な思想・心情を抱きながら、その時代の重心の移動に揺り動かされていった様々な人々の人物誌といった印象です。

 魯迅も含め中国近代史に関する人物と事件のそれなりの知識がないと、本書の素晴らしさは理解できないのだろうと思います。
 その点でいえば、恥ずかしながら私も、十分な理解に至らなかった一人です。

 

秋風秋雨人を愁殺す: 秋瑾女士伝 (ちくま学芸文庫)
武田 泰淳
筑摩書房
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マッキンゼー 世界の経済・政治・軍事を動かす巨大コンサルティング・ファームの秘密 (ダフ・マクドナルド)

2015-03-01 10:57:23 | 本と雑誌

 ちょっと前に「マッキンゼー流 入社1年目問題解決の教科書」という歯応えのない本を読みました。
 とはいえ、「マッキンゼー」という響きは、少なくとも私ぐらいの世代には一種独特な感覚を生起させます。近年は、以前ほどコンサルティング・ファームが脚光を浴びているとは感じられませんが、やはり、未だに気になる業界ではあります。

 本書は、マッキンゼーOBやその関係者に対する膨大なインタビューを通して、コンサルティング・ファームの雄である「マッキンゼー」の成り立ちとその実態を顕かにしようと試みた著作です。

 1935年、マッキンゼーの創始者ジェームズ・マッキンゼーは、自らがコンサルティングしていた当時アメリカ中西部で最大の百貨店マーシャル・フィールドの会長兼CEOに就任しました。


(p41より引用) 「単に何をすべきかを助言するより、自分自身で経営上の意志決定をするほうがはるかに難しいとは、これまでの人生でまったく知らなかった」と同僚に言ったことはよく知られている。それは、みずからが築いてきた新興分野に対する辛辣な非難だった。


 まさにコンサルティング及びコンサルタントの現実の姿を痛感した言葉でしょう。

 本書では、そのほかにもコンサルティングの本質を突いた興味深い記述がいくつもあります。
 たとえば、


(p133より引用) コンサルティング・ファームが売る「戦略」は、本質的には幻想だ。役員室に座って好きなように構想を練ることはできるが、いったん始まってしまうと、そこから先は状況に即応していかなければならない。優良企業がずっと効率的で効果的なのは、社員たちが仕事をする訓練を受けているからだ。どのような大組織においても、最も難しいのは最前線で仕事の規律を保つことだ。


 簡単にいえば、どんな「戦略」が示されたとしても、結局は「実行」できるかどうか、その実行させるマネジメント力がないと無意味だということです。
 もっといえば、課題を抱えている企業はそもそも「実行力」の欠如が根本的な課題であり、これを解決しないとどんな立派な「戦略」を立てても無意味だということでしょう。この点において、コンサルタントがどこまでクライアント企業に対して責任をもって貢献できるか、これがコンサルティング・ファームの根源価値だと思います。

 次に、マッキンゼーに「ナレッジマネジメント(知識資産の共有)」の仕組みを導入したフレッド・グラックの言葉。
 彼は、事務所の中には、スペシャリストとゼネラリストの双方が必要だと主張していました。その文脈の中で、こう語ったといいます。


(p167より引用) 「マッキンゼーのコンサルタントの誰もがゼネラリストになる必要があるが、必ずしも自分が話している内容を理解している必要はない


 これは、とんでもなくいい加減な言葉に聞こえますが、なかなかに含蓄のある台詞でもあります。
 個々のコンサルタントの限界を認識しつつも、なお、組織としての知の力を自らのビジネスの礎にしているのです。個別業界・テーマに関する豊富なスペシャリストが組織内に存在しており、彼らの専門的な知見を縦横無尽に活用し尽くす仕組みがあるからこそ成立しうる主張ですね。

 そしてもうひとつ、企業の経営層がコンサルティング会社を雇う大きな動機について触れているところを書き留めておきます。
 1980年代終わりごろから顕著に出てきた動き、すなわち「ただ伝えるためだけに」マッキンゼーを雇い始めたというものです。


(p220より引用) IBMを雇うのは、技術インフラ全体の改造や、給与処理や人事管理を外注するなど、具体的で現実的なことが目的だ。マッキンゼーのコンサルタントを雇うのは、単なる戦術だ。CEOが10パーセントのコスト削減が必要だと感じ、それでも従業員から賛同が得られそうにないとき、マッキンゼーを雇う。そうすれば会社全体に経営側の意図がはっきり伝えられるのだ。


 この効果は、明らかにマッキンゼーが他社に勝っているものでした。

 さて、最後に書きとめておくのは、「エンロンの破綻」への関わりについてのマッキンゼートップの説明です。
 スキャンダル発覚後、MDのラジャット・グプタはこう語ったと言います。


(p292より引用) 「私たちがエンロンと行ったすべての仕事において、金融の構造化あるいはディスクロージャー、あるいは彼らを窮地に立たせることになるいかなる問題にも、いっさい関与していない」・・・「私たちはあらゆる仕事について傍観者の立場にいる。私たちにできるのはクライアントの苦労に共感することだけだ。見ているのはつらい」。それから彼は、いつものように言い抜けた。「クライアントに戦略を助言するだけだ。起こした行動の責任は彼らにある」


 確かに、コンサルタントの助言を採るか否かの最終決定はクライアントの判断です。それはそうなのでしょうが・・・。

 

マッキンゼー―世界の経済・政治・軍事を動かす巨大コンサルティング・ファームの秘密
日暮 雅通
ダイヤモンド社
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