OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

抱影 (北方 謙三)

2011-01-29 13:29:42 | 本と雑誌

 そもそも小説はほとんど読みません、さらにハードボイルド系は本当に久しぶりです。
 とは言うものの、私もだいぶ以前の大藪春彦に始まり数年前の大沢在昌まで、時折り手に取っていたころもありました。もちろんその過程では、北方謙三氏の作品も何冊か読んではいます。

 さて、本書ですが、昨年(2010年)末の読売新聞の書評欄で、「今年の3冊」という特集があり、その中で文芸評論家の北上次郎氏が紹介していたので興味を抱いたものです。

 主人公の抽象画家硲冬樹は52歳、ほぼ私と同年齢。舞台となっている横浜曙町界隈は、私が結婚して最初に入った社宅のそば。ということで、ちょっとプロットには親近感があります。
 小説ですからここで内容の紹介は控えましょう。ちょっと気になったフレーズをひとつ書き留めておく程度にしておきます。

 
(p251より引用) 必然が生む、抽象。・・・必然は、私の気持そのものだった。自分が、失わずに持ち続けている、ただひとつのきれいなもの。それは気持であり、かたちを持ってはいないのだ。

 
 主人公は、精密な写実のデッサンからデフォルメを進め、そして形のないところへ飛ぶことによって抽象画を描いていました。

 作品の印象ですが、読む前の書評のインパクトが強すぎたせいか、ちょっと期待が大きかったかなというところですね。
 
 

抱影 (100周年書き下ろし) 抱影 (100周年書き下ろし)
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-10-01

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バックキャスティング思考(キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち(石田 秀輝・古

2011-01-26 22:11:03 | 本と雑誌

Gaudi  地球環境問題に対応する将来の私たちの暮らしぶり、その時の具体的な社会・生活はどうなるのでしょう。どうすれば、新たな「ライフスタイル」の具体像をつかめるのでしょうか。

 まず、著者は、今から先を考える「フォアキャスティング思考」だけでは、生存のための制約条件を前提とした低環境負荷型ライフスタイルの具体像を描くことは困難だと考えています。そのうえで、現実的な実現案を生み出すメソッドとしての「バックキャスティング思考」を提唱しているのです。

 
(p39より引用) 世界のすべての人が日本人と同じ暮らしをすれば地球が2.4個、アメリカ人と同じ暮らしでは地球が5.6個必要です。でも、私たちには、もちろん1つの地球しかありません。1つの地球で、どのように心豊かに暮らしていけるのか、その新しい暮らしのかたちを見つけるには、1つの地球を前提に考えるバックキャスティング視点がぜひ必要なのです。

 
 バックキャスティング思考で「暮らしの方向性」を明らかにし、フォアキャスティング思考で、それに向かう「現実解」を考える、こういうデュアル思考の薦めは非常に興味深いものがあります。

 この思考方法を適用すると、今後のマーケティング活動においては、以下のような方法論が求められることになります。

 
(p136より引用) これまでの企業のマーケティング活動では、調査によって過去と現在を知り、分析することで、未来への戦略を策定していました。・・・これからの時代は、未来の状況を予測データから把握して、こうあるべきというイメージを自分たちのなかに創ったうえで。戦略策定の糸口をつかんでいかなくてはなりません。そして、そのためには、これまで主流だった差別化のための調査・分析手法だけでなく、生活価値を新しく創り出す構想型の方法論が必要となります。顕在化しているニーズを絞り込んでいくのでなく、まだほんの小さな予兆としてしか現われていない現象と未来の環境制約から、未来を構想するのです。

 
 そして、この方法論で発想された今後の変化や製品・サービスアイデアを網羅的にまとめたものが、「2030年の曼荼羅」(p148)です。これは、マクロ環境予測・生活者の行動・生活者の欲望・具体的製品・サービスを同心円状に表現したもので、とても参考になります。

 最後に、ひとつ、特に私の関心を惹いた部分を覚えに記しておきます。
 「オリジナリティとはオリジンに戻ることである」
 本書で紹介されてるアントニオ・ガウディのこの言葉は蓋し名言ですね。

 
(p85より引用) 価値は、一方向に向かっているわけではないと考えた場合、原初的な行動を分析し、その本質的価値に立ち返ることは後戻りとは言えません。・・・新発明とかエコであると叫び続けながらさほど新しくないものを次々と生み出すよりも、本質的価値に戻って持続可能性の高い暮らしのかたちと、そこにある製品・サービスを考える方が、よりオリジナリティが高いと言えるのではないでしょうか。

 
 「『独創性』は『根源的』である」、まさに的確に本質を突いた指摘です。
 
 

キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち (B&Tブックス) キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち (B&Tブックス)
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2010-09

