ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

西新井大師(江戸名所図会めぐり、訪問日2018.12.27)

2019年01月10日 10時59分15秒 | 江戸名所図会めぐり

久しぶりに江戸名所図会めぐりです。暮れに西新井大師に行ってきました。

★ランドマーク西新井大師:西新井大師は五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)といい、真言宗豊山派の寺院です。

真言宗豊山派の総持寺は、五智山遍照院と号し、西新井大師と呼ばれています。西新井大師総持寺は、826年弘法大師が創建したと伝えられ、本堂の西側に加持水の井戸があったことから当地周辺が西新井と呼ばれるようになったといいます。慶安元年(1648)寺領25石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。川崎大師平間寺、観福寺大師堂(前橋厄除大師)と共に関東三大師の一つ、関東八十八ヶ所霊場特別、関東三十六不動の26番不動、荒川辺八十八ヶ所霊場37番、38番、荒綾八十八ヶ所霊場1番、新四国四箇領八十八ヵ所霊場1番、武蔵国八十八ヶ所霊場1番札所です。「猫の足あと」よりhttps://tesshow.jp/adachi/temple_nishiarai_soji.html

厄除の祈願書として:厄災消除の祈願寺として創建されました当山は、江戸時代には女性の厄除け祈願所として名を馳せました。 現在、東京のみならず埼玉や千葉など関東近県よりも多くの善男善女が訪れる厄除けの霊場として栄え、また厄除けだけでなく様々な所願成就やお子様の初参り、七五三等も毎日の護摩祈願にて行っております。西新井大師のPHよりhttp://www.nishiaraidaishi.or.jp/

【山門】 江戸時代後期の建立、両脇に金剛力士像がまつってあります。阿像

吽像

江戸名所図会より「西新井太子堂」

「毎月廿一日開扉(かいひ)あり」とかかれています。画面中央に「楼門」があり、その正面に「本堂」、「方丈」、「護摩堂」、「加持水」があります。

【塩地蔵】 特にいぼ取りに霊験ありと伝えられています。

【六角観音堂】 聖観世音菩薩像をまつっています。通称ぼたん観音

水屋 

ピラカンサスが真っ赤になっていました。

【大日如来像】 文政年間の建立、出羽三山の一つの湯殿山の大日如来を勧請したものです。

【水洗い地蔵】 十種の福徳が授かり特に寿命長遠の功徳があるとされています。

【鐘楼堂】 大晦日の深夜零時から新年を迎える鐘の音が響きます。

【大本堂】 昭和47年落慶 本尊の 十一面観音と弘法大師がまつられています。

【加持水】 加持水の井戸 西新井の地名の由来となった井戸です。

【水子地蔵】 水子供養が行われます。

【 不動堂 】 関東三十六不動霊場の二十六番札所です。

【 四国八十八箇所お砂踏み霊場 】 厄除弘法大師のご利益と観音慈悲の功徳を一時に与えて下さる礼拝所。

【 稚児大師像】 お大師様の幼少の頃の像です。子育て、学業成就のご利益があるそうです。

【弁天堂】 七福神の一人・弁財天をまつってあります。

【 権現堂 】 当山建立の折、地鎮のため権現様をまつったことに始まります。

【十三重宝塔】 恵果阿閤梨より受け継がれた仏舎利一粒が納められています。

【 弘法大師立像】 大師が四国を行脚された時の姿のようです。

【三匝堂】 一匝に八十八体大師像、二匝に十三佛、三匝に五智如来と二十五菩薩をまつっています。

次はできたばかりの【東門 】 です。平成26年落慶

こちらは

【光明殿】 法事等の仏事はここで行われます。西新井大師駅に一番近くなので、ここが本堂かと間違えました。

「八角堂(大師堂)」

2018年の暮れ(12月27日)に行ったので、正月飾りの角松などを準備していました。

こんな絵もありました。

わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」~大人の塗り絵より

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萩寺・龍眼寺(江東区亀戸3丁目)

2018年10月15日 23時19分04秒 | 江戸名所図会めぐり

萩が見ごろと思って近くの萩寺(龍眼寺)を散策しました。最近は毎年のように見に来ていますが、ここ数年では萩の花がよく咲いていました。

★ランドマーク龍眼寺:天台宗 慈雲山 無量院 龍眼寺 (萩寺)
龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。

境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉、落合直文など文人墨客の句碑が昔の風情を偲ばせます。(お寺さんのHPより)

江戸名所図会より

このように江戸時代は賑わっていたようです。

 

わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」 大人の塗り絵より。

キャプション: 庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ)に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし。

萩の花です。

 

歌碑

庚申塔も萩に覆われていました。

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西向天神社(大窪天満宮)江戸名所図会めぐり

2018年07月30日 20時59分42秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿文化センターでうたごえ喫茶ともしびの行事が時々行われるので、行くたびに周辺を散策しています。文化センターの裏が天神小学校ということで周辺を散策したことがきっかけで西向天神社に出合えました。今回は切絵図にもある抜天神から法善寺に寄ってから西西向天神社に到着しました。切絵図の真ん中にある自証院には2018年1月に訪れています。江戸名所図会より、ここでは大窪天満宮となっています。なかなか西向天神社と大窪天満宮が結び付きませんでした。

説明書き「社壇西へ向かふ、ゆえに西向きといひ、または棗(なつめ)の天神と称すれども、棗の由来しるべからず。 境内すこぶる幽邃(ゆうすい)あり。」

入った左手に神輿蔵があります。

左奥に富士塚です。

富士塚は天保13年(1842年)に築かれたようですが、大正14年6月に再築記念と書かれています。大震災で壊れでもしたのでしょうか。

古地図でも不二と大きく描かれています。

★ランドマーク西向天神社:古くから東大久保村の鎮守社であり、かつては大久保天満宮と言いました。現在でも広い境内を持ち、椎の木などが森をなしています。菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものです。西向天神社という名は、地形上、社殿が西方(京都)を向いていたからつけられたものです。他に棗(なつめ)天神という俗称もあります。これは、寛永年間(1630年代)に、三大将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた当社を見て、社殿等の修復のために金の棗の茶入れを下賜して再興を促した、という伝承によるものです。また、慶安から天和年間には、桜の名所であったことも書物に残されています。境内には富士塚があります。

西向天神祠碑

神楽殿

★神楽殿鏡板の絵:根本に笹をあしらった一本松の彩色の版画であり、大和絵の大家である高取雅成が描いたものということだそうです。 

拝殿手水舎百度石鳥居

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より、この階段にある鳥居が正門のようです。

棗という字は読めませんでした。

江戸名所図会の中ほどにある坂が

山吹坂のようです。

上がったところは

大聖院です。

★ランドマーク大聖院:大聖院は、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。

その他西向天神社の境内には

大久保菅公廟碑

こんな石仏や紅葉園の中には庚申塔もあるようです。こちらは紅梅園です。

新宿の女の歌碑です。

★ランドマーク新宿の女の歌碑:「新宿の女」を作詞した石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して平成11年(1999)に建てられたものだそうです。

歌碑の由来として、「昭和44年9月25日『新宿の女』で、この西向天神より二人の若者が旅立っていき、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み、伝説として語られるようになった。」と書かれています。

西向天神社は、「新宿の女」のキャンペーンのために二人が新宿の飲み屋街を25時間ぶっ続けで流して回るという「新宿25時間キャンペーン」のスタートを切った記念の場所とのことです。

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大久保七面宮(法善寺新宿)江戸名所図会めぐり

2018年07月29日 20時53分52秒 | 江戸名所図会めぐり

何度か近くに来ていましたが、法善寺に行き着きませんでした。今回は抜弁天を経由してからようやく到着しました。大江戸線の東新宿駅から切絵図にある久保寺門坂でしょうかここを登って広小路のような交差点の先に抜弁天・厳島神社がありました。

左側から入ってみました。

今でも通り抜けられるようになっています。

★ランドマーク抜弁天:今はもう地名のようになってしまいましたが、その昔は源義家が祈願した厳島神社がありました。この近くを旧鎌倉街道が通っていたために源義家の伝説があるのだといわれています。

境内が南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜くための弁天社、いわゆる抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天、山の手七福神の一つに数えられました。神社付近一帯は、江戸時代の犬小屋跡です。

五代将軍徳川綱吉は天和2年(1682)に世継の徳松を亡くした悲しみから、貞享2年(1685)以降、数回にわたり生類憐れみの令を出しました。元禄8年(1695)には中野に一六万坪、大久保に二万五千坪の犬小屋を設けて野犬を収容しました。同年十月には四万二千匹に達したといわれています。(新宿観光振興協会HPより)手水場の流れの所にカワニナが生息しています。ホタルが見られるのでしょうか。拝殿

