ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

ハナズオウ・チューリップ、猿江公園

2016年04月09日 20時56分27秒 | 周辺散歩

テニスパートナーが舌癌の手術をしたので、都立墨東病院に見まいにいきました。もう来週半ばには退院とのことでした。面会室から猿江公園のテニスコートや桜、横十間川となどが病院12階の窓越しに見えました。この日はまったく歩いていないので、リハビリを兼ねて散策してみました。(ほとんど自転車での移動ですが)。

病院の自転車置き場の生け垣がピンクだったので見てみると

ベニバナトキワマンサクでした。

猿江公園に入るとすぐに見えたのがこのピンクの花でした。

前にも見ているのですが、花の名前はすぐに忘れてしまうので調べてみたらハナズオウでした。

満開?です。

桜はすで花絨毯でした。

公園管理事務所のところにピンクの花これもベニバナトキワマンサクでした。

探してみると結構あるのだと思いました。

こちらは椿、この花は写真映りが難しいのであまり撮らないのですが、白ピンクの花につられて撮りました。

奥に進んで新大橋通りに近い花壇はチューリップが満開でした。

一瞬、別世界のような感じでした。

さまざまな色のチューリップが咲いていました。

周りには写真を撮る人が集まっていました。

これは八重のチューリップとでもいうのでしょうか。

お兄さんが筒を配置していたので聞いたところ夜はロウソクが入ると言っていました。夜は一段ときれいになるのでしょうね。

黄色とか赤とかは普通のチューリップという感じですが。

複色の花も良いですが

単色もいいです。単色でも紫はあまり見ませんが。

オレンジの花は形で勝負ということでしょうか。

夜はロウソクが入るそうですが、残念ながら不自由な足ではちょっと出かける気になりませんでした。

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亀戸天神・アオサギ

2016年04月05日 17時30分07秒 | 周辺散歩

リハビリで29日以来亀戸天神に行ってきました。自宅からの歩きでなく自転車で行き境内を一回りしてきました。桜は満開になっていました。

曇り空でちょっと残念でしたが、スカイツリーも良く見えていました。

池には久しぶりにアオサギが来ていました。

中の島からの桜とスカイツリーでした。

一回りしてみました。

五歳の菅公です。

ポール立てに書いてある「和魂漢才」は日本固有の精神と中国伝来の学問の才。また、日本古来 の精神を失わずに、中国の学問を消化し活用すべきであるということ。▽「和魂」は日本 固有の精神のこと。「漢才」は中国の学問・知識の意。 ということだそうです。

クスノキの新芽が光っていました。

脇に回ると中江兆民の碑

ランドマーク【中江兆民の碑】この中江兆民の碑はその建立の理由は不明らしいですが、「兆民全集等によると、明治40 年に板垣退助、大隈重信らが発起し、友人門下生らに
よって建てられたと書かれている。」そうです。

中江兆民:1847(弘化4)年11月1日、土佐藩高知に生まれる。本名は中江篤助。1871(明治4)年、フランスへ留学。 1874年に帰国後、自身が創設した仏蘭西学舎(のち「仏学塾」と改称)を中心に、フランスから持ち帰った思想を広める。そのなかでもルソーを日本に紹介 した功績は大きく、「東洋のルソー」とも呼ばれる。主に自由民権論の理論的指導者として活躍し、1890年には衆議院議員となるも政界に失望して翌年に辞 職。以後実業に手を出すも悉く失敗。1901年4月咽頭癌と宣告され、同年12月13日永眠。

隣に国産マッチの創始者清水誠氏の碑がありました。

★ランドマーク 清水誠の頌

国産マッチの創始者  清水誠の頌
岸 信人 書

 人類は 原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明 を築いてきた 日本の近代文明もまた 西欧からマッチの製法 を輸入し これを改良工夫した先人の努力によって 飛躍的に 発展したのである その創始の時が今から丁度百年前であり その創始者が清水誠氏である 清水氏は弘化二年(1845年) 金沢で生まれ 明治三年幕命を受けてフランスに留学しパリ工 芸大学に学んだ 専攻は造船学であったが 明治七年たまたま在 仏中の宮内次官吉井友美氏の勧めによって マッチの製造を決 意して 帰朝した 翌八年(1875年)四月には 本務の造 船技師のかたわら 東京三田の仮工場で 早くもマッチの製造 に着手した 明治九年九月本所柳原町に工場を新設して新燧社 を興し 同十二月には 官職をやめて その経営に没頭した 翌十年九月には 初めて国産マッチを上海に輸出し 好評を博 した 明治十一年七月再びフランスに渡り ドイツ スウェー デンのマッチ事業を視察して帰り 以来ますますその改良に苦 心し増産につとめた その後打ち続く不 況に見舞われ 逐に二十一年には業界か ら引退して郷里金沢に帰った しかし その後もなおマッチ製造機の改良に情熱 を燃やし 二十九年新鋭機の特許をとり 翌二十年大阪に出て その製造に従事し た 明治三十二年(1899年)二月八 日病をえて没した 時に年五十四才であ る 大正四年政府はその功績を賞して従 五位を遺贈した なお没後間もなく当亀 戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てら れたが今次の戦災によって破損したまま になっていた 今年あたかも国産マッチ 創始百年に当たり 業界の有志によって 新しく再建されることになった ここにそ の由来を誌し先人の功をたたえ 一文を 草して頌辞とする