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

低環境負荷型ライフスタイル (キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち(石田 秀輝

2011-01-23 10:23:33 | 本と雑誌

 地球環境問題をテーマとした書籍は数多くありますが、本書は、「低環境負荷型ライフスタイル」をテーマに、その実現の前提となる「人びとの意識の持ち方」や「具体的な暮らし方の提示」等をとても優しい書きぶりで紹介していきます。

 冒頭、以下のような問題意識が提示されています。

 
(p5より引用) 今まではものがたくさんあれば豊かさが実現できると思い込み、ものを市場に溢れさせ、結果として環境劣化が加速しました。今望まれているのは、「人間らしく生きるためには豊かさが必要」という考え方で、その豊かさを担保するために必要な「もの」を市場に投入することなのです。2030年の厳しい環境制約のなかでも、心豊かに生きるとはどういうことなのか、そのためには、どのようなライフスタイルを提案できるのかが問われる時代なのです。

 
 ここで目指すべき方向としてされるものが「低環境負荷型ライフスタイル」です。

 地球環境問題は、すべての人々にとって逃げることのできない大きな課題です。
 この「地球環境問題」として扱われている具体的なリスクとしては、地球温暖化 資源・エネルギー問題、生物多様性の急速劣化、人口増加等々が挙げられます。が、これらの個々の問題の根本に遡って探っていくと、 「人びとの暮らし方=ライフスタイル」にたどり着きます。

 
(p13より引用) 地球環境問題とは、本来リスクとはならなかったこれらをリスクにしてしまった物質消費を中心とする人間活動の際限のない拡大に他ならないのです。

 
 となると、地球環境問題を根本的に解決するためには、従来型の「人びとの暮らし方=ライフスタイル」を変えていかなくてはなりません。
 では、いったいどういう姿に変わらなくてはならないのでしょうか。

 
(p20より引用) 「人間らしく生きるために必要な豊かさ」を考えてみると、それは人と人との繋がり、人と自然の繋がり、さらにはあらゆるものとの繋がりが見えてきますし、「足るを知る」とか「もったいない」に見られるような、発散せず内なるものに和合する粋な暮らしのかたちが見えてきます。

 
 どうやら、従来のような「外向・拡大」型の延長線上には解はなさそうです。私たちを取り巻く環境を制約条件として、その中での「豊かさ」を追求していくというスタイルに変わっていかなくてはならないようです。
 
 

キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち (B&Tブックス) キミが大人になる頃に。―環境も人も豊かにする暮らしのかたち (B&Tブックス)
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2010-09

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化人の諸相 (文化人とは何か?(南後 由和 編)

2011-01-21 22:36:04 | 本と雑誌

 本書は、(いわゆる)「文化人」の諸相を、10名を越える研究者による論考や磯崎新氏・福田和也氏といった個性的人物へのインタビュー等によって、多面的に紹介したものです。

 それぞれの論考を個別に見ていくと玉石混交の観もありますが、ところどころに「なるほど」という気づきや興味を惹くフレーズがありました。
 そのいくつかをご紹介します。

 まずは、「岩波アカデミズム」という一派についてです。

 
(p24より引用) 大正10年には岩波書店の『思想』が創刊され、アカデミズムとジャーナリズム(論壇)の結合が進んだ。社会学者の竹内洋は、岩波は東京帝大や京都帝大教授の著作・論文を出版・掲載することで、アカデミズムによって正統性を賦与され、逆に、アカデミズムは自らの正統性を証明するためにジャーナリズムの岩波によりかかり、その中間領域に「岩波アカデミズム」なるものが創出されたと指摘している。

 
 これは、とても面白い指摘だと思います。
 私も少々古い人間ですから「岩波」というブランドには弱いところがあります。岩波の学術書が書棚にあると一種のプレッシャーを感じますし、岩波文庫の青帯や白帯は、年に数冊は読まなくてはと思ってしまいます。しかし、その「岩波」ブランドの構造がアカデミズムとジャーナリズムとの相互依存関係で成り立っているというのは正鵠を得ていますね。

 二点目も、メディアに見られる相互依存関係の一相です。採り上げられているのは「学者」、とくに「科学者」の肩書きを持つ歴々です。

 
(p125より引用) イギリスの科学ライターで生命科学論の研究者でもあるマット・リドリーは、「科学的な議論のほとんどは、テレビには向いていない。科学には、考えることや詳細な説明や議論することが必要なのだが、これはメディアが嫌う三大要素である。・・・」と述べている。

 
 このリドリーが指摘する「科学とメディアとの背反性」の裏返しで、そのリエゾンとして似非科学者が登場する機会が生まれるのです。
 この点について、東京大学大学院情報学環教授の佐倉統氏はこう語ります。

 
(p127より引用) もともと相性の悪いマスメディアと自然科学。その間隙を縫って繁栄する「非正統」科学者たち。「脳文化人」「芸脳人」も、このような科学的文化人の一種である。

