ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

旧千葉街道逆井の渡しから両国橋

2016年05月04日 07時45分30秒 | 歴史の小道

自宅は亀戸天神の近く、蔵前橋と京葉道路の中間にあります。

京葉道路の南側に旧千葉街道が走っています。自転車でリハビリを兼ねて江戸川区と江東区の堺の旧中川を渡って江戸川区側まで行き旧千葉街道を巡ってみました。

江戸川区側にある逆井の渡しの記念碑です。

小松川神社の入り口にも案内がありました。

江戸川区側から見た現在の逆井橋です。

左側の排水口は暗渠化されている堅川が中川に注いでいる出口です。

古地図で調べてみました。

左下の亀井戸村のところに中川と堅川の合流地点でありますが、そこのところに逆井の渡しと書いてあります。亀井戸村の上のハタとハタの間にあるのが浅間神社です。右上の神社が亀戸天神となっています。1800年ころの古地図ですが、両国に向かう千葉街道は整備されています。天神の上の掘割は横十間川で千葉街道との交差するところが旅所橋となります。

左上のとおろに社屋がありますが羅漢寺です。まだ五の橋ができていないようです。

江東区側には渡し跡の碑が立っています。

江戸川区でも江東区でもこの逆井の渡しの浮世絵を使っています。作者が江戸川区では安藤広重、江東区側では歌川広重になっています。

「歌川広重、幼名は安藤徳太郎、俗称は重右衛門、安藤重右衛門かつては安藤広重とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。」ということで江東区側の書き方の方が良いようです。

ここから右に行くと亀戸あさくさ古道になります。堅川に沿って両国方面に行くのが元佐倉道・旧千葉街道です。堅川は暗渠になり上を高速道路が走っています。

江東区内には旧千葉街道の案内が丁目ごとに出ています。

五の橋の所に碑です。

これは明治通りを管轄する都が管理しているものと思われます。

五の橋周辺を散策してみます。

入り口のところに五の橋の碑があります。

1879年に架けられたということですので、古地図には出ていません。

こちらは1846年の地図ですがこれにも載っていません。〇の所が五の橋のあるところです。近くに五百羅漢寺があり、ここにお参りする人が増えたこのなどで、架けられたと書いてあります。

今の羅漢寺です。

橋を渡って羅漢寺に行く道(明治通り)は「らかん通り」になっています。

 

五の橋の交差点のところ錦糸町方面に向かってみています。左に行くと羅漢寺、右が亀戸駅になります。

亀戸1丁目のところの案内です。間もなくまっすぐ行けなくなります。

横十間川に出ました。

旅所橋は昔この位置に架かっていたようです。

今は50mほど北側に架かっています。

旅所橋を渡って墨田区に入ります。

四つ目橋の近くで振り返ってみました。突き当りが横十間川のところになります。

四つ目通りの交差点は道はつながっていますが信号がないので渡れません。

墨田区に入ると旧千葉街道は横十間川から大横川までの間、両側がホテル街、いわゆるラブホテルが並んでいます。なんらかの歴史があるのでしょうか。大横川に交差するところでも行き止まりになっています。

ここを右折すると橋はなくて跡の碑がありました。撞木橋跡です。

 

 

以前はこんな橋があったという記事を見つけました。今のところからはまったく想像できません。堅川から北に2本目のこの道は墨田区で馬車通りと名付けられています。

ここを右南側にいくと

両国側からみた大横川との交差地点です。

あとはまっすぐ隅田川に架かる両国橋まで通っています。

 

両国橋はすこし北側になるので隅田川との交差する地点で右に曲がっています。今の両国橋とほぼ同じようなところに架かっていたようです。

この絵の左下にある橋が堅川に架かる一つ目の橋、橋の右側の通りが旧千葉街道ということになります。

古地図では下のようになっています。

今の両国橋です。

 

 

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