昭和五十年五月十二日
 文学博士
 内野 吾郎 撰

帰りがけにもう一度桜を見て見ました。

 

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退院自主トレ・亀戸天神桜咲く

2016年03月27日 20時54分02秒 | 周辺散歩

リハビリ病院を3月25日に退院しました。これからのリハビリは自主トレ(自主リハ)が中心になります。毎日3000歩ほどは歩きたいので、出かける予定のない日は朝、亀戸天神まで歩くのを課題にしました。

3月26日に早速亀戸天神まで歩いてみました境内に炭のようなものがたくさん落ちていました。こんなものもありました。

調べてみると3月25日の夜、神忌祭があったようです。亀戸天神のHPによると神忌祭とは 

「天神様が亡くなられた忌日に行われますので「神忌祭」と呼ばれ、葬送の遺制をかたどったところから「葬式祭」ともいわれています。
また祭に列なる松明(たいまつ)が印象的なので、近隣の人たちは「松明祭」と呼んでいます。
 天神様にゆかり深い紅白の梅ヶ枝をご神霊にみたて、四方を白布で絹垣(きぬがき)を囲み奉り、
前後に執り物や松明がお供して奏楽の中を神苑を巡行します。」

翌日の27日も行ってみましたが鳥居のところにある桜は少し早かったようです。

晴れるとなかなかの風景です。

いつもは太鼓橋は渡らないのですが、二つ目の太鼓橋を杖をつきながら渡ってみました。橋の上からの拝殿です。

あまり花がないのでこんなものを撮ってみました。

帰りに団地の花壇に咲いていた木瓜を撮りました。

午後は錦糸公園に行ってみました。

古い桜の木は早めに咲いていました。

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最後の一時帰宅・法恩寺

2016年03月20日 18時24分31秒 | 周辺散歩

退院予定日が一週間延びて、今回が最後の一時帰宅になるかと思いますが、金曜日の夜から帰宅しています。昨日今日とリハビリを兼ねて周辺を自転車で移動してきました。昨日は鬼平犯科帳に関係する法恩寺に行ってみました。

★ランドマーク法恩寺開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。道灌公長禄2年(1458)江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この付近を平河村と称したものである。当山には秀吉家康共に小憩され又、朱印地も与えられた。家康江戸城に入り、城内拡大に当たって当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年現在の地に移されたのである。当時塔中二十ヵ寺、末寺十一ヵ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭遇するも檀信徒並地元の外護により再建され昭和29年10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。

墨田区の鬼平情景という案内板がありました。

法恩寺は太田道灌が祈願所を設けたのが起源となっています。

★ランドマーク道灌公記念碑太田道灌道灌山吹伝説【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】

太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。

その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。

 

本堂の脇に平河清水稲荷がありました。

これは三重塔の鐘楼です。

団地周辺は雪柳がもう少しで満開というところです。

桃の花も咲き始めています。

夕方テニス仲間のところに顔を出してみました。コートから夕日が見えたので自宅に戻りました。

いつも見ている病棟の窓からの夕陽とは少し違い開放的に見ることができました。

これから病院に戻り22日~24日の3日間リハビリをして25日に退院となります。

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アジサイの花にスカイツリーの夕陽

2015年06月11日 23時12分08秒 | 周辺散歩

48時間が1日のような生活になってしまいました。24時間ぶりに外に出て、団地のまわりのアジサイを撮りました。足元がぐらつくのでピントもよく合わない状況です。いろいろな種類のアジサイがあるようです。

でもこの紫の花が一般的でしょうか。

こちらは部屋から見える夕日です。

少し時間が経つと暗くなって夕陽が鮮やかです。暗い夜空にスカイツリーのシルエットです。

ビル・マンションがほとんどです。

 

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