 
 メディアで科学を語る人物は、いわゆる「界」の中では、純粋学問的な業績をあげていなかったり、異端的・少数意見の主張者であったりするとの論ですが、この真偽については、私も語るだけの素養を持ち合わせてはいません。
 
 

文化人とは何か? 文化人とは何か?
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-08-28

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化人の系譜 (文化人とは何か?(南後 由和 編))

2011-01-19 22:52:10 | 本と雑誌

 タイトルが気になったので借りてみた本です。

 内容としては、「文化人」を茶化した感じで揶揄しているものかと思っていたのですが、思いの外、興味深いしっかりした論考もありました。

 冒頭、東京大学大学院情報学環助教の南後由和氏が「文化人の系譜」と題した小文を記しているのですが、この解説はなかなか秀逸だと思います。その中から、私の興味を惹いたくだりをいくつかご紹介します。

 まずは、戦争を挟んで、「文化人」が登場したころの記述です。
 戦前にはインテリの部類に入らなかった司会者・芸能人たちが、戦後しばらくした頃に、その社会的地位を急上昇させました。その趨勢について(まさに当時の「文化人」たる)政治学者丸山眞男氏はこうコメントしています。

 
(p18より引用) 「インテリの芸能人化」と「芸能人のインテリ化」という二つの傾向が合流して、その両方を共通に括る言葉が必要になり、「文化人」という言葉が出て来た。

 
 「文化人」という言葉が「広辞苑」に登場するのは、1983年の第3版が初めてだということです。第2版が発行された1969年には未掲載であったので、「文化人」は1970年代にその地位を確立したようです。

 こういった(いわゆる)「文化人」の登場については、当然のごとく批判・疑問の声があがりました。その代表者としての評論家福田恒存氏の主張はこういった内容でした。

 
(p32より引用) 進歩的文化人批判の先鋒として知られる評論家の福田恒存は、進歩的文化人の思い上がりや、時流に合わせた迎合的態度を厳しく批判して、次のように述べた。
《私の気になるのは、「文化人」たちが民衆を愚昧から救ひあげてやらうなど身のほど知らずのことを考へてゐることです》。
「文化人」はなんでもかんでも、あらゆることに原因や理由を指摘でき、意見を開陳できなければならないのでせうか。(中略)なにか発言しなくてはならぬとしても、自分にとつても切実なことだけ口をだすという習慣を身につけたらどうでせうか。・・・》

 
 この傾向は今も変わっていないですね。むしろ、その低俗化は「コメンテーター」というよく分からない肩書きの方々の増殖で、ますます救い難い状況になっていると感じます。

 「文化人」は、メディアにおいては、「専門家」と「一般大衆」との間に位置するインタフェースとしての機能を果たしているとの指摘もあります。しかしながら、自己責任を伴わない「語る価値のない短言」や「一般大衆」が既に潜在的に感じていることに「迎合した甘言」を口に出すだけなら、自らのステイタスを貶め続けるだけになるのでしょう。
 
 

文化人とは何か? 文化人とは何か?
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-08-28

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水に流す (日本人の〈原罪〉(北山 修・橋本 雅之))

2011-01-16 08:43:59 | 本と雑誌

 「見るなの禁止」を破った側は、その出来事をどう処理したのでしょうか。
 たとえば、イザナキ。彼は禁を破ったという自らの態度を「非」と認識していないようです。与ひょうも同じです。

 禁を破り幻滅に直面したとき、イザナキや与ひょうは慌てて逃げ出しました。その結果「罪」がその場に留まり隔離されることになりました。

 
(p125より引用) 原初の幻滅体験から生じ、長きにわたって強固に隔離され、〈この国〉の精神文化の表舞台から排除されてきた〈影〉としての〈罪〉を、私たちは〈原罪〉と呼ぶのである。

 
 そういう「原罪」を残してしまった物語(日本人の精神性の歴史)を変える機会について、北山氏はこう説いています。

 
(p82より引用) 見たイザナキが騒ぐので見られたイザナミも怒ったのであろう。人間でありながら動物である妻の姿を見て幻滅する〈与ひょう〉があわてなければ、〈つう〉もそこに留まることができたであろう。また、〈つう〉が矛盾や幻滅を引き受けてそこに留まるなら〈与ひょう〉にも矛盾感、嫌悪感から移行して罪悪感が次第に経験され、反省そして償い〈クライン〉の機会が与えられたであろう。・・・〈私〉が醜いものを見て驚いたとしても逃げず、そして矛盾感や嫌悪感をそこに置いて、「すまない」を味わえば、別れの物語が変わるかもしれないというわけだ。

 
 しかし、日本の伝説の中では、「見るなの禁止、」において「見られた側」は「恥」と感じ、日本の精神文化において、それは美化されていきました。結果、「見た側(禁を破った側)」の「罪」は問われず、「禊」により「水に流されて」しまったのです。