反対側の鳥居です。脇に由緒書きがありました。

七福神の案内もあり、次に行く法善寺がよくわかりました。

まねき通りというところを歩いて

法善寺に着きました。

★ランドマーク法善寺:日蓮宗の寺院で、正式名を「春時山光晴法善寺」といいます。山の手七福神のひとつ『寿老人』をまつるほか、本堂には保存状態も良好な極彩色の『七面明神像』(新宿区指定有形文化財)が安置されています。

七面明神とは、山梨県身延山の北にそびえる七面山に住む女神のこと。これは、日蓮宗総本山身延山久遠寺の鎮守です。法善寺の『七面明神像』は、唐風の衣裳に宝冠をかぶり、左手に火炎如意宝珠、右手に鍵を持ちます。鍵は正法を開いて人々を救うことを意味し、宝珠は仏に献上して成仏を約束された品といわれています。中正院日護上人の作と伝えられ、万治年間(1658~60)に駿河国から移され、江戸で最初にまつられた七面明神とされています。

七面明神像

本堂春時山と書かれています。ひなびた感じがいいのですが江戸名所図会に載るほどのお寺さんではちょっと寂しい観がありました。寿老人はこの中にあるようです。

こちらの菩薩は善行菩薩さんです。

★菩薩:『舎利弗阿毘曇論』では「菩薩とは他の教えによらないで自力で悟る人,三十二相を成就している人,将来仏の十力,四無所畏などを成就する人,将来大慈を成就して転法輪をなす人」と定義されている。江戸名所図会にも紹介されています。江戸名所図会より

境内には七面大明神が読めます。歌碑でしょうか。

何かの台石のようです。白の百日紅が咲いていました。ここから西向天神社に向かいました。途中に木槿が咲いていました。

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与楽寺(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月21日 22時57分48秒 | 江戸名所図会めぐり

東覚寺を散策してから与楽寺向かいました。だいたいの地図を頭に入れていたので、記憶に沿って歩いて行きました。

江戸名所図会の右下のところに輿楽寺六阿弥陀と書かれています。

雲がかかっているところが田端切通しでそれを横切って歩いてくるとこの標識に出合いました。

★ランドマーク与楽寺坂:坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。平成5年 東京都北区教育委員会

入り口は坂を昇るのか下るのか迷い一瞬登りかけましたが、気をとりなして下りました。当らしい山門が見えました。

★ランドマーク与楽寺:真言宗豊山派寺院で、宝珠山地蔵院と号し、与楽寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われています。慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていたと言われ、江戸六阿弥陀4番、御府内八十八ヶ所霊場56番札所、豊島八十八ヶ所霊場6番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場21番札所でとなっています。

入り口は脇道で、境内に入る手前に弘法大師像や

札所を示す石碑や

六阿弥陀第四番の仏塔などがありました

切絵図にも六アミダ四番と書かれています。我が家の近くに常光寺があるので、調べてみました。

★江戸六阿弥陀とは:江戸六阿弥陀は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。

1番西福寺:(北区豊島2-14-1) 西方浄土に生まれ出る徳利益を授ける

2番恵明寺:(旧延命院足立区江北2-4-3) 家内安全・息災延命の御利益を授ける寺

3番無量寺:北区西ケ原1-34-8 福寿無量に諸願を成就させる

4番与楽寺:北区田端1-25-1 我ら一切の者に安える

5番常楽院:調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷広小路)に一家和の福徳を授ける寺

6番常光寺:江東区亀戸4-48-3 未来は明を放つ身を得させる

猫の足あと より


★ランドマーク賊除地蔵の伝承地:与楽寺は、江戸時代には二十石の朱印高を拝領する寺院で、境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀如来は女人成仏の本尊として広く信仰を集め、六阿弥陀参詣の第四番札所ともなっています。本尊の地蔵菩薩は秘仏となっていますが、次のような伝承がありました。

 「ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしましたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。これより本尊の地蔵菩薩は、賊除地蔵と称されるようになりました。」

これが与楽寺の賊除地蔵伝説です。釈迦が入滅してから56億7000万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされますが、地蔵菩薩は、この時代に、みずからの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。

 江戸時代になると地蔵菩薩は、人々の全ての願望を叶える仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。

平成元年三月 東京都北区教育委員会

関東大震災の遭難被災者供養塔がありました。大正13年9月起工と書かれています。

境内にはいろいろな建物がありました。本堂

阿弥陀堂阿弥陀堂の水盤

石仏、仏塔もいろいろとありました。

山の上まで墓石が建っています。

鐘楼です。

井戸もまだ使っているようです。

 

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