ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

旧安田庭園(墨田区横網)

2017年07月07日 23時43分09秒 | 名勝散策

墨田区役所職員のOB会が両国第一ホテルでありました。今年から幹事を引き受けたので早めに家を出ました。それでも早すぎたので、近くにある旧安田庭園を散策しました。前にも何回か行っていますが今回は隅々まで見て回りました。震災記念堂の方から入りました。

★ランドマーク旧安田庭園:この地は元禄4年(1691)、後の常陸国笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は、宗資が築造されたと伝えられていれる。中央に「心」字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。 

明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者初代安田善次郎氏の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年(1922)東京市に寄付された。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸宅跡は寄付者の名前を冠して「旧安田庭園」と命名した。昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による庭園として初めて一般に公開された。

昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に名園といわれた往時の姿に復元した。

平成8年(1996)明治時代の代表的な庭園として、東京都の「名勝」に指定された。(以下略)墨田区

指定理由:旧安田庭園は、大名庭園の1つ(潮入り池泉回遊式庭園)で、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的な庭園であることから、平成8年3月に「東京都指定名勝」となりました。

かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園でした。尚、このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園があります。 隅田川のよごれが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されています。現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプにて人工的に潮入が再現されています。

心字池から東京スカイツリーが見えます。

公園の一角に立つ建築中の建物は渋谷区にあった「刀剣博物館」が移転してくるそうで、この10月にもオープン予定のようです。

ここには以前両国公会堂でした。

2013年4月撮影

★ランドマーク両国公会堂:両国公会堂は安田財閥の寄付金をもとに、東京市政調査会によって建設されました。当時の名称は本所公会堂でした。竣工したのは大正15年(1926)。震災の記憶も生々しい時期でした。隣接する被服廠では、震災時の火事により数万人もの人が焼死し、本所一帯は焦土と化したのですから、この建物は復興の象徴のように映ったに違いありません。

しかし、やがて戦時下を迎えると、公会堂は食料配給所に当てられ、敗戦後には進駐軍のクラブとして接収されました。数奇な運命に翻弄された建築物といえます。800席たらずの小さな劇場でしたが解体され、跡地に建った建物は「刀剣博物館」になります。

この景色を背景に結婚式用の写真撮影をしていました。2013年4月撮影木が茂っていなければ、両国国技館の屋根が見えます。こちらも2013年の撮影の雪見灯篭です。

これは7月7日に撮ったものです。こんな燈籠もありました。心字池の中之島

汐入の何かを示す石碑のようですがわかりません。

こちらは11重の塔

こんな石碑が建っていました。

この脇には

駒止石: 三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。

しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休息したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が、忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀ったということだそうです

高札に描かれているのは、次の葛飾北斎の馬尽駒止石です。

こちらは駒止井戸です。

駒止稲荷神社です。

由緒書きは全く読めませんが、駒止石の由緒と同じように書かれているのでしょうか。狛犬

水盤は寛政12年{1800年)と銘記されています。

両国駅、国技館方面からの入り口です。

改装計画があるようで太鼓橋も朱の色が剥がれていました。これは2013年の撮影です。

こんな石像がありました。

日陰のアジサイはまだ見頃でした。少し早かったのですが、

真ん中奥のビルが第一ホテルですのでそこに向かいました。最上階25回から見た風景です。

庭園から隣に見えた両国国技館です。

東京スカイツリーもよく見えました。

 

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山口・瑠璃光寺

2014年10月10日 23時15分21秒 | 名勝散策

湯田温泉に泊まって、山口市内の施設を訪問しました。湯田温泉から山口は一駅です。静かなたたずまいの駅です。こんな人形が飾ってありました。大内人形と書いてあります。

山口県の伝統工芸ということで紹介されています。「大内塗とは、約600年前の大内弘世のころ、都にあこがれていた大内氏が京都から漆塗りの職人を山口に呼び寄せて漆器を盛んに作らせるようになり、産地として形成されていったのが始まりのようです。当時は、山口は日本の文化の中心といえるほどの繁栄ぶりで、大内塗の漆器や蒔絵(まきえ)が、明(中国)や朝鮮との重要な交易品となっていました。大内塗の代表的なものとして、器、盆などがありますが、とくに大内雛(おおうちびな)(大内人形)は、木地師ー下地師ー磨き師ーそれから塗師により漆がかけられ、絵師により顔や着物が描かれるといったように、完成まで多くの人手を必要とします。  漆の特徴として色あせないのが美しさの秘密で、土産品としても人気があります。」そして、大内人形は、弘世が京都から迎えた姫を慰めるため、人形をたくさん作らせたという伝承にちなみ、大正時代、山口県工業試験場によって原形が作られたのが始まりです。ということらしいです。