 北山氏は「原罪」を償う術を、再び行き去った現場に立ち戻り、そこにおいて「すまない」の態度を示すことだと説いています。同様に、橋本氏の主張におけるこの原罪を償い解消する術が「殯」であり「弔い」でした。
 ここで、北山氏の「すまない」の態度が橋本氏の「弔い」と同期するのです。

 さて本書で展開された論考は、精神分析の専門家と国文学者との学際研究として非常に興味深いものでした。
 ただ、第1章で紹介された北山氏の「古事記」をケースとした臨床的視点からの精神分析の考察は、フロイト心理学の基本概念等の知識がない私にとっては今ひとつ難解でした。少々残念です。
 
 

日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書) 日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2009-01-16

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「見るなの禁止」 (日本人の〈原罪〉(北山 修・橋本 雅之))

2011-01-14 23:45:05 | 本と雑誌

Kojiki_2  著者のひとりの北山修氏は、私たちの年代では「あの北山修」さんと「あの」という接頭語がつきます。作詞:北山修、作曲:加藤和彦「あの素晴らしい愛をもう一度」は永遠の名曲のひとつですね。

 本書では、その北山氏が、専門の精神分析学の視点から古事記に見られる日本人の精神性の基に迫っていきます。そして、もうひとりの著者、橋本氏は国文学の立場から「古事記」を解釈し、北山氏と共振した主張を展開します。

 両者が採り上げたテーマは「日本人の『原罪』」です。キーワードは「見るなの禁止」

 
(p183より引用) 山幸彦神話でふたたび登場する「見るなの禁止」も、やはり男の裏切りに終わるが、ここでもついに禁を破った男の〈罪〉が問われることはない。このような思考のあり方は、現代にいたるまで根強く我々の考え方を規制しつづけている。

 
 古事記における「イザナキ」「山幸彦」、昔話における「与ひょう」・・・、彼らは、「見るな」という禁を破ることにより、対象との間で決定的な別れを経験します。

 
(p183より引用) 「見るなの禁止」が、日本神話や日本文化のなかでどのように機能していたのかを考えると、つぎのような意味を持つものであったと言うことができるように思う。それは、肯定的にとらえるならば、異質な存在が深刻な対決をすることなく共存するための、現実的な解決法であったと。・・・
 しかしこれを、去っていく「異類」の視点から見直して批判的にとらえるとどうなるであろうか。・・・去っていく側の立場に立って別離を考えてみると、それは「異類」性を背負わされて追放されることなのである。

 
 著者のふたりは、「禁を破った側」の一種不誠実な態度、そして、そういう行いに対し日本人一般が示す極めて寛容な態度に着目します。

 
(p184より引用) いささか厳しい言い方をするならば、これらの神話や昔話が語っているのは、人間が自らの異類性を棚上げにして生きることの知恵、深刻な問題を掘り下げずに表層の安定を継続する知恵なのである。

 
 この点は、まさに「曖昧さ」を残す日本人の思考・行動様式の根本に関わる指摘ですね。タブーを破った側の責任や罪悪感がそれにより軟化されてしまうのです。

 これは古事記の別のシーンでも現れます。登場人物は「スサノヲ」と「アマテラス」です。

 
(p159より引用) スサノヲが犯した「天つ罪」を咎めることなく「詔り直す」ことによって、善意に解釈するというアマテラスの態度は、問題のすり替えであるとも言える。〈罪〉を〈罪〉として認めないこのような思考方法は、現在にいたるまでこの国に継承されてきているように思われる。そしてそれが、しばしば国際的な軋轢を生む結果となっているのではなかろうか。

 
 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和16年夏の敗戦 (猪瀬 直樹)

2011-01-11 21:58:31 | 本と雑誌

Pearl_harbor  著者の猪瀬直樹氏自らがtwitterで紹介していたので読んでみた本です。

 舞台は「総力戦研究所」。日米開戦直前に設置された政府の公式組織です。昭和15年9月に公布された「総力戦研究所官制」には、その設置理由が以下のように記されています。

 
(p53より引用) 近代戦は武力戦の外思想、政略、経済等の各分野に亘る全面的国家総力戦なるに鑑み総力戦に関する基本的研究を行ふと共に之が実施の衝に当るべき官吏其の他の者の教育訓練を行ふべき機関として総力戦研究所を設置するの要あるに依る

 
 研究生として召集されたのは、官庁・軍部・民間から33名。30歳台の各界中堅メンバが「模擬内閣」を組織し、現実をほんの少し先取りする時間経過で対英米戦に関する議論を重ねたのです。

