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大道廃れて、仁義有り (老子(金谷治))

2006-09-09 15:50:51 | 本と雑誌

Roushi_1  「老子」という人物については、実在したかどうか諸説あるようです。

 ただ、老子が実在の人物であろうとなかろうと、上編を道経、下編を徳経という全体で5000字余りの小さな書物としての「老子」は、東洋の思想と文化に絶大な影響を与えました。
 この書物で説かれた教えは、他の学派が価値と考える聖賢の知恵や既成の倫理などを否定した独特の派として、東洋思想のひとつの大きな底流となって今に続いていることは紛れもない事実です。

 「老子」はしばしば孔子の教えと比較されます。

(p68より引用) 大道廃、有仁義。智慧出、有大偽。六親不和、有孝慈。国家昏乱、有貞臣。
(p68より引用) 仁義とか孝慈とか忠臣などという世間的な儒教の道義は、すべて真実なものが失われた結果としてあらわれたものだ、という。仁義が行なわれ忠臣孝子が出るのを良き時代と考えるのは、常識であるが、それを真向からうち破ったのである。道徳をことさらに強調する必要があるのは、それが失われて乱れた状態があるからではないか。・・・してみると、仁義道徳は第二義的なものである。第一義として求めなければならないものは、ほかならぬ「大道」の復活であった。

 老子によると、「仁義」は、「道」に達すると不要となるものだ、「道」が失われたために説かれ始めたものだ、とされます。

(p128より引用) 前識者、道之華、而愚之始。
(p127より引用) 仁愛や正義や礼儀などを人に先がけてわきまえるというさかしらの知恵は、まことの「道」の実質が失われたそのあだ花であって、そもそも愚劣のはじまりである。

 金谷氏は、以下のように解説します。

 (p128より引用) 孔子や孟子の唱える儒教の仁義道徳は、真実の「道」が行なわれていた古き良き時代には、必要もなく、また起りようもないものであった。無為自然な「道」のありかたが失われたために、そうした道徳が生まれた。

 孔孟の教えは、聖人が目指すべき究極の到達点ではないということです。

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