今回の山口出張では萩に行きたかったのですが、2泊3日の日程で訪問するには少し時間に無理がありあきらめました。そこで、瑠璃光寺を再訪しました。こんな「日本の歴史公園100選」に選ばれたという新しい碑もありました。国宝の瑠璃光寺五重塔です。

★ランドマーク瑠璃光寺五重塔:県の紹介によると「この五重塔は、応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、弟の盛見が建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したといわれていす。
塔は、方三間で高さが31.2m、建築様式はおおむね和様式で一部に唐様式が見られます。屋根は檜皮葺で、塔身部は上層部に向かって細くなっており、非常にすっきりとした印象です。
室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに、大内文化の最高傑作であり、日本三名塔の一つにも数えられています。」ということだそうです。

山口市観光情報サイトより:「大内氏前期全盛の頃、25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営中、九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。
それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。

全国に現存する五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。ちなみに、日本三名塔の他2基は、奈良県の法隆寺と京都府の醍醐寺にある五重塔です。また、檜皮葺屋根造りのものは瑠璃光寺の他に、奈良県の室生寺と長谷寺、そして広島県の厳島神社にもあります。

この国宝、五重塔は観光山口のシンボルとして桜や楓の裏山を背に、大内文化を優雅に伝えています。また、夜間は日没から22:00までライトアップされ、夜も見どころの一つです。」

紅葉には少し早いようです。脇にこんな碑がありました。司馬遼太郎の「街道をゆく」から

★ランドマーク瑠璃光寺:瑠璃光寺は、文明3年(1471)陶弘房の夫人が夫の菩提をとむらうために、現在の山口市仁保高野に創建した寺で、はじめ安養寺といっていたが、明応元年(1492)に瑠璃光寺と改められました。この地にあった香積寺は、慶長9年(1604)に萩に移され、その後にこの瑠璃光寺が元禄3年(1690)に仁保から移り来たものです。曹洞宗で山号を保寧山といい、薬師如来が本尊です。防長屈指の大寺で、経文や画像など多くの寺宝が所蔵されている」ということです。国宝の五重塔は香積寺の遺構だそうです。

本堂

曹洞宗ということで大本山は永平寺と總持寺です。

瑠璃光寺のご本尊は「薬師如来」。ここにはとても珍しい大念珠があります。心を落ち着かせ、無病息災を願って一球ずつゆっくりと、8個まで落とすのだそうです。熱心にお祈りしていました。

隣は「毛利家墓所」(13代から15代まで)ですがここに上る階段の前の石畳は「うぐいす張りの石畳」と呼ばれています。

★ランドマークうぐいす張りの石畳:「うぐいす張りの石畳」とは,山口市香山公園の中の毛利家墓所の参道にある石段及び石畳のことです。この石畳の上で拍手や足踏みなどをすると,うぐいすの鳴き声?のような不思議な音が聞こえます。

この場所で踏みをするか、手を叩くと、前の石段に反響してウグイスの鳴く声に聞こえるということだそうです。遠慮がちにたたいてみましたがよく聞こえませんでした。この隣は洞春寺です鐘楼門とこちらが観音堂です。

★ランドマーク洞春寺観音堂:この観音堂は上宇野令滝の観音寺にあったものです。観音寺は大内義弘の子持盛が豊前国篠崎で戦死した後、菩提寺としたところです。観音寺は後に勝音寺と改まり、さらに毛利氏の時代になってからは大通院と称していました。堂は朽廃が著しかったのですが、大正4年に洞春寺境内に移建しました。

桁行三間、梁間三間、一重もこし附入母屋造り、銅板葺(修理前こけら葺)の建物です。永享2年(1430年)建立ということが厨子裏の板銘にあります。床は禅風の四半敷瓦です。須弥壇は束の間に格狭間が入っていて、純粋な禅宗様式とはいえません。蹴込板には色彩を施した蓮の彫刻があり、室町時代の特徴をよく出しています。岩屋造り厨子も当初のままと思われます。現在山門とともに重要文化財となっています。(重要文化財)

★ランドマーク洞春寺山門:洞春寺は毛利元就の菩提寺ですが、この地には古く、応永11年(1404年)大内盛見が天下泰平、家内繁栄の祈願所として建立した国清寺がありました。毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元の菩提寺となりましたが、後に元就の菩提寺となり洞春寺と称しました。現在の洞春寺本堂は、江戸時代に焼失して再建されたものですが、山門は国清寺創建当時のものと思われます。材料の一部に江戸時代の後補のものが見られますが、構造手法は雄健で、特に彫刻のない大きな板蟇又は当時の禅風山門の特色をよくあらわしています。屋根は切妻造り、桟瓦葺であるが、もとは檜皮かこけらで葺かれていたと思われます。(重要文化財)

施設まで歩いてみました。途中は山口県庁です。県庁はお堀に囲まれていて、堀には白鳥がいました。前回と同じ食堂で昼食を摂り仕事に向かいました。

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