 東條英機は首相に就任する前、陸相のとき、総力戦研究所の「閣議」を傍聴していました。彼が研究所の議論に関心を抱いていたことは間違いありません。

 
(p202より引用) 模擬内閣の〈閣議報告〉は現実の政策の選択肢に肉薄していた。いや超えていた、といってもいい。
 ・・・すべての命令権を持つ統監部〈教官側〉と研究生で組織する〈内閣〉の“往復書簡”は、真珠湾攻撃と原爆投下を除いては、その後起こる現実の戦況と酷似していたからである。

 
 研修生たちの出した結論は、「日本必敗」でした。

 
(p158より引用) 総力戦研究所研究生が模擬内閣を組織し、日米戦日本必敗の結論に辿り着いたのは昭和16年8月のことであった。・・・総力戦研究所の模擬内閣が今日評価されるとしたら、彼らが事態を曇らない眼で見抜き予測した点にある。その予測を可能にしたのはタテ割り行政の閉鎖性をとりはらって集められた各種のデータであり彼らの真摯な討議であった。

 
 アメリカによる対日石油輸出禁止により日本が南方進出を決めたときから、すでに結果は明白だったのでした。日本の国力に関する“事実”(データ)は、判断者が誰であろうと当然の如くひとつの結論に誘うものでした。

 
(p258より引用) 東條が総理大臣になった10月18日以降の議論は、すでに出された事実を蒸し返していたにすぎない。“事実”はつじつま合わせのために利用されたにすぎない。
 高橋は自らの体験を踏まえてこういい切る。
「開戦までの半年は、すでに出ていた結論を繰り返して反芻し、みなが納得するまでの必要な時間としてのみ消費された」
“事実”を畏怖することと正反対の立場が、政治である。政治は目的(観念)をかかえている。目的のために、“事実”が従属させられる。

 
 11月5日の御前会議で、鈴木企画院総裁は「数字」を並べ「インドネシアから石油を取ってくれば、対英米蘭戦争に進んでも日本の自給体制は保持しうる」と説明しました。

 
(p191より引用) 「・・・とにかく、僕は憂鬱だったんだよ。やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにつじつまを合わせるようになっていたんだ。・・・」

 
 齢93歳、鈴木氏の回想の言葉です。
 
 

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫) 昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2010-06

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MacPeople (2011年2月号)

2011-01-10 15:18:55 | 本と雑誌

 レビュープラスから献本いただいたので読んでみました。
 タイトルどおり「Mac」ユーザーのための専門誌です。

 今回の号で特に興味を惹いた記事は「特集1 マックのこれからがわかる用語を解説 最新ワード10」ですね。

 取り上げられたのは、「Bluetooth 3.0」「Blue-ray」「DLNA」「exFAT」「GPGPU」「HDMI」「HTML5」「LTE」「USB 3.0」「VHD」の10項目。それぞれについて見開きで、「用語解説」と「マックでの活用法」が紹介されています。
 用語解説の方はコンパクトにポイントが整理されていて、Macユーザー以外の方にも役立つ内容です。

 もうひとつ、付録の別冊「MacとWin インターフェース比較論」も参考になりますね。

 内容は「Mac OS X Snow Leopard」と「Windows7」を比較したものですが、「デスクトップ」「ファイルブラウザー」「キーボード操作」「テキストエディター」等々、22項目にわたって具体的な機能やユーザーインターフェース等の違いを分りやすく解説してくれています。
 単なる両者の「違い」だけではなく、似たような操作性を実現するためのTipsや、不足している機能を補うためのフリーウェアの紹介等も充実していて実用性の高い記事になっています。
 こちらもMacユーザーに限らずWindowsユーザーにとっても十分参考になるものだと思いますよ。

 さて、そのほかにもAndroid携帯のレビューやMacとWALKMANとの連携記事等も掲載されていて、ALL Macにこだわっていないところもいいですね。
 パラパラとページを繰ってみるだけでも、何か新しい話題を見つけられるかもしれません。
 
 

Mac People (マックピープル) 2011年 02月号 [雑誌] Mac People (マックピープル) 2011年 02月号 [雑誌]
価格:¥ 890(税込)
発売日:2010-12-27

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本赤軍! 世界を疾走した群像 (重信 房子 他)

2011-01-09 09:20:46 | 本と雑誌

 たまたま、いつも行っている図書館の新着図書の棚で目についたので借りてみました。

 赤軍派、連合赤軍、日本赤軍・・・と並べられてもその思想信条等について興味を抱いたことはありません。ただ、赤軍派による「日航機よど号ハイジャック」や連合赤軍が起こした「あさま山荘事件」については、私は当時まだ小学生でしたが、テレビ中継等の映像も含めて記憶には強く残っています。

 本書は、60年代・70年代、日本および世界の社会において特異な活動体であったグループの主要人物をとりあげ、彼らとの書簡のやりとりやインタビューを取りまとめたものです。インタビュアーの小嵐九八郎氏も当時の活動家のひとりでした。

 以下に、それらのインタビューの中から、いろいろな意味で私の興味を惹いた部分をいくつか書き留めておきます。

 まずは、「ハイジャック」について、元赤軍派議長塩見孝也氏の述懐です。

 
(p47より引用) ハイジャックの基本理念、三ブロック同時革命ね、・・・これは今でも間違っていないと思う。しかし、軍事思想に関しては完全に間違いだったと思う。つまり、近代輸送装置の飛行機を乗っとること自体は簡単だと思うけど、乗客、民衆を盾にして自らの主張を通すという思想が、根本的に間違っていると思います。

 
 次は、元日本赤軍リーダー重信房子氏の語る「日本赤軍の活動からみた教訓」

 
(p122より引用) ・・・「現実的な社会変革への地道なかかわり」を育ててほしいと願っています。ラジカルな思想や戦略は、必ずしも急進的戦術であることを意味しません。そのことを経験の中で学びました。ラジカルで根底的な思想と戦略は、却って寛容で多様な戦術を必要とします。小さくても、一つ一つ勝利感をもてるような多様な戦術・方法によって、日本の今の社会を変える力を育ててほしいと思っています。

 
 個々の単語の意味するところは私がイメージするものと異なるのかもしれませんし、使われている単語も必ずしも共感を抱くものではありませんが、変革への姿勢という点では首肯できるアドバイスだと思います。

 そして、日本赤軍にも所属していた足立正生氏による「アラブにおける民族主義と国際主義」の位置づけについてのくだり。

 
(p207より引用) ヨーロッパの近代植民地主義が勝手に占領して国境線を引いて分割したけれども、人びとは「国民」になる前に、植民地化される前の地域丸ごとの民族意識の方が先にある。日本いわれる「民族主義」は、国境の中に閉じ込められた排外主義的なものをいいますが、アラブでは逆で、民族主義が国境を越えた国際主義になる。

 
 最後に、再び塩見孝也氏からの「今の若者へのメッセージ」。

 
(p57より引用) ものごとを一貫して考えて、原則をもって哲学していくような思考は、今の若者にはないと思いますよ。しかし、・・・やはりしたいことをしろというか、いったんぶつかった壁を考え続けろというのか、自分を恃みにして自分流に生きろ、というのが一番だと思いますね。

 
 生きた時代や思想は異なります。また、実際に執られた行動も私にとって理解できるものではありませんが、今まで近づかなかったものにも触れてみると、「相似と相違」を考えることができます。
 
 

日本赤軍!世界を疾走した群像―シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する〈2〉 (シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する 2) 日本赤軍!世界を疾走した群像―シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する〈2〉
価格:¥ 2,625(税込)
発売日:2010-09

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市場原理 (街場のメディア論(内田 樹))

2011-01-07 22:35:08 | 本と雑誌

 本書は「街場のメディア論」というタイトルではありますが、直接的にメディアに関する話題以外でも、興味深い主張が数多くありました。
 そのうちのいくつかを以下にご紹介します。

 まずは、「市場原理の暴走」について。
 内田氏がある国立大学の看護学部に講演にいった際経験したエピソードです。

 そこのナースセンタには、「『患者さま』と呼びましょう」と呼びかけるポスターが掲示してあったそうです。厚生労働省からの指示によるのですが、この病院では、「患者さま」と呼び始めて、院内規則を守らず、ナースに暴言を吐き、入院費を払わず退院する患者が増えたとのこと。
 この状況に対する内田氏のコメントです。

 
(p77より引用) 当然だろうと僕は思いました。というのは、「患者さま」という呼称はあきらかに医療を商取引のモデルで考える人間が思いついたものだからです。

 
 医者と患者が向き合う医療現場も「売る人」「買う人」という「市場関係」と相似形で語ることができるのでしょうか。市場は決して誤らないという「市場原理主義」を、商取引以外の社会関係にまで無条件に敷衍するのは、明らかに間違いだと私も思います。

 こういった市場原理主義適用の過ちは、医療現場に止まらず教育現場でも見られます。

 
(p122より引用) 市場原理を教育の場に持ち込んではいけない。そのことを僕はずっと言い続けています。・・・「社会制度は絶えず変化しなければならない。それがどう変化すべきかは市場が教える」という信憑そのものが教育崩壊、医療崩壊の一因ではないのかという自問にメディアがたどりつく日は来るのでしょうか。

 
 もうひとつ、「著作権」について。
 最近、デジタルコンテンツの流通拡大に伴い「著作権」については様々な立場からの議論がなされています。内田氏は、公にした自身の評論・論文等については「著作権フリー」を実践しています。広く自分の主張を広めるためには、その方が良いとの判断ですが、「著作権」をビジネスの商材ととらえる動きもあります。

 
(p147より引用) 短期的利益と引き換えに、著作権を軽んじる社会では、創造への動機づけそのものが損なわれる。
 中国のような海賊版の横行する国と、アメリカのようなコピーライトが株券のように取引される国は、著作権についてまったく反対の構えを取っているように見えますけれど、どちらもオリジネイターに対する「ありがとう」というイノセントな感謝の言葉を忘れている点では相似的です。

 
 著作権はビジネスベースで扱われるべきものではなく、読者に対する「贈り物」であり、それに対しては「感謝の気持ち」で報いるべきというのが、内田氏の主張です。非常に面白い考え方だと思います。

 
(p176より引用) 「価値あるもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返礼を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。・・・ひとりの人間が返礼義務を感じたことによって、受け取ったものが価値あるものとして事後的に立ち上がる。僕たちの住む世界はそのように構造化されています。

 
 「著作権」として認められる「価値」の根源はどこにあるのか。これを追求する中で提示された「贈与経済」というコンセプト、そしてそれに依拠した内田氏の立論はとても独創的で興味深いものです。

 最後に、「メディア」の話題に戻ります。
 内田氏によると、昨今のメディアの劣化はその「定型的パターン化」の帰結とのこと。

 
(p99より引用) メディアの定型性は二種の信憑によってかたちづくられているというのが僕の仮説です。・・・
 第一は、メディアというのは「世論」を語るものだという信憑。第二は、メディアはビジネスだという信憑。この二つの信憑がメディアの土台を掘り崩したと僕は思っています。

 
 この内田氏の指摘は、現代メディアの本質を結構的確に言い表しているように思いますね。
 
 

街場のメディア論 (光文社新書) 街場のメディア論 (光文社新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2010-08-17

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディアの価値 (街場のメディア論(内田 樹))

2011-01-05 22:27:08 | 本と雑誌

 内田氏も、学者としては比較的マスコミへの露出も多い方で、まさに「メディア」を仕事場にしているお一人です。自分自身にも大きな関わりがあることから、わが事として「メディア」の動向については注視し、積極的に発言しています。

 昨今のこの手の議論は、インターネットに代表される新たなメディアの台頭と、新聞・テレビといった従来型メディアの衰退といったコンテクストが主流になっています。こういったステレオタイプの対比スタイルに対して、内田氏は、もっと根源的な価値判断がなされるべきだと指摘しています。

 
(p41より引用) メディアの価値を考量するときのぎりぎりの判断基準は「よくよく考えれば、どうでもいいこと」と「場合によっては、人の命や共同体の運命にかかわること」を見極めることだろうと思います。そういうラディカルな基準を以ってメディアの価値は論じられなければならない。どのメディアが生き残るべきで、どのメディアが退場すべきかがもっぱらビジネスベースや利便性ベースだけで論じられていることに、僕は強い危機感を持っています。

 
 この指摘は重要です。新たなメディアであっても「どうでもいいもの」は淘汰されるでしょうし、旧来メディアでも「重要なもの」は生き残るということです。

 では、「どうでもいいもの」であるメルクマールは何か、考えられる一つは、「正義」を追求するものか否かでしょう。このメディアの正義感がまた曲者です。メディア、特にテレビや新聞といった一般大衆に露出の多いメディアは、自ら「正義の味方」であることを標榜しますし、「弱者の味方」として振る舞います。

 
(p83より引用) メディアが一度「正義」だと推定したら、それは未来永劫「正義」でなければならないと思っている。「推定正義」が事実によって反証されたら、メディアの威信が低下すると思っている。でも、話は逆なんです。事実によって反証されたら「推定」をただちに撤回することがむしろ、メディアの中立的で冷静な判断力を保証するのです。

 
 「推定正義」を貫くメディアの姿勢に大きな問題があるとの考えです。これも、実感として首肯できる点ですね。

 さらに、こういう一種独善的なメディアの暴走は、「メディアとしての矜持」の喪失に根源があるようです。

 
(p93より引用) 具体的現実そのものではなく、「報道されているもの」を平気で第一次資料として取り出してくる。僕はこれがメディアの暴走の基本構造だと思います。

 
 これもそのとおりです。メディアが、直接情報源にリーチしないのであれば、まさに存在する意味はなくなります。
 一次情報の無条件な盲信に基づく情報の変形と拡散、こういったメディアの暴走の増幅が、すでにネットの世界では通常状況として起こっています。内田氏の用語を借りると、「発した言葉の最終責任を引き受ける生身の個人」が見えないのです。ネットにおける匿名情報の危うさが拡大している今こそ、顔の見える個としての責任あるメディアが復権する機会なのです。

 「どうしても言っておきたいこと」を語っているかが、メディアの命脈をつなぐものだと内田氏は説いています。ここにメディアとしてのraison d'êtreがあるのです。「自分しか語らない」、すなわち「語る自分」を確固たるものとしているか、それは別にNew mediaであろうとOld mediaであろうと関係はありません。
 要は「個としての主体的責任」に根源的な存在意義を認めているか否かの問題です。
 
 

街場のメディア論 (光文社新書) 街場のメディア論 (光文社新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2010-08-17

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分探し (街場のメディア論(内田 樹))

2011-01-03 12:55:09 | 本と雑誌

 本書は、神戸女学院大学での内田氏の講義が原型となっていますので、当初想定されていている読者は「学生」です。

 近い将来社会に出て行く学生たちは、就職活動を通じて自分が携わる企業や仕事を探すことになります。それは、自分と仕事とのマッチングを模索する営みでもあります。
 大学においてキャリア教育を教える立場にもある内田氏は、この就職活動において学生たちが意識する「適性と天職」という発想の否定から講義を始めます。

 
(p21より引用) 与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。それがキャリア教育のめざす目標だと僕は考えています。この「選択的」というのが味噌なんです。「あなたの中に眠っているこれこれの能力を掘り起こして、開発してください」というふうに仕事のほうがリクエストしてくるんです。自分のほうから「私にはこれこれができます」とアピールするんじゃない。今しなければならない仕事に合わせて、自分の能力を選択的に開発するんです。

 
 この感覚は非常によく分かりますね。私も25年以上会社勤めをしているので、多くの若手・中堅社員をみてきていますが、仕事を通じて大きく伸びるかどうかは、まさにこの「発想の転換」の成否にかかっているように思います。

 もちろん、どんなことがあっても「仕事に合わせるべき」と言っているのではありません。

 
(p30より引用) 「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。

 
 「自分(の意思)」がすべてではないということです。「自分探し」で仮に(どんなものか分かりませんが・・・)「自分」が見つかったとしても、それと「自分がやるべきこと」に関わることができるかは別物です。

 
(p30より引用) 人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うかどうか、そんなことはどうだっていいんです。

 
 内田氏のこのコメントは、かなり極端に振った言い方ではありますが、「他者への貢献を自己目的化する」と、そのエネルギーはものすごく大きなものになるというのは、そのとおりだと私も思います。

 本書の後半での「贈与経済」についての立論でも、内田氏は、「他者との関係性」という視点からその理路を説いています。

 
(p207より引用) 今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛ての贈り物」だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。

 
 最終講での内田氏からのエールです。
 
 

街場のメディア論 (光文社新書) 街場のメディア論 (光文社新書)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2010-08-17

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池上彰の学べるニュース(池上 彰)

2011-01-01 12:26:39 | 本と雑誌

 2010年の顔といってもいいほどの池上彰氏の本です。

 シリーズものですが、ちょっと前に「池上彰の学べるニュース2」の方を先に読みました。そうなったのも特に理由があるわけではなく、たまたま図書館の予約の順番の都合によるものです。
 この第1作目で取り上げられているのは10テーマ。目次を辿ると、「国家予算」「政治資金規正法」「連立政権」「JAL破綻」「デフレ」「環境問題」「医療崩壊」「日本の教育」「マグロ」「国際情勢」と並んでいます。

 出版のタイミングが民主党政権が成立した時期と重なっていますから、それに関わる内容が大半です。
 たとえば、「民主党がマニュフェストで掲げた『高校無償化』」について解説したくだりから。

 
(p131より引用) 先進国30カ国のなかで、公立高校に授業料があるのは、日本、韓国、イタリア、ポルトガルの4カ国だけって、知ってました?・・・
 実はこれに関しては、いまから40年以上も前の1966年に国連が「国際人権規約13条2項b」に、こう定めています。
「中学・高校へ無償教育の導入により、すべての者に機会を与えること」・・・これを認めていないのが、日本とマダガスカルの2カ国だけだったのです。

 
 この項の解説でも「官僚主導から政治主導」へという流れのメリットが強調されています。「国際人権規約13条2項b」で無償化の方向性がうたわれているにもかかわらず、「高校は義務教育ではない」として、それに抵抗していたのが官僚、それを突き崩したのが政権交代による政府判断だという説明です。
 このような教育問題に加えて、医療問題・環境問題に関する章でも、同様の政権交代による希望的解説がみられます。

 さて、肝心の本書の内容です。
 先の「池上彰の学べるニュース2」の読後感を書いたエントリーでも触れましたが、読者層がどういったタイプなのかによって大きく評価は異なるでしょうね。ちょっと社会問題に関心を持ち始めた中学生あたりには「入門書」として手ごろかもしれません。
 
 

池上彰の学べるニュース 池上彰の学べるニュース
価格:¥ 1,100(税込)
発売日:2010-05-27

 
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い
 
TREview
TREviewブログランキング
 
人気ブログランキングへ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする